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神道の神観について
誠実な質問のつもりです。 よろしくお願いします。 私はクリスチャンですが、自分が知らないものを軽率に否定するつもりはなく、神道を頭ごなしに否定するつもりは全くありません。 ただ、ふと素朴に思った疑問なのですが、キリスト教の神は力ある神、人格を持った神として信じられています。 そうした観念の中、フと神道の八百万の神観が解っていない事に気づきました。 例えば神道では水や風、雷や木、花等々あらゆるものを神と捉えていると理解しています(が間違いありませんでしょうか)が、そうだとした場合、人間が工業廃水などで汚染した水や空気等が自浄作用及ばずどんどん汚染されて行く現状は神道的にはどういう理解になるのでしょう。 キリスト教の絶対神が所謂「天之御中主の神」と同じ様な絶対神であって、水や風など他の存在としての神との間には等級の差異があり、言葉が良くありませんが「低級神」として捉え、これらはその低級の故に力及ばず汚染されて行く。のような考え方になるのでしょうか。 と言うのは仮にも「神」と名がついている存在が人間の世話にならないとやって行けないというのはクリスチャン的には理解し難いのです。 真面目な質問のつもりなので、どうかお怒りにならずお応え頂けます様お願い申し上げます。
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- mizutaki
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認識の形式の範囲内での信仰というので大体あっているという感じですね。 問題のある神を信仰する事によりどうなるのか?という事でしょうか? 人間に悪人が居れば、神にも邪神がいます。 当りならいい目を見れるけど、ハズレなら悪い目を見ます。 というか、善悪で判断せずに、自分と関係があるかどうかで判断してるというところですね。 普通、人と接する時に、善悪だけで判断はしない。そんな感じです。 そして悪い人が善人とふれあう事により、悪い人がいい人になる事も別に珍しくないのです。
- mizutaki
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※フェルマーの最終定理:数学者フェルマーが予想し証明したと言われる定理だが、証明の為の式が無く、実際にその定理を証明するまでに360年間かかった、数学界の超難問。 夜遅いので出来るだけ簡潔に書くようにします。 神様は人の隣人であり、私がキーボードかちかちしてる次元よりいくつか多い次元に住んでる住人。 人が宇宙という存在を知った時に宇宙という概念が生まれたように、神様も人が存在を作り出した時から存在している概念。 んー、つまりは人が神を作り出した。その作り出した中で神は世界を作ったりしてる。だけど、神は時々世界に干渉し人に力を見せつける。 たぶんそんな感じなのです。 古来の日本人は神道や仏教を信仰しながら、神が天地を作ったという“物語”を理解しながら信仰していたと言えます。 人が作った神話の上に神様は居る。だけどその神の存在は自然界に何らかの現象を及ぼしてるから、やっぱり神様はいる。そんな鶏と卵みたいな物の中で、「とりあえず、自分の身近にいる神様に感謝して大切にすればよし」くらいの感覚で信仰していたと思います。 曖昧だけど、この考えってかなり柔軟に対応出来たりしますw
お礼
夜中にご回答ありがとうございます。 う~む。 今一腑に落ちませんがかと言って良い質問の仕方も思いつきませんね。。。 仰る事はあくまでも「人間の認識の形式の範囲内」のお話しをされているように思いましたが正しいでしょうか? もちろん、人間は自分の認識の形式を通してしか万物を認識/解釈できませんから、それで良いと言えば良いと言える一面があるのですが、そういう物ではなく、やはりそういう問題では無い様に思います。 「感謝」は確かにキー要素と言えると思いますが、悪魔崇拝者は悪魔に感謝している訳ですよね。 だとすると、「感謝=Good」という公式は成り立たないと思います。 やはり「感謝する対象」も大切な要素かと。 そこで、聖書の一句ですが、 「悪魔でさえ光の天使を装って人間を騙しに来る」という節があります。 つまり、一見善悪の区別がつかないという事です。 ですから、「とりあえず身近にいる神様”に感謝」というのはどうも。。。因に悪魔はキリスト教では「地上の神」という別名も持っています。 知らず知らずの内に崇拝すべきでない対象を崇拝するなんて事になるなんていう観念は神道にはないのでしょうか。
- mizutaki
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>自然が神であるなら、人間もまた神なのでしょうか。 そもそも神道には「神ではない者」が存在するのでしょうか。 また、「神」=「人間よりも高等な者」という認識は神道の中にあって当てはまるのでしょうか。 神道に於ける人間と神の関係も知らない事に気づきました(笑) この辺りはどうでしょうか。 もしかしたら哲学的な話になるかもしれませんが、返答してみます。 神=精霊は近いといいますか、神のカテゴリの中に精霊がいる。精霊のような事をしている者もいれば、あらゆる力を持っている者、人であったはずの存在が死後数十人を祟り殺した者もいます。それらをひっくるめて神と呼んでいるのです。 人間が森羅万象という存在そのものを操る事が出来ない代わりに、神がフェルマーの最終定理のような出題や飛行機の設計のヒントをくれる事はありません。 存在している次元が違うだけで、どちらも自分らには真似できないすごい力がありますから、 神から見た時の人間も、人間から見た時の神も、見え方はあまり変わらないかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 す、すみません。。。 フェルマーの最終定理というのが意味不明で調べたのですが、調べても理解できませんでした(汗) 文面上大切な箇所なのでここが理解できないと文全体の意味が漠然としてしまいます。 しかしながら、ふーむ。 そうすると、「全能の神」というのは存在しないのでしょうか? 仏教の曼荼羅の諸仏は実在ではなく、中心の大日如来の陰である的な話しを聞いたことがあります。陰とはいえ大日如来の陰ともなると実質を備えることもあり得る訳で。そこはキリスト教の天使も基本的には霊的な存在ですが、必要に応じて肉体を備える時もあるのと同じです。しかも天使は神の御心を確実に行なうので「神の陰」と言っても良い存在でしょう。 八百万の神というのは発生はどのようなものなのでしょう。 たしか混沌の中から天之御中主の神が別天津神に分かれて?生んで?秩序が生じ、イザナギとイザナミが天地を造ったみたいな話しだったと記憶していますが、正しいでしょうか。しかもこの時の天地というのはあくまでも地球に限った話しのように見えた記憶があります。 宇宙の諸事象、惑星、ブラックホール、星雲、恒星等々その他諸々のあらゆる事象や存在はどこから生じたのでしょうか? 創造者がいない限り、人間も偶然の産物と言うことになり、たまたま複雑極まりない構造の生命体になったと言うことになります。。。よね? そんなところには人間の尊厳もなにもなさそうな訳で。 霊とか魂とか物質はそもそもどこから生じたのか神道は答えを提示しているのでしょうか。
神道では人間も神になれますよ。 菅原道真だろうが、乃木将軍であろうが、祭られている人はたくさんいます。一般的には、死んでからですけど、現人神=天皇が、人間宣言するまではいたわけです。 一神教では「聖人」どまりですね。 わかりやすい考え方として、 無念な死に方をした人は祟る⇒祟るとは超能力があるということ⇒祟られないように神として祭り上げる⇒祟ることも出来る超能力は転じてご利益を期待できる あっちこっち神社があるのはこういう背景なのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 過去の人たちの内何人かが神として祭られているのは知っています。 ただ、私の意味は神道に於いて「神ではない者」と「神」との区別はどのようなものなのだろうと思ったのです。 「神」と言うからには、「神ではない者」よりも優れた者、高等な者というイメージがあります。だとすれば、ある特定の少数の人間しか神として祭られない現状は、大多数の人間は「神ではない者」という事になり、すなわち水や風などの神として祭られている存在よりも下等な者というイメージが湧くのです。 いかがでしょうか。 また、「神」の観念として「精霊」は正しい認識の仕方と言えるのでしょうか。。。 よろしくお願い致します。
- mizutaki
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日本の神様も人格を持っていますね。普通の人間と大して変わらない。 そして神様は万能ではなく、人間のように得意不得意や苦手な物もあったりします。 目には見えませんけど、至る所に神様は住んでるし、汚したらどこかで反撃してくるかもしれないし、神様関係する物を大切に扱えば恩を返してくれたりします。 神様に上位下位はありますが、人に影響力があるか無いか、知名度が高いか低いか、そんな感じの違いです。 日本の神様は、一番最初の神様が居ても、ピラミッド階級では無いのですよ。 現時点での最上級は「大国主」「天照大神」「建御名方命」「お稲荷様」「素戔嗚尊」「応神天皇」とかこの辺りになるんじゃないかな とか思っています。 最初の神である「天之御中主神」のような神様は天皇陛下のように一般人からは見えないところでの仕事が多いのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 自然が神であるなら、人間もまた神なのでしょうか。 そもそも神道には「神ではない者」が存在するのでしょうか。 また、「神」=「人間よりも高等な者」という認識は神道の中にあって当てはまるのでしょうか。 神道に於ける人間と神の関係も知らない事に気づきました(笑) この辺りはどうでしょうか。 よろしくお願い致します。
神学者でもなんでもない素人ですけど、 一神教の神様と多神教の神様は随分違います。 一神教は、「使命」をもった神です。多神教の場合は「存在」が全てといった感じです。 自然にあるべき存在を変えたい場合は、お祓いをし、お願いをします。木を切るのも家を建てるのにも大切なことです。無断ですると怒りをかいます。祟られる。低級上等というものはありません。それなりに祟ります。強いて言えば、たたりの強い神と穏やかな神がいます。 自然破壊、、、怒ってますよ、祟ってます。人の心が荒廃したのがそれであろうと私自身は思ってます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 聖書では、神があらゆる存在をお造りになり、人間もその内の一被造物ですが、人間には特別な権能が与えられ、神の代わりに自然を治めるという役割を与えられています。 つまり、キリスト教にとって自然は人間の被支配者であり、人間が自然の被支配者ではありませんから、恐れる事は何もないのです。 ただ、支配というと語弊があるかもしれませんので付け足しておくと、キリスト教の「支配」という言葉には所謂力関係の様なものは見られず、お互いに仕え合うようなイメージが近いと思います。 ですから、自然が人間の被支配者であると言っても人間が好き勝手に扱っていい者ではなく、人間もやはり自然をいたわり、支えるような関係と言えます。 「精霊」というイメージなら理解しやすいのですが、「精霊」ともまた違うのでしょうか。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 ご利益信仰的のようにも聞こえる気がするのですが、いかがでしょうか。 例えば自分に取ってご利益があれば、多少の問題のある神でも良いのような。失礼でしたら申し訳ありません。 例えば聖書には悪魔がイエスを誘惑する時「もし私を拝むならこの世界を全部あげよう、それは私に任されているからである」と言いますが、これに対してイエスはこう返します。「退け悪魔、ただ神のみに仕えよと聖書に書いてある」 つまり、自分に多大な利益を与えてくれる存在、しかも曲がりなりにも地上の神とまで名がついている者でも「悪魔」として扱われているのです。 この辺りはどうお考えになられますか?