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景観 (これからの問題として)

実は私の家の近くに最近14階建てのマンションが建って、私自身は非常に強い違和感を感じています。 マンションの南側にはのどかな畑やハケにつながる雑木林が広がり、かつての武蔵野の景観の素晴らしさを残しており、ハケの下からは雑木林がまるで小高い山のように連なって見えていたのですが、そのマンションの存在によって辺りは味も素っ気もない風景に変わってしまいました。 私の住まいの周辺はかつて30年前には鉄道の駅舎だけがポツンとあるのどかな農村でしたが、駅周辺の開発により風景は一変しました。私のマンションが建っている土地も20年前には雑木林だったそうです。雑木林を根こそぎ取り払って造成された土地に住んでいる。そう考えれば、私だって大きなことは言えないのかもしれません。 私はマンションの住人にもそれを建てた建設会社にも悪意はなかったはず、と思うので声を大にして「景観を返せ!」とは言えません。(価値観の違う相手を敵とみなすやり方は性に合わないので) でも、こういうマンションが建つと違和感を覚えてしまいます。 経済にも教育にも訴訟問題にも素人の私ですが、直感的にこういうことは教育の問題じゃないかな、と思ってしまうのですが、どうなんでしょう? 大都市近郊に住むドイツ人の知人の情報によるとだいぶ情況が違うそうです。明確な法律や取り決めがなくても景観が守られていると聞いてうらやましい限りです。 経済活動は後戻りできません。しかし、生産性を犠牲にしなくても開発の方向性や方法論などの違いで、結果はずいぶん変わってくると思いますし、その方向転換によって新しい経済活動も生まれるかもしれません。それを変えるには社会の仕組みが変わる必要があり、そのためには生産性優先に偏らない教育が必要・・・という風に素人考えですが、考えてしまいます。 こういう問題を私より深く掘り下げて考えておられる方、いかがでしょう。

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回答No.1

これは景観だけの問題だけでなく、交通、食物、サ-ビスどの分野においても日本は世界的の先進国の中で非常に遅れているというか倫理の認識が甘いという実態があります。 今、首都圏も不必要なビルが沢山作られ、その背景には政治家との癒着や税金使用の問題など様々です。これには教育の問題も確かにあると思いますが、まず日本人の物事に対する無関心さというのが根強いです。諸外国ではもし歴史ある建物を理不尽に取り壊すという事になると国民全体が決起してデモを行ったり世界中にそれをアピ-ルして世論を盛り上げて中止するよう訴えますけど、日本の場合はまずその意識がなく、あくまで周辺住人が決起するだけで県外になるともう無関心です。 これには民族的な性格というのも確かにありますけど、日本人特有の無関心病というのが非常に社会に根強く広がっているように見受けられます。米国のような合理的判断に比べ、日本は「付き合い」を重んじますから選挙も地方になると殆どが「付き合いだからこの人に入れる」というのがあります。そして例えばある政治家が建設会社と長年の付き合いをしてるから仕事を与えたいのでこのビルを作るとして会社側はそのお礼として莫大な金を渡すという薄汚いものが背景にあるのも事実です。 今の政治や社会を変える事は不可能に近いですからこれからの日本は教育、特に次世代に対する教育が大事だと思います。付き合いも大事ですが、真実を見極める目、合理的に物事を考える思考、そして何よりも「倫理」です。 特に役人系統の職に就く人は倫理と合理性を考える思考を身に着けさせないと絶対に同じ事を繰り返す事になります。 これからの世代は良くも悪くも価値観すべてが今の50代以上と全く変わっており、学歴社会から実力社会への変貌を遂げようとしています。故にいつかその理不尽さを真剣に考える時が来ると思います。まずこの社会不況によって、今の若者が何も考えないようになり無関心になるのが危険だと思います。 そしてもう一つ大事なのが企業の倫理を失った利益追求主義です。日本社会の荒廃の要因は高度経済成長から利益追求に死に物狂いになった結果として今の食物はまがい物だらけになり、金の為に倫理を失いつつある世の中になりつつある事です。 本題とややずれましたが、日本人は基本的に変化を嫌い、景観問題も企業の利益追求と自治体の無能経営の結果なので、2度と復活しない自然を失って一時的な利益を求め後は荒廃するだけの事が如何に愚かで自分たちと次世代の首を絞めているか、その問題を次世代に小さい頃から教えておく必要があると思います。今は金に目の眩んだ愚かな大人が多すぎるのです。

noname#3394
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 景観に対する他の国と違った認識というものは、やはりこの国が持っている良くも悪くも独特なものなのでしょうか。 >2度と復活しない自然を失って一時的な利益を求め後は荒廃するだけの事が如何に愚かで自分たちと次世代の首を絞めているか、その問題を次世代に小さい頃から教えておく必要があると思います。 そのとおりですね。 お金を儲けるのは別に悪いことではないのでしょうが、もっと頭のいい儲け方、気持ちのいい儲け方、将来を見据えた儲け方、使い方があるような気がします。あまりに目先の利益に走りすぎ。 元に戻らない貴重なものを簡単に壊して成り立つ経済発展なんて虚構のように思えます。未来の人たちに「あの時代の人たちはまったくアホなんだから~」と言われたくないですね。 また、よろしくお願いします。

noname#3394
質問者

補足

こういう問題に日頃からきちんとした意見を持った方は少ないようです。 貴重なご意見ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • ginga3104
  • ベストアンサー率23% (510/2208)
回答No.2

YenTricksさんより深く掘り下げては居ませんが、宜しいですか? 僕は景観と言うのは、その地域の美的水準を表していると思います。アメリカの校外の高級住宅街では、庭の手入れをしないと勧告を受けるそうです。 日本でそれにあたるのは、建築基準法の都市計画法の第2章第8条の地域地区によって定められており、主に住居地域や商業地域、工業地域などの用途地域分けられています。その用途地域で建てられる建物は制限されています。(庭の手入れまでは制限されていませんが(笑)) これらの用途地域以外にも歴史的価値が有る所や特に風光明媚なところなどは特に特別措置として残されるようになされています。これらは国が定めるほか、地方行政が条例として定める事も出来る訳です。 現在お住まいの地域はたぶん農業用地を土地改良して、住居も建てられる地域に行政が定めた所だと思われます。つまり、土地の所有者及び行政と言う名の地域住民の意志が反映されたと一応みなされている訳です。 ドイツやフランスなどの西欧先進国では、主に中世の時代に諸国の王族によって、土地の区画整理を終えているので、今更新規で土地の利用法を論議する余地が無いのも日本とは大きく異なります。 現在、この日本では地域合弁が進んでいます。この主な理由は行政のスリム化です。区分する地域が大きくなる事は一見、それぞれの地域の均一化が計られるように思われますが、実は、その地域の特性や個性が無い所は発展が望めず、地域固有の雰囲気が大事になってきます。 ですから、今後は景観も含めた「まちづくり」を行政だけでなくそこに住まう住民がやっていかないと生き残っていけません。実際にまちづくりを考えて行動する事が当たり前の時代になれば、全国チェーン店の看板一つとっても、その地域に応じたデザインにするべきという意見が出る事は必至で、今後50年単位での展望が必要になってくると思います。 このような掲示板で貴方と私が意見交換するように、ご近所でも、友達同士でも、仕事先でも、「自分の地域をどうしたいか?」との議論が高まれば、自ずと「素敵なまち」に徐々に変わっていくのではないでしょうか? と言う事で、景観まで考える精神的余裕がある我々が居る今が本当に大事です。今がチャンスだと言う事だと思います。如何ですか?

noname#3394
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >YenTricksさんより深く掘り下げては居ませんが、宜しいですか? いえいえ、こういう私の知らないことを具体的に教えていただいて、大変勉強になります。 やはり、その土地の個性というか歴史的背景を残した街作りが大切なのでしょうね。 どの地方都市に行っても同じような街の景観には旅情も薄れますし、そこに住んでいる人たちの郷土に対する思い入れも薄れていっているような気がします。 私の住まいがある地域も東京のベッドタウンですが、多くのサラリーマンにとって、寝に帰るだけの本当の「ベッドタウン」になってしまっているようです。 通勤や買い物に便利で安全に暮らせれば、自分たちの住んでいる街がどういう歴史を背負っているかなんてどうでもいいことなのでしょうか? 明治時代になって以降、政府によって日本語が共通語化、標準語化されたことや、地名の表記変更にほとんど大きな抵抗もなく、黙っておとなしく従ってきた国民性(?無関心さ?)も、こういうことに関係しているのではないかと思えるのですが。 >景観まで考える精神的余裕がある我々が居る今が本当に大事です。今がチャンスだと言う事だと思います。如何ですか? そうですね。同じような危惧を感じている人たちでもっと意見交換したいですね。 また、よろしくお願いします。

noname#3394
質問者

補足

こういう問題に日頃からきちんとした意見を持った方は少ないようです。 貴重なご意見ありがとうございました。