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症状を教えてください

精神科へ通っているものです。ジェイゾロフト、セパゾンを処方されています。 医師の診察では「病気の部分もあるけど、性格や生まれ持ったものが関係している」といっています。 自分では外に出たり、何かをするのは億劫で毎日眠気もあり「正常な」状態ではありません・・・・ 前にできていたこと、風呂掃除や飼い猫の世話・読書などいろいろなことが行動を起こすまでが苦痛です。 両親を手伝ってあげたいという気持ちはあり、話を聞いて「これやって」といわれるとそのときは手伝うつもりなのですが、いざ手伝うとなると嫌気がさし、寝ていたくなります。 だからといって病院で「家で安静にしていてください」とも言われないので両親とも最初は「怠けている・ワガママ」といっていました。 最近少しは変わってきましたが・・・・・。(なきながら病気だ!と訴えたりしたこともあって) 自分で自分のことを病気ということもできればしたくありません。(医師から「家で休みなさい」といわれてないのでなおさら) ただの怠けでしょうか?それとも病気の症状でしょうか? 「鬱状態は続いているけど鬱病ではない」といわれ以前行っていた病院では「重くはないけど軽くもない鬱・強迫神経症」といわれました。 いったいどういうふうに自分を考えたらいいんでしょう?疲れが出てきたら病気の症状と思って休むのがいいのでしょうか?休むのは医師に言われていない以上、怠けでしょうか?

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回答No.2

精神疾患と云うものは自分で自分を悩ませているものです。是は心の矛盾から生じています。心がお互いに言い争いをしている、或いは心が騒がしい状態と云えます。 是は人生における悩みと云えます。聖書にも書いてある事ですが、天国に一番近い存在は幼子と云う事と関係しています。アダムとイブが「知恵のリンゴを食べて」天国から追放されたと云う意味になります。 幼子がどうして天国に近い存在であるかを、説明します。それは「分別」しないからです。分別とは、引き比べて良いの悪いのと比べたり、反省したり、論理的に物事を見ない、と云う意味です。つまり「意識して物事を行わない」と云う意味です。この事には理由が有ります。幼子には分別をするだけの能力がないからです。 それに比べてだんだん大人になってゆき、思春期頃人間の脳の機能の分化が大体完成に近くなる頃ですが、「中二病」と云うものになる頃ですが、人間には悩みが始まります。すなわち「知恵のリンゴを食べた」と云う事になります。是は「分別」をし始めたと云う事になります。 この事が天国を追放されたと云う意味になります。この事を簡単に説明するならば、人間の論理脳、分別脳は主に左脳に有る機能と云えます。そうして自我意識を司っています。人間の意識は左脳の意識と云えます。 それとは別に人間には命を守ってゆくと云う脳が有ります。危険の時には驚いて心臓の脈拍数を上げたり、又怒ったり、泣いたり、感動したりする。つまり自我意識に働きかけて人間を守ってゆくという役割をしている脳の事です。是は主に右脳に属しています。そして是は無意識を司っています。そうして自我意識にはほとんど自覚できないものです。 処が無意識にも意識が有ります、そうして、心が有ります。つまり一つの人格が有ると云う事になります。是は人間を働かせているものと云っても良いものです。お釈迦さまが仏性と云ったものです。誰の頭の中にもあります。是は右脳の意識と云っても良いものだからです。 精神疾患の症状というもの、つまり「心の違和感、罪悪感、何処からか、どうしてか、分からない処から来る圧迫感というもの」是は実は右脳からのアピールと云えます。この事がどうして起こるのかを次に説明します。 それは「意識」する事からです。ただ意識するだけなら問題は有りません。処が、人生苦にするほどに、或いは、神経症を引き起こすほどに、或いは精神疾患になってしまうほどに「意識し続ける」と云う事が問題を作っています。 普通の状態では人間は意識と無意識が交代に出番が来ています。普通に仕事が出来ている時には自我意識は自分で全てをやっていると云う錯覚をしています。是は錯覚に過ぎません。本当にうまく事が運んでいる時には自我意識は仕事をしていません。是は分かり難い事なので、次に説明します。 人間が自我意識だけで物事をやっている状態と云うものは、神経症の状態です。人間は自我意識だけで眠ろうとした場合が「不眠症」です。自我意識だけで字を書こうとしている事が「書痙」と云う事です。人に会うと云う事を自我意識だけでやってゆこうとする事が「対人恐怖症」を作っています。他にも神経症の症状は数え切れないほどありますが、全てが、自我意識だけで物事を進めようとしている事です。 是は「無意識」と云う事を無視した生き方になっています。何事も自我意識だけではうまくゆきません。その事を右脳の仏性が見ています。うまくゆかない原因を右脳は見て知っています。そのために自分自身の存在を自我意識に教えよう、或いは訴える事になります。是が先に書いた事つまり「心の違和感、罪悪感、何処からか、どうしてか、分からない処から来る圧迫感というもの」と云う事になります。 ここでは長くなりすぎるかも知れませんので、大事な結論を書いてみます。貴方の、症状を教えてください、と云う事ですが、は私は医者では有りませんので云う事は出来ませんが、貴方の心の苦しさは、今言った事が原因です。それは分別する知恵のリンゴを貴方が食べたと云う事になります。この事の解決方法を二つほど書いて見ます、参考にして下さい。 その一 神経症を完治するには、神経症と云うものを研究する、自分の症状だけを見つめると云う事では有りません。神経症は全てが同じ原理からなっていると云う事を学ぶ事です。それは意識した事からです。誰でも意識するのに、神経症になる人と、ならない人がいると云う事を学ぶ。 神経症になる人は感じた事を「分別して」良いの悪いのと比べてしまいます。そうして良い事は受け取ります。嫌な事、悪い事は受け取ろうとしません。肯定出来ません。否定します。悪い感情になっている自分自身も否定してしまいます。是は症状を認められないと云う事です、或いは症状を追い出そうとする事です。 悪い感情、嫌な事を追い出そうと必死に意識します。この意識する事が症状を生み出しています。又固定させています。是は症状が悪いものと云う決め付け、その認識の誤りが症状を作っています。 神経症を治すためには「症状」は相手にしない事です。症状を相手にしていないで、神経症を起こしているもの、すなわち「世の中の見方」認識を替えると云う方向に力を入れると云う事になります。 それは、症状を素直に認めると云う方向になります。辛い気持は続きます、ですがそれしか、改善の道が無い事を知らなくてはなりません。症状を認めたくない、追い出したいと云う気持ちが症状を作っていると云う事実を認めて下さい。その方が近道となります。 そうして人間的に成長する事です。それは気分に左右されないと云う方向です。自分の心の苦しさを云わない人間に成長する事を意味しています。苦しくてもやるべき事をやるべき時にやる、と云う事です。精神疾患の状態は苦しみが多いからやるべき時に出来ない状態です。それはほかの言い方をするならば、やるべき事をやらない事によって自分の心が自分を責めていると云う言い方も出来ます。 症状を不問として普通の生活を送るようにする、それが出来ないとなおさら自分で自分を苦しめる事になります。 その二 人間はどうして苦しむのかと云う事を学んでみて下さい。それには「禅」と云うものが良いと思います。禅宗の歴史は「不安になり易い人達」の歴史そのものと云えるからです。不安の元は「意識する事」です。是は止まっていて流れなくなった心と云う意味です。是は自我意識が意識をしてしまって自我意識だけで何かをやろうとしている事になります、当然事が進まなくなります。うまくゆかなくなります。 この事は脳の機能の説明で言う事が出来ます。分別脳に、分別出来ない問題が割り込んできたと云う事です。是は分別で、理論で人生が割り切れないと云う事を意味しています。何故ならば人生は割りきれないと云う面が有るからです。精神疾患と云うものは割り切れないものを分別脳に抱え込んでいる事とも言えるかと思います。 禅問答が解けた時は右脳の意識が、仏性が出てきた時です。自我意識では解けません。それは脳の機能の問題です。自我意識だけで苦しんでいる人にとっての最高の癒しの心理学と云えます。 不安と云うものは自我意識だけで生きている証です。それは無意識を、仏性を無視した生き方です。その右脳の人格の出番が来るように仕組まれたシステムが「禅」といえます。是は世界に誇るシステムと云えます。ただ時間がかかると云う欠点が有ります。

noname#72530
noname#72530
回答No.1

http://www.kokoro.info/depression-schizophrenia.html 気に障るかもしれませんが、鬱状態がいつまでも治らないならばこれを疑う必要があるかもしれません。

noname#85647
質問者

お礼

今朝はじめてジェイゾロフトと一緒にセパゾンを飲んでみました。(今までは頓服として出されていたためたまにしか飲んでいませんでした) するとダルさ・体調の悪さが嘘のようになくなり気持ちも落ち着いているのが自分でもわかります。 ジェイゾロフトを飲み始めて3週間ほどなのですが、これはジェイゾロフトが利き始めたんでしょうか?それとも実は統合失調症で朝飲んだセパゾンが効いているのでしょうか?