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殴られる痛みを知っていますか?
昔から、お説教の時は言われたものです。 「痛みを知らない人間は、人に痛みを与えるべきではない」と思いますか? 例えば、「殴られる痛みを知らないなら、人を殴るな(知っているなら自分で判断して殴ればいい)」と言う事です。 この痛みと言うのは、殴るなどだけではなく、言葉だったり、屈辱だったり。 判断(思うか思わないか) 理由(なぜそう判断したか) と言う事を書いた上で、回答を頂ければと思います。 どうかよろしくお願いします。
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「痛みを知らない人間は、人に痛みを与えるべきではない」 これだけに言及しますが、全くその通りです。 私は小学校6年間いじめられていました。 無視とか机に細工とか陰険なものではなく ただ、クラスの男の子に殴られていました。 あれから20年以上経った今だから言えますが あの6年があったから人間の急所に詳しくなれた、と 自負しております。 ここに詳細を書く気はありませんが、急所はヒットすれば 力を入れなくても効果があります。 言い換えれば、知識さえあれば攻撃できます。 でも、私のそんな知識は全て自分の身をもって知った事です。 みぞおちを蹴られて息ができなくなった事もあります。 今でも鮮明に思い出すほど嫌な事です。 その後も嫌な奴に嫌な目に会わされたりもしましたが このまま死ぬんじゃないか、目が見えなくなるんじゃないか と、自分と同じ思いをさせたい程の奴はいませんでしたし そこまでやったら、自分は人間の屑だ、とも思います。 一度、酔っ払いのオヤジに絡まれて 耳を叩いて逃げた事はありますが これは自衛なのでどうも思っていません。 痛みを知らない人間は、加減を知らないと思います。 知らない限り、そんな事をするべきではないと思いますし 知ってしまうと、そこまでしなければいけない人間は そうそういない、というのも分かるかと思います。
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- dell_OK
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ANo.8です。 お礼へのメッセージを確認しましたので、先の回答へ補足させていただきます。 「もし、自分がされる立場に立ってもそう思うものなのでしょうか。」との疑問について。 自分がされる立場に立ってもそう思います。 どのような状況における痛みかは色々あると思いますが、痛みを与える側には与える理由があるはずです。 どのような理由かは知れずとも、私にはその人にそうさせた原因があるはずです。 理由なり原因があるのなら、痛みを与えられてもいたしかたない、と言う事です。 これは、なんとなくでも、ご理解いただけるでしょうか。 では、理由がない、または、私には原因がない、と言う場合もありますが、それはどうなのか。 私は、これが「与えるべきではない」につながるのではなく、「与えずとも済む方へ導く」必要があるのだと考えます。 また、そうでなくとも、たえられる痛みならたえるし、たえられない痛みならなにかしらの反撃もあり得ると言う事です。 痛みを知っているかどうかを、私は問題にしません。 それは「痛みに関係なく与えるべきではない」と言うのではありません。 この「べきではない」と言うだけでは抑制不可能な事にどのように対応していくか、と言う見方の問題です。 これで、少しは疑問が解けたでしょうか。 「長くなるので割愛」したのは、回答を書くのにかかる時間が長くなるからで、回答文章が長くなるからではありません。 私の自分のためだけの時間を損なうので、この質問にいつまでもかかっておられず、そうしました。 上記の疑問への回答が、およそ、その理由になっていると思います。 引き続き、先の回答の「単純にそう思わないから」を補足しておきます。 これは、「殴りたければ殴ればよかろう」と私は思っているからです。 私自信は、「殴りたければ殴る」ような人間ではありません。 私の思考では、「殴りたければ殴ればよかろう」と言われても殴る事は絶対にないと言う意味です。 私の考え方が一般的でないとしても、私は全人類に私の思考を当てはめ、「殴りたければ殴る」ような人間は一人もいないと思うのです。 私の思考などまったく関係なく、殴る人は殴る、と言う現実はよくわかっています。 では、それらはどうなるのか。 殴ってそれで済むわけはない。 殴った人は、一度殴ればもう二度と殴らなくなるのか。 殴られた人は、何もせずに殴られっぱなしでいるのか。 これは、ますます痛みを知っているかどうかの話とは別の話になります。 別の話ゆえに「そのように思ったのとは違う」=「そう思わなかった」だけです。 そもそも、この理由は、はじめから、「与えるべきではない」と言う考えに関与していません。 「理由はありません」では、理由を期待される質問者様に対して、あまりにも無意味だと思い、簡単ながらも先の回答としました。
お礼
回答ありがとうございます。 僕の読み方が間違えていました。 最初に読んだときに、「単純にそう思わないから」と言う文を「"やりたいからやる"と似た考えだ」と読み取ってしまった為に、少し違和感を覚えたのです。 しかし、dell_OKさんがそのような考えで言った事では無いのに間違えて読み取ってしまった事を、反省します。
レス、有難う御座います。 > 苦痛を知っているなら苦痛を与えてもいいという教えでは無いと思います。 そのとおりです。でも、解釈はどうあれ、あらゆる暴力は駄目なのです。こういった教えは、人間の御都合主義で生まれてきたものです。それを、どう解釈しても無意味なのです。 痛みを知っている人間なんて五万と存在し、五万と存在しないのです。心身の状態を知っているのは本人だけで、他者には想像を越えることはできない。 暴力も、御存知のように幅広くあります。rit_13444 さんも私も、知らず知らず痛みを与えているし、与えられてもいるのです。そして、決して正当化はできないものなのです。
お礼
再び、回答ありがとうございます。 暴力がどのような力か、それは個人個人によって違う、と言う事なのだなと思いました。 教えは強制ではないので、心に留めておくだけでいいかな、という自分の結論になりました(苦笑) 暴力もまた人によって受け取り方が違うもの、絶対と言うものは無いのでしょうね。
痛みを知っていようがいまいが、あらゆる暴力はしてはならないものです。痛みを知っているから、痛みを与えると判断して与えたとしても、与えられた側はどうなのでしょう。痛みを知っている人だからと許せますか ?
お礼
回答ありがとうございます。 痛みを知っているなら判断して殴ればいい、これは自分の責任でやれという事です。苦痛を知っているなら苦痛を与えてもいいという教えでは無いと思います。 痛みを知っているというのは、心身の痛みを知っているという事です。 心身の状態を知りながら踏みにじるような人間、それは暴力に狂ったか、理性を失ってしまった人間ではないでしょうか。
- dell_OK
- ベストアンサー率13% (766/5721)
判断. まったく思いません。 痛みを知らずとも殴ってかまわないと思います。 理由. 長くなるので割愛しますが、 ひとつには、単純にそう思わないから、です。
お礼
回答ありがとうございます。 もし、自分がされる立場に立ってもそう思うものなのでしょうか。 (否定も肯定もしません、ただの疑問です) あと、理由ではそう判断した根拠が知りたい訳で・・・。 長くなってもよいので説明が欲しいところでした。
- piis111
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痛みを知っているからこそ他人を傷めつけたくなるのでは?子供を虐待する親のほとんどは元虐待被害者です。
お礼
回答ありがとうございます。 「痛みを知っているから人を傷つける」 たしかに、子は親を見て育つものですよね。 しかし、この質問は「(前略)・・・痛みを与えるべきではない、と思うか?」という、"あなたの判断"を求めています・・・。
>「殴られる痛みを知らないなら、人を殴るな(知っているなら自分で判断して殴ればいい)」 たぶん、そういう意味ではないと思います。 本当に殴られた痛みを知っていれば、安易に他人を殴るなんてできないですよ。 それでも、殴らねばならないときもありますが、殴ったら、自分の手も痛いです。 他人を殴ったら、手加しようがしまいが痛みは自分にも帰って来ると言うことです。 心の痛み、肉体の痛み、それを感じることができない内は、ただの暴力です。殴るべきでは有りません。 言葉や、屈辱も同じです
お礼
回答ありがとうございます。 知っているなら自・・・のくだりは語弊があったようで、申し訳なく思います。それについては、No.5さんに対し補足させていただきました。 殴る方も痛い、ですよね。 しかし、法や常識と言うものを払って突き詰めていくと、やはりモラルの問題になるのでしょうか。(法が許した途端、みなが殴り合いを始める、とは思えません^^;) 出来れば、「痛みを知らない人間は痛みを与えるべきではない」理由を、具体的に教えて頂きたいです。
殴るという比喩を使って答えさせて頂きます。 「殴られる痛みを知らないなら、人を殴るな」と「殴られる痛みを知っているなら人を殴って良い」はイコールではありませんね。 前者に対しては賛成ですが、後者には反対です。 自分が殴られた事があるからといって、 「自分がどのような殴り方をしたら、相手がどのような痛みを感じるか」がわかるとは限らないからです。
お礼
回答ありがとうございます。 やはり、痛みを知らずして痛みを与える事は許されませんね。
補足
「殴られる痛みを知っているなら殴っていい」と言うのは、回答を読む限り、誤解です。 痛みを知っているならば、痛みを与えても良い場合があり、その場合には「痛みを与える理由」と「痛みを与える行為」を比較出来なくてはならない、と言うことです。 例えば、親のしつけです。 悪いことをした時には親がおしりを叩いたりする。 わざわざオシリを叩いたり、パーで叩くのは、グーで殴ると痛いことを知ってるからだと思います。
- galluda
- ベストアンサー率35% (440/1242)
がると申します。 概ねYesだと思いますね。 似たような事は昔から言われていて。 兼好法師の徒然草 第百十七段にありますが。 友とするにわろきものの一つに「三つには病なく、身強き人」とあげられています。 何かの参考にでもなれば幸いです。
お礼
僕の読み方が間違いでなければ・・・ 友達としてよくないのは「病をした事も無い強い人」・・・。 これは、病気の人の気持ち(人の痛み)を理解できないからで、 人の気持ちを理解できない人は友にすべきではないと言うことでしょうか。 結果として孤立するのだ、と言う事だと考えました。
- akira-45
- ベストアンサー率15% (539/3495)
そうだと思いますよ。痛み(殴られる・罵倒される)を知らない人間は想いを分かち合えなくなるかもしれません。殴る相手を想いやれるか?叱り飛ばす相手を想いやれるか?という事だと感じます。父は高齢で鬱になったり咽頭癌で声も失い、私は過労とショックで味覚・食欲を失い治療中の身です。先日、父が迷惑かけて生きてもしょうがないとかぐだぐた文字にしだすので大喧嘩になり「拳で語れ!」と顔は出して気の済むまで殴らせ「りっぱな拳あるだろう!」ですっきりしたみたいです。朝起きたら口がおもっきり開いていておかしいなと思って閉めようとしたら顎の間接が腫れていました。 体験談です。
お礼
回答ありがとうございます。 殴る相手を思いやる、納得です。 それが出来ないと言う事は、相手を思いやれないと言う事だから、自然と孤独になって行くのでしょうね。 >父は高齢で・・・(後略) 苦労をされているのですね。 詳しい事情も知らずに失礼だとは思いますが、健康な人間も、そうでない人間も、誰もが死と隣り合わせです。 いざと言う時、どうか悔いの無いよう、出来るだけ会話を交わして欲しいと思います。 たとえ、言葉でなくともいいですから・・・。
- a-matuki
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こんばんわ。 判断 思います。 理由 痛みを知らない人は、イコール限度を知らない、とも言えると思うからです。 「ここまでやったらどれだけ痛い」ということを知らなければ、人に痛みを教えることはできないと思います。 痛みを与える理由が、しつけや罰などではなく憎しみや怒りのような感情になってはいけないと思うからです。 教える側も教えられる側も、それを理解しないままなので、憎しみー殺意になってしまうことがあるのだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに、しつけの場合は限度を知らなくてはなりませんね。 そう言った事によって子が親を殺してしまう、などという事も出てきた気がします。
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お礼
回答ありがとうございます。 嫌な体験を思い出させてしまったでしょうか・・・ 一度や二度なら忘れたり、我慢が出来ます。 痛みを与え続けられている人間は、自分を守る。(守備) しかし、守るだけでも相手は攻め続けるかもしれない。 だから、相手を退け、攻撃させない為に攻撃する。(抵抗) 守備はそうでなくとも、抵抗は相手に痛みを与える行為には違いありません。 それが、「痛みを知っている人間が自分で判断して痛みを与える時」と言う訳です。 人それぞれ判断は違うと思いますが、暴力を受けて暴力で返せば、自分も同罪になってしまいます。 また、過度の抵抗も、暴力に変貌してしまう事を念頭におかなくてはなりません。 回答、大変参考になりました。