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日宥上人の?御本尊について

創価学会の方か日蓮正宗の方にお聞きしたいのですが、うちの母は戸田会長の時代から信心しており、古い本尊を二体(一つは日達上人、一つはそれ以前)のご本尊様が古すぎてお汚れてくすんでしまい、平成二、三年ころ近くの正宗寺院で学会員の方の勧めもあり、お取替え致しました。その本尊は享保三年と書かれており日宥とも読めるのですが、判然としません。ご本尊の相貌は意外にコンパクトで縦に細長いです。今の学会の御本尊とは字の配列(天照大神・八幡等)は同じですが、字体はまるで違います。ご存知の通りちょうどそのころはお寺側と学会側が争う前後で私達のお寺も学会についたり総本山についたり混乱してました。学会の本尊(日寛上人)でもなく日顕上人の本尊でもないこの御本尊の本当を知りたいのです。

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回答No.1

私は、申し訳ありませんが、「日蓮宗」ではありません。 しかし、自称「歴史作家」として、多岐の分野で研鑽をしています。 「日宥(にちゆう)上人」は、 日蓮-日興(日蓮七弟子の一人)-日道-日行-日時-日阿-日影-日有-日乗-日底-日鎮-日院-日主-日昌-日就-日精-日盈(にちえい)-日瞬-日典-日忍-日俊-日啓-日永-第25世・日宥(にちゆう)-日寛-日養・・・と続く、 「日蓮宗総本山大石寺(派)」で、ある意味では、「日蓮正宗」の一派です。 法主は、総本山大石寺の住職(貫主)であり、日蓮正宗の管長です。僧侶の中からただ一人が先代の法主から日蓮以来の血脈相承を受けて法主となり、日蓮正宗の僧侶の階級では「大僧正」と呼ばれます。 また、日蓮正宗の本尊を書写できるのも、法主一人に限られています。 いってみれば、日蓮宗の「正統(派)?」と言っても過言ではありません。 日宥は、史料によれば、慶安5年(1650)生まれ、享保14年(1729)12月28日入寂(死亡)といわれています。そして、貫主として務めた期間は、宝永6年(1709)~享保3(1718)年3月まで、とあります。その後は「日寛」に位を譲りましたが、入寂するまでは信奉者には根強い人気があったようです。 従って、江戸時代の初期に大石寺を任され、一派を率いた立派な人だと思います。 御本尊の裏書ですが、当然、御本尊を作成した者(あるいは、その宗派の人)が書き加えたもので、字体は当然違うと思います。 また、天照大神・八幡・・・とあるのは、明治初期に「神仏分離令」が発布されるまでは、「神仏合体」であったためです。 一番分かりやすい例で言いますと、比叡山延暦寺を建てるに当たり、麓の日枝神社に地鎮祭をしてもらっています。 通常、「総本山」とだけ言うと「久遠寺(派)」を指します。これは、やはり日蓮の七弟子の一人「日興」が広めていった「一派」です。 まあ、その他にも「派」が分裂していき、公称だけでも35~36派あると言われています。 「日寛(にっかん)」は大石寺派の第26世貫主です。ですから、「日宥」の次を受け継いだ人物です。 ちなみに、「日寛」・・・寛文5年(1665)年8月7日生。享保11年(1726)8月19日入寂。貫主期間は、享保3年(1718)年3月~享保5年(1720)2月24日まででした。しかし、次の第27世「日養」が貫主となりましたが、享保5年(1720)2月24日~享保8年(1723)5月26日とわずか3年余りで入寂したため、「日寛」は再び、享保8年(1723)6月4日~享保11年(1726)5月26日まで貫主を務めました。 なお、失礼ながら、「敬称」は略させていただきました。 「日顕」は大石寺の第67世貫主です。略歴は、次のURLで見てください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%A1%95 (出典:「日蓮の本」編集:少年社、一戸久子、福士斉。出版:(株)学研。「日本の宗教の事典」編集:少年社。出版・(株)学研。他)

dokkoida
質問者

お礼

日宥上人が第二十五世の御法主で江戸時代享保年間の人、その他代々の御法主上人の歴代の方々を列挙して頂き、また詳しい資料を縷々お書き下さり、ありがとうございます。 しかし平成二、三年に、あの創宗戦争吹き荒れるときに、なぜお寺から江戸時代の日宥上人の御本尊を頂いたのかが疑問です。寺は学会側につき、日顕上人の本尊は下付できなかったから勝手に作った?しかし御本尊の装丁には鶴丸があしらわれています。日蓮正宗の家紋です。 以前別の場所に越してまた現在地に戻ったのですが、その地の創価学会男子部の先輩は「なぜこの本尊がここにあるのか判らない」と言ってました。そして御本尊送りとなって学会本尊を頂いたのですが、日宥本尊はあやうく文化会館に持っていかれる所を母に渡し難を逃れました。

その他の回答 (2)

回答No.3

今は、学会に属されてるのですか?それともお寺でしょうか? 見てみないとわかりませんが、どんなに同じ御本尊でも心が日蓮と違っていれば、幸せにはなれませんし、功徳もありません。 学会の方が近くにいらっしゃるならば、相談されたほうが早いですよ。

dokkoida
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。今は一応学会員です。学会の一人の人は「日宥」にみえる、とご本尊送りの時言ってました。 お寺の住職さんに以前会うと、「ご本尊はそのままにしてありますか」「寺に付きなさい」とおっしゃられ後ろ髪ひかれました。あの創宗戦争がなければという思いが強く残ります。

回答No.2

正直に言って、そこまでは私も知りません。 しかし、次のサイトでは解決?の糸口は見つからないでしょうか。 http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_4.html

dokkoida
質問者

お礼

ありがとうございます。ここで家にある二つの本尊(お寺、学会)の御法主の揮毫を比べたところ享保三年のは字が小さいのでわからないですがどうもウカンムリがどちらも非常に似ていて、ウカンムリの下の字は有ではなく「見」のように右上上方にはねているようにも見えます。ということは日寛上人の可能性もあり、NO.1の回答者様に日宥上人を持ち上げて頂いたのに申し訳ないです。1の回答者様は享保三年に日宥→日寛と代が替わったというのでこの本尊も享保三年で残念ながら字が小さく何月何日かは読み取れません。お寺(享保三年)・学会(享保五年)で字の相貌、勢いは全然違い別人のよう。学会のほうが字も大きく達筆です。しかし仏菩薩諸天等配置は全く同じ。寺のほうが題目が小さく上のほうにまとまっている感じです。同じ人か別かで悩んでます。

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