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殺人
貴方は今までの人生の中で「一度」でも「人を殺したい」と思ったことはありますか? ある方は、その際、日本に「殺人罪」というものがなければその人を殺していたと思いますか? 上記の内容も踏まえて、「貴方は殺人を肯定できますか?できませんか?また、それぞれ理由をお聞かせ下さい。」 最後に、「死刑制度には反対ですか?賛成ですか?また、それぞれ理由をお聞かせ下さい。」 全部で4つ質問しましたが、最初の2つだけでも構いません。 また、最初の問いに対する「ありません。」という回答だけでも構いません。答えられる範囲で御回答宜しくお願い致します。
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> 貴方は今までの人生の中で「一度」でも「人を殺したい」と > 思ったことはありますか? 何度かありますね。 > ある方は、その際、日本に「殺人罪」というものがなければ > その人を殺していたと思いますか? そのケースもあり、そうでないケースもあります。 > 上記の内容も踏まえて、「貴方は殺人を肯定できますか?で > きませんか?また、それぞれ理由をお聞かせ下さい。」 肯定だの否定だのを考えること自体、さして意味がありません。 人は人を殺せるということは、単なる事実です。 なお、共同体が安定して存続・成長するために「共同体の内部での殺人はいかん」というルールを共同体の構成員に仕込むことは必要だし実際なされてきており、現在もなされています。というか、これに失敗した共同体は、歴史の中で滅んでしまって、今はもう存在しません。 しかし、身内でない(=社会の構成員ではない)人間に対してこのルールが適用されないことも、歴史を見れば明らかですね。 従って、「殺人」一般について何かを云々することに、一般論としての価値は、無いのです。 > 最後に、「死刑制度には反対ですか?賛成ですか?また、そ > れぞれ理由をお聞かせ下さい。」 賛成。なお、最初の3点と、実に実に関係の薄い話ですよ、これ。 死刑制度というのは、社会の秩序維持システムの一部を形成する話です。個々人がどう思うかという話とは、社会の構成員がその個々人である、という程度の関連しかありません。個々人の感性をまったく無視しては機能する社会制度は作れませんが、そんなものよりよほど重要な要素が他にあるので、重みはかなり軽いですね。 で、秩序維持が目的なんですから、死刑の運用によって秩序維持に貢献するなら死刑は有効な手段であり、実際有効です。死刑に抑止力が無いと言う人もいますが、不勉強ですね。オリジンのGardian誌の記事はエクスパイアされているようですが、複数の大学の研究の結果、抑止力があるという結論が出ています。 http://datefile.iza.ne.jp/blog/tag/66546/ もっとも、そんな研究を待つまでも無く、信長や蘇我入鹿、平清盛らの政策を見れば、重罰化や死刑の迅速な実施が秩序維持に有効なのは明らかなんですが。 逆に、「抑止力が無い」とする主張の方が、根拠が無いんですよね。嘘だと思う人は、何を根拠にそんなことが言われているか、自分で調べてみましょう。 さて、秩序が維持されていなければ、普通の人は安心して生活も経済活動もできません。命の危険さえあるのですから。そういう大前提を理解せずして死刑反対を述べている人がいるのを見ると、日本は平和だなあと思います。 あらかじめ反論を封じておきますが、日本におけるよくある反対論の言い分は、こんなものでしょう。 A. 犯罪抑止力が無い → 上述の通り、嘘です B. 冤罪で死刑になったら取り返しがつかない → 禁固だって懲役だって同じです。時間は取り返しつきません。つまり、あらゆる刑罰を廃止する主張をしないと、これを言うことは矛盾です。 しかも、冤罪云々は、司法制度の工夫で乗り越えるべき話ですし、人間の作る制度に完璧など求めることがそもそも間違っています。現に、日本では年間1万人が交通事故で死んでいますが、自動車を廃絶しようと言う人はいません。 冤罪で死刑になる人は、せいぜい交通事故死の1万分の1です。人命重視が本気なら、よほど自動車事故を廃絶する努力をする方が有効です。つまり、人命重視を理由に死刑に反対する人は、その理由が嘘か、よほどバランス感覚が無いかです。 C. 刑務官の仕事が辛すぎる → 日本には職業選択の自由があります。 D. ヨーロッパやアメリカの州では廃止が進んでいる → だから、何ですか? かの地ではなぜ進んでいるか、分析していますか? 靴やバックの流行とは違う話だということを弁えましょう。 なお、欧米で進む理由は、日本とはかなり様相が異なります。キリスト教がそのキーワードですが、その理由によって日本で死刑廃止が正当化されることは、無いでしょう。
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- sentens
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殺人罪がなかったら、殺していたね。議員を。
お礼
有難うございます。 お気持ちお察し致します。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
1:あるんじゃないの 2:覇者は殺戮者だが、王者は殺戮者ではない。 3:一生に一度くらいは命の高いものが出てくると思います。 4:賛成。死を与える事も時には必要です。 赤穂浪士のように。
- kaaaiii
- ベストアンサー率21% (31/143)
1.あります。 2.もちろんです。 3.できません。2はあくまでも法律が無かったらの話ですよね。 この法律は社会秩序を守るための最も基本的な法律なので必要です。 よってその法律がある限りは殺人は肯定できません。 つまり殺人を否定というより、殺人罪を肯定してるので、必然的に 殺人を否定する事になります。 4.反対です。第一に抑止力があるという証拠が無いからです。 むしろアメリカの死刑存続州と廃止州において、凶悪犯罪数に 有意な差がない、というデータがあり、抑止力がないという根拠の 方が強いです。第二に冤罪の可能性です。冤罪は何も死刑に限った 事ではないですが、他の懲役刑と異なる点は挽回不能という点です。 もう死んでしまっていては、被告は無罪を主張する事は出来ません。 第三に、これが最も大きな理由ですが、国家権力と人権のあり方の 問題です。死刑存続の論拠はつまり「社会維持」につきると思います。 社会のためなら犯罪者の命などどうなってもかまわない、という、 社会が第一、つまり全体主義的な思考です。 個人の人権よりも社会、国家の維持に力点を置いてるのは間違いないです。 これはあまりにも野蛮です。社会維持ももちろん考慮すべきですが、 と同時に個人の人権も考えるべきです。死刑は後者をあまりにも ないがしろにしています。その両方を考慮したのが懲役刑に 他なりません。まぁ途上国において懲役の環境が整ってないとかなら 話は別になりますが、少なくともこの先進国の日本において 死刑は存続すべきではありません。 まぁ死刑については日本国内では賛成派が圧倒的だと思うので、 他の回答者様も私の意見に反論があるかもしれませんが、 ここは議論の場ではないので反論とかはやめてくださいね。
お礼
有難うございます。 そうですね。 第一に、死刑に抑止力があるか。 これは断言はできませんね。 しかし、「死刑」の意味を「犯罪の抑止力」のみに置いている訳では無いと思います。それは是非が付けられない問題ですが、「死刑」が「死を以て償え」という発想に基づいているものであるということもまた、事実だと思います。 第二に、冤罪の可能性。 まさにその通りですね。これだけはどう足掻いても「人間には取り返しの付かない史上最高の罪」と言える程甚大な問題だと思います。 なぜなら、罪の無い人間が「合法的」に「殺されている」訳ですからね。これ以上の犯罪は無いと言っても過言では無いかも知れません。 第三に国家権力と人権の在り方の問題。 そうですね。全体主義から来る思想でもあるでしょう。 犯罪者にも「誰にも侵すことのできない生命の自由がある」。それを人間がいかなる理由を以てしても侵すことは、傲慢も甚だしい。これは私も下に書きましたが、非常に説得力のある理由の一つだと思います。 しかし、「人権」というものを定めたのも「人間」です。それを考慮すると「それに対して人間が例外を作る」こともある意味正当化されてしまうのかも知れません。無論それが事実上の「正義」なのかは全くもって判断のしようがないことなのですが。 結局は人間は「自由、平等」。これを大原則に生きていくことが最も望ましく、大衆的な思想だと思います。 しかし、その一方「人間としての道徳」。これが忘れられてしまっては元も子もありません。そして、その道徳律をいかに定めるのか。これも結局は人間の身勝手な線引きに過ぎないのかも知れません。自由が勝手に置き換えられて、それが正当化されては、そこには「論理的欠落」があるわけですが。それ以前の根本的な問題を探る行為はまさに「形而上学」の世界であり「哲学」なのですが、これ程までに先人、そして、また現代人をも悩ませている問題は他には無いように思えます。まさに、人間のとっての「究極の難題」なのではないかと思っています。
1、ありません (苦しくて死んでしまいたいと思ったことはありましたが「殺したい」は経験ないです) 2、今まではありませんでしたが、自分の子供や主人を殺されたら 殺してしまうかも(想像の範囲を超える感情になると思うので断言できません) 3、肯定してはいけないと思いますが事情によっては肯定してしまうかもしれません。 4、賛成です。実際、死をもって償っても償いきれないような残忍な犯行をおかす犯人も存在するから
お礼
有難うございます。 これは本当に難しく、また一生結論の出ない問題、だと認識しております。なのでこのように個人の意見を聞くことで人間の意識を知る参考にさせて貰っています。 そうですね。自分の愛する人間を殺された時に自分が想う感情は決して「人間」とは思えないものにまで変化するかもしれません。しかし、またそれが人間なのかも知れません。本当に難しいです。神様がいるならば是非一度その御言葉を授かりたいものです。
- girls-styl
- ベストアンサー率0% (0/1)
1、「殺したい」と思ったことはありません。 でも、「死ねばいいのに」と思ったことはあります。 2、1の答えが“NO”なので該当しませんが、あえて言うなら 殺人罪があってもなくても殺しません。 3、肯定出来ません。どんな事情があっても殺人なんて 認めてはならないと思います。なぜ殺す必要があるのか? 人を殺すという事は、殺された人やその家族、そして その人自身の人生そのものまで犠牲にしてしまいます。 それでも殺さなきゃいけない理由があるのか、疑問です。 4、3の答えとは逆になるかも知れませんが、人を殺したなら 自分も死ぬべきと考えます。殺人を犯した人は当然“死”を もって償えと思います。なので賛成。 4の答えは、つまり殺人がいけないことである事から、賛成と しました。基本的には人が人を殺すなんて許されないと思ってます。
お礼
有難うございます。 「死ねば良いのに」→「勝手に死んだ」→「爽快感」 「殺したい」→「殺せない」 上記の二つの間にある決定的な共通点は「責任逃れ」ですよね。 いえ、貴方の発想を否定しているのではありません。 唯、「死ねば良いのに」と「殺したい」に過程の違いはあっても、その想いの根本に差程違いがあるとは、少なくとも私には思えないのです。 3番。 「なぜ殺す必要があるのか」 客観的な「殺す必要は」無いと思います(少なくとも見出せないと)。 なぜなら、狂人と呼ばれる方々を除いては、人間が殺人を犯す時、それは「犯す」というよりも「犯してしまう」という表現の方が私は適切だと思うからです。理性主義になり過ぎなあまり、人間の感情面を軽く考えてしまう、これが現代における近代の後遺症の一つだと思っています。少なくとも人間が殺人を犯す時に「理性的な判断」はほとんどの場合において存在しないと思うのです。なので、私は「感情」を「感情」として捉え、その「普段の感情=品性、徳」を高める根本的な教育が大切なのだと思っているのです。
40代のおじさんです。 今まで死刑の是非に関する投稿はいくつもありましたが、殺人の是非と死刑制度を結びつけたものは初めてですね。なかなかいい着眼点だと思いました。 >今までの人生の中で「一度」でも「人を殺したい」と思ったことはありますか? ありますね。まぁ、大半は若い頃ですが。今から思い返せば、なんとまあ馬鹿げたことで人を憎んだりしたものか、と冷汗三斗の思いです。「殺してやりたいほど憎い」ということって、時間が経過して改めて振り返ってみると、案外とたいしたことではなかったりするのですね。 >日本に「殺人罪」というものがなければその人を殺していたと思いますか? さあ、どうでしょう。おそらくやっていなかったと思いますよ。別に殺人罪があるから殺さないのではなくて、人を殺すということへの本能的な恐怖のようなものから踏み出せないのではないでしょうか。なにしろ臆病者でしたから。 >貴方は殺人を肯定できますか?できませんか? もちろん、原則として肯定できません。絶対に人を殺すことはよくないことです。ただ、世の中には、殺すしかなかった、という人もいるだろうなぁ、ということもなんとなくわかります。決して殺人を肯定するわけではありませんが、世の中には、罪を犯さざるを得ないところにまで追い込まれてしまった悲運な人が存在するのもまた確かでしょう。そうしたことを考えると、「人殺し」ということをすべて十把ひとからげにして頭から否定するのもまたどうなのだろう、と思ってしまうところはあります。 例えば、自分が死ぬか相手が死ぬか、どちらかしかない、というような状況。例えば、ある人間によって自分の命や人としての尊厳が失われようとするとき。果たしてどこまでもひたすら辛抱しつづけ殺されることが正しいことなのか、と思ったりします。そうした状況においては、おそらく自分がその立場でも人を殺してしまうのではないか、とも思うのですね。 >死刑制度には反対ですか?賛成ですか? 原則、反対です。ただ、現状の民意からすると、ある程度はやむをえないという思いもあります。そういう意味で、最終的には廃止の方向が望ましいが、現状しばらくはやむを得ず肯定せざるを得ない、というところでしょうか。 死刑廃止の理由はさまざまあるのですが、その1つに、「自分自身が、どうしてもすべての殺人を完全に否定しきれないところがある」ということもあったりします。矛盾するようですが、人を殺すことを完全に否定しきれないために、死刑を肯定できないのですね。 人を殺すことは悪いことといいますが、私の中のどこかで「でも追い詰められて生きるか死ぬかとなったら殺してしまうだろう」というような、殺人の中にもやむをえないものもあるように思えてしまうところがあるのですね。そのためかどうか、死刑となるような凶悪な事件を犯した人間を「人間と認められない、社会から抹殺すべき存在」と切り捨てることができないのです。あなたや私と、そうした人との間に、人間として根本的な違いがあるようには思えないのです。 死刑というのは、ある意味「人間として更生不能である」と判断された人ということでしょう。が、そうした人の中にすら、執行されるまでの間に人間性を取り戻す人もいます。ということは、「この人間は更生不能だから殺すしかない」という判断は、その人に限っては誤りだったかもしれない、とも思うのです。 私も、おそらく状況が変われば、死刑に処されるような凶悪な人間に簡単に変わってしまうかも知れません。そんなことは絶対にないとは私には断言できないのです。同様に、そうした凶悪な人間が、再び人間らしさを取り戻すことが絶対にありえない、ともどうしても断言できないのです。断言できない以上、その命を奪うことに賛成は……やっぱりできないでしょう。
お礼
御回答有難うございます。 >今から思い返せば、なんとまあ馬鹿げたことで人を憎んだりしたものか、と冷汗三斗の思いです。 そうですね。若者が「殺してやりたい」と思う程憎むことは、第三者からしてみれば、何と幼稚な発想、と思えることが多いかも知れません。また、あとで冷静になった時に「何と自分は愚かだったか、殺していなくて本当に良かった」と思うかも知れません。そういうことで過ちを犯すのは絶対にあってはならないことですよね。だからこそ、人間の「徳」を高める「教育」が今の時代希求されていると思います。こういった「軽い殺人」が現代の「心」に重きを置かない「学力重視」の教育の代償なのでしょう。 >別に殺人罪があるから殺さないのではなくて、人を殺すということへの本能的な恐怖のようなものから踏み出せないのではないでしょうか。 確かにそれはありますね。しかし、中には「殺人罪」として自分が捕まることを恐れて踏みとどまる人もたくさんいると思います。その為の「法」でもあると思いますしね。なぜなら、「何年服役したから犯罪者はその罪には報いた」等とは何とも人間が勝手に線引きした「虚構」に過ぎませんからね。傲慢にも程がある発想です。問題なのは「問題が起きた後」よりも「問題が起きる前」なのですよね。 >世の中には、罪を犯さざるを得ないところにまで追い込まれてしまった悲運な人が存在するのもまた確かでしょう。そうしたことを考えると、「人殺し」ということをすべて十把ひとからげにして頭から否定するのもまたどうなのだろう、と思ってしまうところはあります。 (続きは上に書きます。)
補足
そうですね。確かに中には「致し方が無い」殺人もあると思います。また、これ以上追い詰められたら自分の精神が崩壊してしまう、という情状酌量の余地が認められるケースもたくさんあると思います。 しかし、問題なのは「正義が何か」ということですよね。 その定義こそ国、時代によって千差万別だと思いますが、「正義」を「正義」と固定して他の思想を排除した時に、それは「正義」足るのか、という問題です。 例えば「自分が殺されそうになった時に自分の身を守る為に人を殺すこと」=「正当防衛」として日本では「無罪」とされますが、他の国では「自分を守る為に人を殺すとは、そこにいかなる理由があれなんとも傲慢で醜い発想か」と切り捨てることもあると思うのです。この際、どちらが正しいのか、は少なくとも人間には決して判断することの出来ない、決して命題にはなり得ない事柄ですよね。しかし、国によってそれは「法律」という形で「正当化」される。その瞬間、その内容は人間のあらゆる行動を根底で規制してしまう、物凄い「代物」だと思います。 なので、自分の尊厳が失われそうになった、自分の命が脅かされた、という理由で殺人を肯定するのも、また何とも「人間らしい」理由だな、と私は思います。そう言う意味で、私は「人間は万物の尺度」というプロタゴラスの言葉は非常な説得力を持って現代の我々に迫ってきているのだと痛切に感じさせられます。いかなる理由があろうとも「人間が人間の生死を決定するとは、何とも傲慢であろうか」。実はこれが私の本音であったりもするのです。 しかし、かといって世の中の秩序を守り、人々がより安全に暮らす為には「法」という物理的強制力を有した「規則」が不可欠ですよね。その為に「罰」を設けて犯罪者を取り締まるのも一つの方法で、少なくとも我々人間にはそれ以外の方法はまず見つからないのかなと思います。 しかし、それが「死刑」となった時に、警察には合法的に「殺人」が認められているのに、一般人が殺人を犯したら、いかなる理由があろうともそれは「殺人罪」なのか、という矛盾と、また、先にも述べた通り、「人間は万物の尺度」というピタゴラスの言葉が痛切に心に迫ってくるのです。 学校で「数学」や「英語」をやるのも必要事項ですが、それと同時に先人が重んじてきた「哲学」をもう一度振り返り、その大切さを子供たちに教えるのも、また最重要テーマの一つなのかな、と思います。
1.あります。 2.できないと思う。 人を傷つける度胸もないし(脳内だけで)、殺した後の周りとの関係とかが怖い。 3.賛成。生きる資格のない人間だっている。
お礼
有難うございます。 やはり、仕返し等を考えると踏み止まりますかね。 3番の内容からすると、4番目の回答内容も「同じ」と見て良いのでしょうか。 「生きる資格」 これは非常に難しい問題ですよね。 そもそも「生きる資格」はこの世に生まれた瞬間から「全員が等しくまた何人にも奪われることのできない権利として与えられたもの」という考えもありますし、まして誰かが何かを基準に「生きる資格」を与えたわけでは無いですからね。非常に難しいですが、殺したいほど憎い、と思うことはありますよね(ない人もいるとは思いますが)。
- tatuorika
- ベストアンサー率14% (76/508)
1 あります。 2 殺人罪があっても、思いますね。 3 出来ます。 4 賛成です。 3、4については、当然、理由を持っていますが、膨大な理屈・理論がありますから、ここでは書ききれません。 そのかわり、と言っては何ですが、その対象が誰かを記載します。 二十年間、好きで好きで、たまらない彼女です。
お礼
有難うございます。 2番に関しては、「殺人罪が無かったら殺していたと思いますか?」という質問です。心の中で殺したいと思ったかどうかではなく、実際に殺していたかどうかです。 二十年間好きで好きでたまらない彼女、ですか。 病気か何かでしょうか。全く分かりませんが。 しかし、きっと御自分の論理があると思うので、是非機会を改めてでもお聞きしたいですね。
- AVENGER
- ベストアンサー率21% (2219/10376)
1:殺したいと思ったことはないですね。 2:略 3:肯定できない。自分は殺されたくはないですしね。他人もそうでしょ。 4:積極的に賛成。命を持って償わなければならない犯罪もある。
お礼
有難うございます。 殺したいと思ったことは無いですか。幸せですね(厭味じゃないですよ)。 死刑制度には賛成ですか。僕もそうです。しかし、ハンムラビ法典と同じで「自分が殺した方法で自分も殺される」。これが本当の筋道かな、と思っています。死刑台に上がりたいがために犯罪を起こすような人間もいますからね。根本的に修正するべきだと思っています。
お礼
御回答有難うございます。 >従って、「殺人」一般について何かを云々することに、一般論としての価値は、無いのです。 一般論としての価値等考慮していません。 個人の意見を聞いているだけです。下にも書きましたが、私は人間個々の意識を聞きたいのであって、そこに普遍的正当性等という「怪しい」代物を付けたいのではありません。なので、貴方が「殺人」に対してどう思うのか、を聞いているのです。それ以下でもそれ以上でもありません。 >なお、最初の3点と、実に実に関係の薄い話ですよ、これ。 誰も関連付けてなどいませんよ。私自身最後の死刑についての是非はこの質問とは別に設けようかと思ったのですが、単に「面倒臭かった」ので、ここで一気に聞いてしまっただけです。なので、敢えて「すべてに回答してもらもらわなくて結構です」という趣旨の文章を最後に付けておきました。関連していると思うなら、「全てに答えて下さい」と書くのが普通でしょう? >B. 冤罪で死刑になったら取り返しがつかない → 禁固だって懲役だって同じです。時間は取り返しつきません。つまり、あらゆる刑罰を廃止する主張をしないと、これを言うことは矛盾です。 しかも、冤罪云々は、司法制度の工夫で乗り越えるべき話ですし、人間の作る制度に完璧など求めることがそもそも間違っています。現に、日本では年間1万人が交通事故で死んでいますが、自動車を廃絶しようと言う人はいません。 冤罪で死刑になる人は、せいぜい交通事故死の1万分の1です。人命重視が本気なら、よほど自動車事故を廃絶する努力をする方が有効です。つまり、人命重視を理由に死刑に反対する人は、その理由が嘘か、よほどバランス感覚が無いかです。 (上欄に続きます)
補足
自動車事故で死ぬのと冤罪なのにも拘わらず「死刑」になるのは同じですかね?明らかに相容れないものだと思います。 そもそも、自動車は「事故死」を前提に造られてはいませんよ。無論それは予測は出来るでしょうが、自動車の必要性は「事故死」によって人間を間引きすることではありません。それに対し、「死刑」は「重罪人を殺すこと」を目的に作られた制度です。それが冤罪の際に適用されてしまった場合「本来の目的に適っておらず、また、この上なく非道徳的な殺人」と言えるのではないでしょうか?良いですか。「事故死」は「事故」です。「死刑」は「合法的な殺人」です。同じ枠で括るには無理があり過ぎると思います。まさに詭弁です。 また、死刑制度廃止を反駁する理由の一つに「せいぜい交通事故の一万分の一です」という記述がありましたが、例え「一人」でも罪の無い人間が「合法的殺人」の犠牲者になったならば、それはこの上なく甚大な問題だと思いますが。失礼ですが、私はこの一文から貴方の人間性を疑いました。無論その「人間性」とやらも何の根拠も無い「私の一感情」に過ぎませんがね。 少々、反論っぽくなってしまいましたが、多々、非常に参考になった記述もありましたので、改めてお礼申し上げます。 唯、貴方が何の「専門家」かは存じ上げませんが、それは貴方の「専門分野の前提」を前提に話されているのであって、それが他の全ての意見を否定し得る普遍的説得力を有している訳では無い、ということをご理解いただけたら、と思います。