一昔前の、いわゆる悪がきグループによる示威行為、暴力行為と区別して、いま問題になっている(と思われる)村八分的いじめについての考えです。。。。
いじめなど昔からある...という人もいますが、子供たちやおとな社会の一部では、いま間違いなく”村八分”的いじめに対する緊張感が高まっていると思います。
近年の度を越した個人主義によって、2000年以降、教育の場にも「自立した個」を謳う教育方針が導入されています(「21世紀日本の構想」)。これにより、子供たちの(教室)社会にも、お互いの「個」に立ち入らない人間関係が教育的に指導されるようになりました(自立した個、すなわち、人に頼らず自力で解決し自身が責任を負うひと、です)。
どうして徹底した個人主義が”均質化した”組織の悪病である村八分を誘引するのか、ですが、、それには次のような原理がはたらくのではないかと思います。教室のような狭い社会に「自立した個」が数多く共存する方法は、お互いが触れ合わないよう小さくなることです。本来なら大きい「個」、小さい「個」が入り混じるはずですが、個人主義には等しい権利を要求できる、という暗黙の”権利”が(おまけで)付いてきます。このため、「個」は排他的に同じ粒度にならざるを得ないのです。同じ粒度の「個」が集まっている=すなわち均質化した社会ですね。。
このことは(教室社会にある)ルールの扱われ方の観点からも確認できます。
個人主義を遵守するにはすべての個に等しい権利を保障しなければなりませんが、そのためにはルールの設定とその厳守が不可欠になります。抜け駆けして利得を得るものがないように(ルール違反を)相互に監視する....これが徹底した個人主義下の学校、教室、あるいはグループのルールにおける現状です。ルール遵守の原則を破ったもの、破らざるを得なかったものが”村八分=いじめ”による被害者になるのです。
各個人の事情や背景に頓着しない”等しい権利”の頒布は、かならずルールを守れないものを生み出します。それ以前にルールを設定すること事態、今現在ルールを守っていないもの、将来ルールを破るものを前提にしています(だって、みんながルールを守るのであれば、ルールの存在自体が不要ですから)。。いま、子供たちの狭い社会では、必然的に”いじめ”の構図を生んでしまうのです。わたしは昔といまのいじめの大きな違いは、ここにあると思っています。
>>・・・まず学級全体に話します。
>>どれだけ悪いことなのか、みんなで確認。
>>・・・「悪いことをしている人を見つけたら、先生に」と言います。
これは教室におけるルール破りへの対処法として、ある教師?から寄せられた回答(の要約)ですが、異分子を同定し排除することを是とした指導を行っています。はっきりとした確証はありませんが、こうした指導の積み重ねによって、子ども社会の正義として異分子の排除が取り込まれたことがいじめの直接の原因なんじゃないでしょうか(昔のいじめっ子なら、現在ではおそらく排除の対象になっているでしょうね)。
”KY=空気の読めないひと”というのも同様に、暗黙のルールの設定を行い、それからこぼれ落ちる者を排除する言葉です。
学校における個人主義は本当に徹底しています。個人情報保護法?以降、名簿も作らず、生徒の父母は同じ学級であってもどの辺にすんでいるのかどんな人なのか知るすべもなく、おそらく学校も”生徒の家庭の事情”というものをほとんど顧みることはないでしょう。隣人の「個」の事情にまったく立ち入らないことがどれほど怖い社会をつくるのか,,,,”いじめ”というのはそういう問題だと思います。