>おそらくその生徒Aはシラをきると思い
犯罪者の摘発と同一視しているのでしょうか? 教師から生徒への視線だとすると,なんとも陰険でやり切れない思いがします。
アメやガムを隠れて食べるというのは無論ルール違反(社会的に見てもまぁ悪いといえる行為)ですが、それでも指導の主眼は”ルールを守る意義”を子どもたちが学ぶことであって、犯罪者を同定することではなく、まして処罰することでは絶対に無いはずです(小学生の子を持つ親として、そうあって欲しいと願っています)。
したがって、”証拠を押さえるまで泳がせておく”ようは姑息な真似を大人(教師)がする必要はなく、子どもたちにルールのある世界(教室)の大切さと、ルールを尊重することがクラスメート間の協調と信頼をもたらすことを学ぶ(良い)機会にすべきじゃないでしょうか?
そのように(正しく?)対する”居方”をさだめれば、もはや「誰が」とも、「許さない」とも言う必要はなくなると思います。
”クラスのだれもが隠れてお菓子を食べない世界(教室)”、”ふでばこにおもちゃを隠していない世界”、”寒い日にも半ズボン、スカート、薄着で桃色の頬をして登校してくる世界”,,,,こうしたものはすべて”ファンタジー”なんです。ファンタジー=そうであって欲しい世界(ルールを共有できる世界)です。
しかし、”所詮はファンタジーだ”という見方もあります。だって、大人は職場で飲み食いするし、タバコも吸います。他校では長ズボンでもOKだし、おもちゃだって上手に隠して持ち込めば(見つからなければ)怒られない.....
ファンタジーを(教室のなかに)”実現”するには、教師だけが夢想するのではなく、子供たちやその親たちと”共有”できなければ、無理なんじゃないでしょうか?
(学校の)ルールは、社会のルール(窃盗や交通違反等の処罰を伴うもの)と同じ,,,というのは本当に正しい考え方なんでしょうか?