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報道の自由について

あまりにも当たり前の質問かも知れませんが、 どうも最近おかしな方向に流れていっているようなので あえて質問させてください 皆さんは「報道の自由」という言葉は誰のために あるとお考えですか (1)国民の知る権利を守るため (2)マスコミが取材(含ゴシップ)しやすくし、金儲け    を容易にするため あなたのお考えと、現在の世の中の実態について 出来れば両方お答え下さい

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回答No.4

さらにどうも >近頃の報道側の姿勢については、どう思われますか えーと、僕は5年近く日本を離れてしまっているので実は日本の時勢に結構疎いです。 まず報道の自由というのは、定義しずらいのではないのでしょうか。基本的に報道の自由は統制と規制を受けた表現の自由の枠の中にあり、その中でマスコミはニュースを私たちに提供しています。つまり彼らの報道の自由は一応、道徳と規律の上に成り立っていると言えると思います。 上記でもしましたがメディアが言う報道の自由は規定範囲内の自由であるので、これから外れれば彼ら自身訴えられる可能性があります。それでも彼らはプライバシーの侵害ととられなくもない報道をときおりしています。僕は特に芸能、ゴシップネタには興味はありませんが、この手の報道はマスメディアのどうしようもない一面だと思います。そこで国民の知る権利を持ち出されてもはっきりいて困ります;僕が知りたい事を報道してるわけでもありませんし、例えばパリス・ヒルトンの情報など僕には全く興味がもてる情報ではありません(この情報は誰かの目的になるとは思いますが、僕のものではないです)。 最近では情報バラエティと呼ばれているみたいですが、情報の多様化も結構ですが、もう少し責任を持ってもらいたいですね。彼らの情報は前にも書きましたが権威性を持っています。僕たちが信用できる情報源なわけですから。去年か、今年に入って日本の某テレビ局による、いわゆる”やらせ”があったらしいですね。国民がその情報を信じて、その商品を買いあさったとか。このテレビ番組はいわゆるニュース報道とは違いますが、同じ情報を発信する媒体には変わりはありません。その有効な表現媒体をもち、尚かつ権威性を含意しているメディアが責任を持たず、自由な報道のもと、表現の自由を訴えるのはどうかと思います。 メディアと私たちの間には、以前も言いましたが大きな開きがあります。その中での一方的なメディアの解釈により報道。そして統制規律を受けているとはいえ、彼らの報道姿勢は少し節操がないようにも思われます。しかしもう一方でメディアによる情報は私たちには重要です。それにどんな情報であれ商品として需要と供給のバランスがとれているようにも見えます。こんな事言ってしますと今まで僕が書いた事を否定してしっまているんですけどね(笑)つまりメディアは私たちも望む商品を提供し、メディアと私たちの間には実は開きなどなく私たち国民の知る権利にそった報道をしていると。 最後に僕は日本に住む全員と話したわけではないので、どれぐらいの人達が今の日本のマスコミの報道姿勢に疑問を持っているかは分りませんが、僕には一方的にマスコミの報道姿勢を否定する事はやっぱりできませんね。 参考まででした

grogfd
質問者

お礼

度重なる、ご丁寧なご回答を頂戴し、誠に有難う御座います おっしゃていること、まったく同感です やはり、取材側には道徳と規律の上に成り立っているということ を自覚すべきだと思います 有難う御座いました

その他の回答 (3)

回答No.3

どうも そうですね。メディアの主張する、国民の知る権利と、僕たちが言う国民の知る権利では、質が違うという事になります。それがこのメディアと国民の間の溝という事になります。報道の自由、これはなんでもそうですが、この自由と言う言葉に僕たちは幻想を抱きますよね。僕らには自由を定義する事は難しいにもかかわらず。そして報道の自由とは規制と統制を受けている自由です。そこに権威性があるんですけどね。そのなかで前のアドバイスを考えてもらえばいいと思います。 参考まででした

grogfd
質問者

お礼

回答有難うございます 近頃の報道側の姿勢については、どう思われますか

回答No.2

参考までに 今、大学でインターネットとレギュレーション/ポリシーを勉強しているので、この手の質問はちょっと僕の中でタイムリーです(笑)それでも大雑把な説明しかできないので、ご了承下さい。(専門用語をここに残すので後はご自分でリサーチされる事を) まず”国民の知る権利を守るため”なんですが、これが眉唾物です。いまこの現状でマスメディアから国民の知る権利を主張されても、僕らははっきり言って戸惑うだけです(質問者さんがここで質問されるのも、もっともだと思います)。それは私たちはメディアと国民との間に大きなギャップを抱えているからです。僕たち一般の人達はメディアのように有効な表現媒体を持っていません。これだけでメディアと国民の間に大きな溝があると考えられます。 もちろん、メディア関係者も、社会の構成員であり国民です。しかし、さらに彼らと僕たちが決定的に違うのは権威性です。よくインターネットはメディアと国民のギャップを埋める、媒体のように思われがちですが、インターネットのソースには権威性がありません。僕がいくらこのコミュで、このような情報を書いてもどうしても信用性に欠けます。となりにある回答者の種類で専門家、経験者、一般人というように情報に信頼性を付与させる事もできますが、これは大して意味のある物ではありません。 これを踏まえて、メディアの言う国民の知る権利なんですけど、これだけ国民とメディアの間に溝を開けておいて、今更彼らの主張する国民の知る権利はないと思うんですけどね。もともとこの知る権利は、国民主権の一つ表現の自由に帰属するものだと思いますが、これは表現媒体を有するメディアと国民が一つになって初めて国家の抑制に反発できるものだと思いますし、そこから表現の自由が引き出されると思います(知る権利にも繋がります)。でも、上記したようにマスメディアと私たちの間には大きなギャップがあります。そしてマスコミは便宜上でこの言葉を使いプラバシーの侵害を肯定しているようにも見えます。どこの国でもそうですが、ゴシップは良いソース(商品)です。一方でプライバシーを暴き、もう一方で国民の知る権利を主張するメディア。節操がありません。ただし、これは私たちにも責任があります。僕たちも(僕はゴシップは読みません)ゴシップは好きですし知りたいとも思います。これをメディアは利用しているだけですしね。沢山の人達から支持を得られる商品を落とすのはビジネスの基本でもあります。なので、メディアを肯定することはできませんが、否定することも私たちにはできないんですよね。 それでも僕は思うんですけど、この国民の知る権利とは今どの方角に向けて使われているのか; 国家でしょうか、それとも個人の利益でしょうかね。メディアには表現の自由が確かにあります。それは彼らの表現の自由が権威性を帯びているからです ※ここで言う自由とは、統制と規制を受けている自由です。そしてメディアは獲得した権威と自由で彼らの視点でニュスソース(商品)を世に送り出しています、一方で国民の権利を主張しながら。ではこのメディアが獲得した自由から置き去りにされた一般の人達はどうすればいいのでしょうかね。私たちの知る権利と表現の自由はどこに向ければいいのか、またメディアをどうやって媒体として、僕たちの知る権利を主張できるのかは、僕には分りません。ただこの逆になっている状況(メディア→国民)を国民→or=メディア、というふうにするのは難しそうですね。 ここに専門用語を残します。後は質問者自身が考えて下さい。negative liberty (消極的自由)。これは権力からの自由を意味します。ロック、ホブスなどが提唱したものなんですけどね。いわゆる表現の自由です。でもロック、ホブスは右よりの考えを持っていた人達です。自由の中に規制も必用と考えていたのでしょうね。 参考まででした

grogfd
質問者

お礼

長文に亘る回答有難う御座います 正直なところ、素人なので言われていることを 完全に理解することは出来ません ただ >メディアと国民の間に大きな溝がある この部分を基本として考えればよいのでしょうか

  • Bayonets
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回答No.1

本来報道の自由は(1)の為にあると思うが、報道媒体が(2)の為に歪めて利用していると思う。 また、時の権力者や、それに反対する勢力にとっても政治的な宣伝(プロパガンダ)として利用されている。 我が国の商業メディアは報道の自由に名を借りた巨大利益団体及び圧力団体と化している。

grogfd
質問者

お礼

回答有難う御座います 全く同感です