リンカーンについてまとめてみました。
リンカーンについて小説風にまとめてみました。前半が普通のリンカーン像、後半が暗い一面に焦点を当てたリンカーンです。世界史はあまり得意でないので間違い等あるかと思います。間違い等ございましたら、どうかご指摘ください。よろしくお願いします。以下です。
幌馬車は、西へ西へと進む。
開拓者精神、フロンティアスピリット。彼らは森を切り開き、田畑にした。
ある家族にも子供が生まれた。
少年はエーブと名付けられた。
正直者のエーブは、やさしく力も強く、よく手伝いもした。周囲から感心される子供へと育っていった。
ある日、エーブは恐ろしい光景に遭遇した。市場で彼が見たもの。
それは黒人の親子が奴隷として売られていくところだった。
奴隷商人は鞭を手にしていた。
母親と、まだ年端もいかない子供。奴隷商人は、泣きながら子供に抱き付く母親をちぎるように引き離し、泣き叫ぶ二人を別の男へと売ったのだった。
エーブの耳にいつまでも残っていた。
連行されながら、絶叫し我が子の名を叫ぶ母親の声が。
母親に泣き叫ぶ子供の声が。
言葉は分からなくても、何を言っているのかは十分分かる。
「お母さん、お母さん」
母と子はそれぞれ別の買い手に売り飛ばされてしまった。
「同じ人間が奴隷として売られていくなんて、なんて酷いんだろう」
エーブは幼心に誓った。
「こんなことがあっちゃいけない。いつか、絶対に奴隷制度をなくすんだ」
やがてエーブも大人になった。
彼は大統領になっていた。エイブラハム・リンカーン。奴隷を解放した大統領だ。
その頃には、北部では奴隷制度廃止運動も盛りあがってきていた。
リンカーンは奴隷制を悲しみながらも、アメリカが南北に分かれてしまうことを懸念していた。大統領の就任式が行われた時、リンカーンはこう演説した。
「私は今ある奴隷制度には干渉しません。でも、どの州も勝手に合衆国を脱退することは認めません。しかし諸君(南部所連合を指す)のほうから侵略しないかぎり戦争になることはありません」
リンカーンは、そう宣言した。
しかし南部の者は、それに対して猛烈に反対した。南部には広大な綿花畑がある。
黒人奴隷は朝から晩まで、家畜のように働かされていた。そして奴隷抜きでは、綿花畑(プランテーションといいます)は成り立たないと彼らは考えていた(注・参照)
恐れていたことがおこった。
南部の独立宣言だった。
リンカーンは思った。「絶対にアメリカを分断させてはならない」
彼は苦渋の決断をした。戦争だった。
南北戦争が始まった。
戦争は残酷な反面、経済を発展させる側面を持っている。
この戦争によって、ライフル銃、物資を運ぶための鉄道、電信技術等も発展した。
戦争から二年後、ついにリンカーンは奴隷解放宣言を発布した。南北戦争は奴隷解放戦争となった(注2)。リンカーンは「人民の人民による人民のための政治を作るのだ」と言って北軍を励ました。
最も多くの血が流れた戦争だった。
お互いに多大な犠牲を払い、戦争が終わった。北軍の勝利、リンカーンの勝利だった。
アメリカ分断の危機はこうして、回避された。
そして奴隷は解放された。彼ら黒人は自由の身となった。
南軍の降伏から4日後、リンカーンは首都ワシントンの劇場で暗殺された。
56歳の生涯だった。
政府と議会は奴隷制を廃止し、黒人に自由を与え、市民権を与えた。
それでも黒人と白人が肩を並べるのを快く思わない人たちがいた。彼らは秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)を作り、黒人を差別し、暴力等をふるった。今でも少数ながら、KKKは現存しています。
(注1) 当時、黒人が南部のプランテーションに連行された関係で今でも黒人は南部に多く住んでいます。
(注2) 南北戦争が始まってすぐに奴隷解放宣言を出さなかったわけ→当時合衆国側にとどまった州と、合衆国から脱退した州、そして奴隷州だが合衆国に忠誠を誓った州(境界州)とがあった。リンカーンは奴隷制度を出すことにより、境界州が敵側(南部)につくことを恐れた。しかし、イギリス、フランスが南軍に味方するとの情報をもとに、奴隷解放宣言へと踏み切った。大義名分を得た北軍に対して、各国は表立って南部を支援することができなくなった。
以下はウィキペディアを元にした暗い一面にスポットを当てたリンカーンです。以下、間違っている部分等ありましたらご指摘ください。よろしくお願いします。
ネイティブアメリカン・・・インディアンにとって、リンカーンという名前はおそらく忌まわしい名前なのではないだろうか?
リンカーンが熱烈に師と仰いだ人物ヘンリー・クレイ。彼は言った。
「人類全体からのインディアンの消滅は、世界的には大きな損失ではない。私には、彼らが人種として保存されるだけの価値があるとは思えない。」
彼は、徹底したインディアン排除論者であったし、それを受け継いだリンカーンもまた同様であった。
ホームステッド法。以下Wikipediaから引用する1862年、「ホームステッド法」を可決。これは、すべてのインディアンを保留地(Reservation)に定住させ、父系社会のルールのもと(インディアンの社会は母系である)、彼らに狩猟民族であろうと遊牧民族であろうと、一律にその文化を捨てさせ、農業を強制するものである[332]。」
1862年、インディアン、ダコタ・スー族が反乱をおこした。
「俺たちは10年も前に土地を奪われた。俺たちは狩りをして生活していたのに、狩りを禁止のこの土地へと追いやられた。白人政府は、土地と引き換えに支払うと年金を約束したのに、まるで払ってくれない」
彼らは飢餓状態だった。食べるものにも困っていた。しかし彼らの暴動に対し、リンカーンはジョン・ポープに鎮圧を命じた。
「私の目的は、スー族をすべて皆殺しにすることだ。彼らは条約だとか妥協を結ぶべき人間としてなどでは決してなく、狂人、あるいは野獣として扱われることになるだろう」
ジョン・ポープの声明に、リンカーンはなんら異を唱えなかった。暴動は鎮圧されスー族2000人のうち392人が軍事裁判にかけられ、38人のインディアンが審議されることもなく死刑を言い渡された。彼らが尊敬し敬ってきた酋長、呪術師。彼らもまた、他の者と同様に絞首刑によって罪なき命を落とした。白人で断罪されたものは一人としていなかった。
リンカーンは約束を破った。ダコタ族に払うべきだった年金を払わなかった。それがもとで暴動がおきたにも関わらず、彼はこれを力で鎮圧し、酋長を殺し、呪術者を殺し、ほか多くの命を奪った。そして2年間、ダコタ族への年金を止めたのだった。以後、リンカーンはミネソタ州のダコタ族の保留地を強制没収し、スー族の居留地へと強制連行させた。中には従わない者たちもいた。ミネソタ州は、そうした者たちを絶滅させる政策をとった。それが女であろうと、子供であろうとかまわなかった。賞金首に祭り上げ徹底した絶滅を図った。リンカーンは何も言わなかった。
ナバホ族でも、インディアンが抵抗をしていた。彼らもまた、支払われるべき年金が支払われず窮していたのだった。リンカーンはカールトン准将に討伐を命じた。
「この戦いはお前たちが存在するか、動くのをやめるまで、何年でも続行されるだろう」
カールトンの声明をリンカーンは黙殺した。彼の軍は血の海より現れ、ここに地獄を再現した。彼らは殺した。大人であろうと子供であろうと。それが乳児であろうと彼らに何の関係があったろうか?彼らはもう人としての感情を失っていた。そして、彼らの目にもまた、叫び声をあげながら殺されてゆくインディアンたちが人として映し出されてはいなかったのであろう。彼らは目の前にいる者を殺した。目の前にいなければ追いかけて殺した、トウモロコシ畑、小麦畑に火をつけ焼き払った。炎は壁となり周囲を包囲した。追い詰められた男は殺され、女はレイプされた。
その後、リンカーンはナバホ族8500人を300マイル離れたアパッチ族の強制収容所へ連行させた。行かねば殺される。だが、行けばきっと地獄が待っている。徒歩での連行だった。彼らは振り返った。幸せな日々を思い出していた。
「白人が来るまでは毎日が幸せだった。誰もが笑っていた。笑顔と愛に包まれていた。偉大なる酋長、そして私たちは皆酋長を中心に争いもなく過ごしていた。白い悪魔に殺された母さん、レイプされ自殺した我が恋人。もう何もない。すべてが消えた。一瞬にして」
長い旅路だった。子供、老人、体力のないものは、ついにアパッチにたどり着くことなく、天国へと旅立っていった。しかし、もしかしたら、彼らはそれで幸せだったのかもしれない。たどり着いた先は地獄だったのだから。
男はそこで強制労働を課された。女は米軍にレイプされた。過酷な環境の下、生まれてきた乳幼児は物心つく前に朝露のように息を引き取った。
黒人を奴隷から解放したリンカーン。しかし、インディアンを人として見たことは一度もなかったのではないだろうか?暗い真実は今も光を当てられぬまま、そこに眠っている
以上です。よろしくお願いいたします。