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人は何かに依存して生きているのでは?
22歳女です。 私は過食嘔吐やアルコール依存などをやってきて(または現在もやっていて)思ったのですが、 人は結局何かに依存して生きているのではないでしょうか? 一般的には仕事や家庭や子供、趣味などです。 そしてできるだけ、人生に前向きな色んなものに少しずつ依存するのがいいのかなと。 その時点で依存とは呼ばないのでしょうが、依存と書かせていただきます。 友達にも彼氏にも親にも音楽にも本にも学校にも勉強にも、 少しずつ依存していけば、過食やアルコールの問題は治っていくでしょうか? (困っているほどではないのですが、いつまでも続けてはいられません。) それが信頼ということなのでしょうか? そして、それらに依存してもいいのでしょうか? はっきりとした質問でなくてすみません!
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質問者が選んだベストアンサー
現在、依存症(それに囚われている状態)の人が依存の対象を広げても、治療にはならないと思います。 おそらく全てのことに全力で依存してしまうでしょう。 少し依存という状態を保てる(自分を制御出来る)なら依存症にはなっていません。 治療はプロに相談したほうがいいです。
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- tomban
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「信頼」と「依存」は違いますね。 いや、正確に言えば「種類が違う」んじゃなくて「質が違う」んです。 ガラス玉は所詮ガラス玉。ダイヤモンドには磨いてもならないよね。 お互いを信じあい、ともに磨きあがっていくものが「信頼」。 どちらかが相手を頼り、支えてもらわないと倒れそうな頼りなさがあるのが「依存」。 ね、違うでしょ?。 >困っているほどではないのですが、いつまでも続けてはいられません 困っているのはあなただけじゃないってこと、忘れてるでしょ?。 困ったり、悩んだりしてるのは親だって同じです。 そうすることであなたがしようとしているのは、やはり「依存」でしかないのです。 「人という字は支えあっている人の形だ」とか言った「キンパ○先生」の話を私は鵜呑みにしませんよ。 人は「自立」していくことで、初めて人に認めてもらえるのです。 あの「人」という字は 「押し合いながらも、大地に足をつけた人の姿」です。 踏ん張りあっている姿だと思っています。 まずアクションを起こすのは「自分の意思」から始まるのが当然なんです。 時に支えてもらってはいても、つまり「歩き出す」のは自分の足で無ければいけません。 そこのところ、甘えてはいけませんよ。 苦しみながら歩くのは、あなただけではないんです。 みんながみんな、そうなんですよ。
お礼
悪いようですが、忘れてはいません。そんなに軽々しく言ってほしくないです。 ・・・って怒るってことは図星だからでもありますが。 重々わかっています。 回答ありがとうございました。
補足
お礼のつけたしなのですが・・、 生きるのはほんとにつらくて、みんなでもちゃんと歩んでいるんですよね。確かに忘れちゃいけないと思います。 回答ありがとうございました。
- hamakkotarou
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依存というのはそれなしでは自分が存在できないように感じてしまう ことでしょうか。 いつまでもそれに頼っていたい便利なものであって欲しい。 つまり自分が今のままでいる為に必要なものといえるかもしれません。 協力ということは自分が今の状況から抜け出すために一時的に してもらうことで状況が変われば必要のなくなるものといえるでしょう。 何かに頼ることは時として必要なことだと思います。 でもいつまでも頼ることは自分の成長を止めることだと思います。 一時的に頼り自分が必要としなくなったら頼らなくすることを自分が 決めることで自分の成長を感じられるのではないかと思います。 依存ではなく協力をしてもらいましょう。 でも一つだけ依存してよいものがあります。 それは自分自身です。 きっと頼りがいがあると思いますよ。
お礼
私が依存といっていたのは、ちょっと地を出す、みたいなことですかね。今日ちょっと不機嫌だけどそれを誤魔化しまくってニコニコしてなくていいかなみたいな。自分ができることを他人にやってもらったときに罪悪感を感じなくていいのかな、みたいな。 自分自身・・・それは確かにそうですね。 自分自身を信じてあげるのも大切かもしれません。
- kazudesu
- ベストアンサー率10% (44/415)
>・・・・・・満たされたり、誤魔化せたり・・・。 うぅん。確かに。 求められるけど(親にも友にも)誤魔化し続けた自分はいけないと思います。 本質的にはそうなのですが、他に意識を向けられることは良いことなのですよ。それは本当です。だた別の依存になる場合もあるということです。 >ただ正直になるだけで救われると思った自分も間違いかも。 病気と思ってもいけど、私はあまり頼うことで楽にならないようです;。 過食、アル中同然な学生生活、ちょっと上の人生を、 考えたいと思います。 回答ありがとうございました!! 正直になることは、とっても良いことですよ。生活の質的向上も意義のあるものです。是非そうなさってください。生活も変えてれるし、人生も変えられます。ですから当然、自分自身も変えられるということです。 最近、相談者に加藤諦三さんの本を紹介して好評です。自分の置かれた状況を見つめ、何故そうなってしまったかという手がかりを探すことにも役立ちますし、見える世界も変わると思います。 是非5冊程度お読みになってください。僕も自分を見失っていたころ、お世話になった事があります。
お礼
他に意識を向ける・・・かぁ。 確かに誰にもずっと真っ向から向き合っていくことはできませんよね。 それは自分にちゃんと向き合うってことでもあるし、いいこともあるけど、相手を間違うと意味がないし、自分にとって意味がある相手でも向き合いつづけることはできないのかも。 ・・・いいことなのですね、他に意識を向けることは。そうかぁ。 そうやって生きていくのかもしれません。 加藤諦三という方の本、また落ち込んだときがあったら、ぜひ読んでみたいと思います。 回答ありがとうございました!
- mikuya90
- ベストアンサー率25% (1/4)
22歳ですごいことに気づきましたね。 人は、結局何かに依存しなくては生きて生きないものです。 仕事、趣味に依存したり。 夫や妻や、子供、孫、親、ペット、恋愛、友人に依存したり。 甘いもの、アルコール、肉食菜食、断食、サプリメントに依存したり。 依存する対象が、健康をや社会生活を損なうものだと、病気になります。 さしずめ、勉強、読書、仕事、スポーツ、健康食などの依存症なら、病気とは呼ばれず、勝ち組に入れると思います。 過食嘔吐やアルコール依存は、健康に、著しく良くない。 読書依存症あたりに、変更してください。 ジョギング依存は、関節を痛めたりしなければ、健康的。 囲碁将棋などのゲーム系も、時間を使えて、比較的お金がかかりません。
お礼
私は言葉に出しているだけで、みなさん大体のことには気がついているのだと思います。 確かに、そうやってあっさり考えてみるといいですね。 勉強依存になってみたい!ってかなってやるぜぐらいな(笑(学生なので) 回答ありがとうございました。
- LOTUS18
- ベストアンサー率31% (1807/5783)
大前提として、人は1人だと思います。 どんなに仲が良くても、親子でも、 所詮は別の人格なので完璧にわかりあうことは できない気がします。 社会の中で生活していると、 「みんなで」っていう感覚が備わって、 人と比べて落ち込んだり安心したりしますが 最終的に突き詰めて考えた時、残るのは裸の自分です。 私にとっては「依存する」というと 一方的に寄りかかるイメージなので、 「共感」「共有」だと思うんですが、 いわんとしていることはy-umi様と近いような。 誰かや何かと関わって受ける刺激(優しくしてもらって嬉しいとか 伝えたい事が伝わらなくて悲しいとか)。 単純に、景色がきれいとかこの曲は元気が出るとかの刺激。 色んなものがあると思いますが、日常生活には色んな刺激があって その繰り返しや積み重ねで生きていると思います。 気付かずに、素通りしているものも沢山あると思います。 「好き」と思うものを増やすだけでも、 自分の核が見えてくるような気がします。
お礼
人は一人って、実感します。 だから人間関係はあやふやで、離れたり近くなったりの繰り返しで、社会の中でも自分がよいときも悪いときもあって、 でも結局それは自分のせいなんだ、頑張りきれない自分・・・って暗く不安になっていました。 確かに、景色がきれいってだけでも気分が明るくなりますよね。 私は基本的にすべてが好きってスタンスなので、嫌いなものを無理に好きだと決め付けず、距離を置くべきなんでしょう。逆にそれで本当に好きなものが見えてきて、「核」がわかる気がしてきました。 回答ありがとうございました!
- kazudesu
- ベストアンサー率10% (44/415)
>友達にも彼氏にも親にも音楽にも本にも学校にも勉強にも、 少しずつ依存していけば、過食やアルコールの問題は治っていくでしょうか? (困っているほどではないのですが、いつまでも続けてはいられません。) それが信頼ということなのでしょうか? 依存というのは、それによって満たされたり、誤魔化せたりするものです。 ですから、本質的には、依存克復の決め手にはなりません。 ただし、あなたのように依存の症状が軽い場合は、他のことに夢中になれる、集中できる、満足感がある、そういうものがあれば、依存性は緩和され、時間が経てば、意識しないで済むまでになる可能性はありますね。 具体的に言うと依存せずにはいられない病気の根っこがあるんですよ。 ですから、その根っこがなくならなくても、生活に支障がないほどになる可能性はある、ということです。 心の傷って誰でもありますよね?そういうのと同じです。心の傷でも、深ければ病気になりますよ。そういうふうにうけとめてください。 あまり自分だけが珍しい症状で苦しんでいると思わないことです。
お礼
・・・・・・満たされたり、誤魔化せたり・・・。 うぅん。確かに。 求められるけど(親にも友にも)誤魔化し続けた自分はいけないと思います。 私だけがめずらしいとは散々思っていません。頼おう、もうだめだってのはすごい思ってるし、みんなそうだと程度は違うにせよ思うからです・。 ただ正直になるだけで救われると思った自分も間違いかも。 病気と思ってもいけど、私はあまり頼うことで楽にならないようです;。 過食、アル中同然な学生生活、ちょっと上の人生を、 考えたいと思います。 回答ありがとうございました!!
- 783640band
- ベストアンサー率25% (1/4)
私は一日に何か一つ、心のよりどころになるものがあればやっていけると思います。 たとえば、 友達と喧嘩した日は彼氏に相談しますし、 帰る家があるからバイト先で凹むことがあってもしっかりと受けいれ反省しようと思えますし。 そんなもんじゃないでしょうか。 だけど依存はもっと極度なことだと思います。でももし今色々なものに少しずつ依存していくことができてなくて、いまできそうならそこからはじめてみてもよいと思います。 なんだか私もいいアドバイスはできなくてすみません。
お礼
私はいっぺんにすべてを捨ててしまう傾向があり、 all or nothing 的だったので、そういうことができませんでした。 親と険悪になったら人間関係すべてダメだと思い込み、友達と仲良くなったらすべての友達に親しい態度をとってしまうような。 切り替えてうまくいろいろなものに依存していきたいと思います。 みなさんの考えを聞きたかったので、回答うれしかったです。 ありがとうございました。
- mouryou
- ベストアンサー率27% (229/826)
そうですね、人は何かに依存して生きています。勿論人それぞれ依存するものが違います。人間が社会的な生き物である限りそれは避けられないものなのです。極端な例ですが、親や旦那が重病人で看護されているとして、重病人は看護している人に依存していますが逆に看護している人も重病人に依存しているともいえます。それはこの人がいなくなったらどうしようとかこの人のために頑張ろうとかでもいいです。 依存の度合いが強かったり一つのことに執着するとそれが悪い面が強く出てしまうでしょう。それが物質であったりする場合も悪い面が出やすいようです。 なので、友達や彼氏や音楽や本や学校や勉強に少しずつ依存すれば、彼方の中における過食やアルコールへの依存の度合いは相対的に減ることになります。おおいに依存してください。人間は社会的な生き物です。そうすることでしか生きられない物です。
お礼
それが動物との違いなんですね。 (人間も動物であるし、社会性を持つ動植物もありますが、極端に言えば) >依存の度合いが強かったり一つのことに執着するとそれが悪い面が強く出てしまうでしょう。それが物質であったりする場合も悪い面が出やすいようです。 確かにそうですね。ひどい嫉妬やワーカホリックとかでしょうか。 おおいに依存してみます。 なんかうれしいですね。(笑 回答ありがとうございました。
- ipoper
- ベストアンサー率14% (15/102)
そうですね何かしらの依存と いってもいい感じがしますね ただ完全というよりは軽い依存?ですかね なくてもいい時もあるけど無いのが絶対になるのはいやだっていう 感じですね。 大体の人が趣味とか恋人や友達に 依存しているのではないでしょうか? 過食やアルコールなんかは依存してしまえば 体に悪いので当然ですが 宗教なんかも僕は反対ですね 本当は無いものにすがるってのは変な混乱を招きます だからやっぱり友達や恋人又は趣味に活路を見出して 軽く依存するのがいいかと思われます。
お礼
人間関係に完璧なんてないから、 だから「無いのが絶対になるのはいやだ」っていう存在を避けてきたのかもしれません。 「なくてもいい時もあるけど無いのが絶対になるのはいやだっていう」・・ってくらいに相手を思ってもいいんですね。それは途方もない安心感がわく感じがしました。 回答ありがとうございました。
- sheshenmoe
- ベストアンサー率37% (51/136)
なんか、ハッとしたので、回答になるかどうか、ですが書きます。 そうですね。依存していると思います。 おっしゃる通り、普段は「依存してる」なんて意識はしてなくて。 だから…、他のものにちょっとずつ依存していけば治っていく、って言うのは 半分あたりだと思いました。 何かに特化して依存するんじゃなくて、いろんなものに 依存(辞書的に言うと:他に頼って存在、または生活すること。)する中で、 自分の「軸」が分かっている気がしました。 他人に頼る事、頼られる事その相互関係が「信頼」なのかもしれないし。 いろんなものに「依存」が分散できたり切り替えできるようになった時、 きっとそれを「依存」と感じなくなっていると思います。 もし、通院とかされてるんでしたら、その考え方を練って、 ぜひ担当の先生に相談してみたらどうでしょうか。 無責任な事は言えませんが、その考え方は、間違ったものじゃないと思います。 参考意見まで。
お礼
通院はしてないのですが、カウンセリングの常勤の方が学校にいるので話してみようかなと思いました。 半分あたりかぁ・・「自分の「軸」」、「依存が分散できたり切り替えができるようになったとき」私に欠けているのはこれかもしれません。 回答ありがとうございました。
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お礼
自分が制御できるという状態がどんな状態かわかりませんが、 一般的に普通の生活をおくれていると思います。 ただPMSのときや落ち込んだときは過食嘔吐してしまうし、 最近は毎日飲んでいた事に気づいて、また少しでも逃げたい対象があると飲む欲求に駆られることに気がついて、アル中になってしまうと危機感を覚えました。 なので、飲まないでいたところ、不安が高ぶって、この質問をしたのです。 アルコールの問題がひどくなるようだったら、専門家に相談してみます。