- 締切済み
社会の不平等。皆さんはどういう風に割り切っているか教えてください。
世の中は不平等です。 頭がいい・ハンサム・お金持ち・運動神経・背が高い 皆持っているものは生まれたときから違います。 また、その人間が成功するかどうかも運です。 イチローみたいに大成功する人間もいれば、結果芽が出ず2軍でプロ野球生活を終える選手もいる。 努力しても、どうにもならない場合もあります。 皆さんはその不条理をどのように割り切っていますか? それともうひとつ聞かせてください。 例えば、頭がいい・ハンサム・お金持ち・運動神経・背が高いを5段階評価して、 Aくん Bくん 頭5 頭2 ハ4 ハ1 金5 金2 運5 運1 背4 背1 とした場合、Bくんはどのように生きていけると思いますか? これとは離れるかもしれませんが、生まれつき重度の障害を持っている方はどのように生きられると思いますか? これと関連して、人生の生きる意味、幸せってなんなのでしょうか? 色々質問多くてすいません。 なにか答えをいただけると嬉しいです。
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- nontro_08
- ベストアンサー率19% (33/173)
創価学会の者です。 確かに、質問者様のおっしゃるとおりですね。例えば、今の首相も名家の生まれで背は高く、日本の最高学府を出て美人と結婚し、金持ちで立派な御殿に住み、そのうえ日本の最高指導者にまでなった。誰もがうらやむ恵まれた人生といえますね。その一方で背は低く貧乏で、女性にもてずにバカにされ、何をやってもうまくいかないという人生もあります。 どうしてこういう差別が生ずるのか。それは、人間の生命の永遠性に求めねばなりません。すなわち、過去世に命がけで世のため人のために尽くした人は、その果報により今世であらゆる面で恵まれた境涯に生まれる。逆に、過去世で私利私欲を貪り、人々をいじめたり、人の物を奪ったりした者は、今世であらゆる面で恵まれない苦悩の人生とならざるを得ない。そう説くのが仏法の因果の理法です。 しかしながら、何が幸福で何が不幸かということは、相対的なものです。金持ちであっても、広々とした屋敷の中で家族愛にも恵まれず、悶々と苦しい日々を送る人もいます。「俺の自家用ジェットは新品だ」と自慢し、カネ・モノに満ちてふんぞり返っていた某実業家も、その不正が発覚して、今ではすっかり没落している。そんな例もあります。一方で、貧しくても、「狭いながらも楽しい我が家」とばかりに、家族が仲良く、笑いが絶えない家庭もあります。生まれつき重度の障害を持っている方であっても、心は満ちて幸せを感じて生きている人もいますし、健常者であっても人生に絶望し、自ら命を絶つ人もいます。 「心は工なる画師の如し」という一節が華厳経という経典にあります。心が大事なのです。どんな状況であろうと、心が健全ならば、他と比較して一喜一憂することもなく、ありのままの自分を受け入れて、どこにいようとも、どうあろうと、絶えず幸せを感じることができる。これを「絶対的幸福」と言います。単に物質的に恵まれているのは「相対的幸福」です。どんなに背丈や財産に恵まれていようとも、心がそれらに対して幸せを感じられなければ、何の意味もありません。 我々の信奉する日蓮大聖人のお言葉にも「蔵の財(財産など)よりも身の財(社会的地位など身に付けた特技)すぐれたり身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書)とあります。この「絶対的幸福」こそが、人類が目指すべき真の幸福なのです。
- ikiruimi
- ベストアンサー率25% (2/8)
この世には、不平等のように見える事柄が多くあります。 しかし、すべての事柄には因果関係があるのです。 今とても順調な人生を送っている人は、先祖に善の功労が多い人がいたのだと思います。 ただし、こういう人が自分の利益のためだけに人生を送れば、その功労を食いつぶしただけで終わってしまう可能性があります。 そういう人は、他の人のために生きなければならないでしょう。 反対に、何かの問題に直面しながら人生を送っている人は、先祖の罪をあがなうために生きているのかもしれません。 自分の生きる意味を見つけるためには、自分を絶対無条件の愛で愛してくれている神様の存在を知る必要があります。 生きる意味や、何のために生きているのかといった「人生の根本問題」は、 宇宙の第一原因者たる神について知らなければ解くことができません。 本来人間は、神が人間に与えた祝福、すなわち喜びを実現するために生まれてきます。 しかし、人間始祖の「堕落」によって、人々は、神が分からなくなり、 人生の意味も価値も分からなくなってしまったのです。
- bonogy
- ベストアンサー率22% (99/444)
特に不公平を割り切ろうとしてるわけではないのですが・・・。 個人的考えでは運動神経や頭脳は生まれつきより、生まれてからの過程での差だと思います。 一般的に才能があると言われてる人間は「努力の仕方、最小限で最大限の結果を見つけるのがうまい」のではないでしょうか? 話がずれるかも知れませんが、人間を皆生まれたてに戻して考えるなら能力はみな平等では?と思います。 そこから色々な要因があって成長、上達の結果に差が出てきて不平等に思えるのではないでしょうか? 確かに、効率のいい努力の仕方を見つけれるか否か、生まれた家柄が金持ちか? (スポーツとかなら)いい指導者に出会えるか?ってことも重要で、それを考慮すると不公平な気もします。 それらには運もかなり重要でしょう。 ただ、ルックス(背も含む)は個人の努力とは無縁で生まれつき与えられたものなので不公平だとは思います。 自分もルックスは決していいほうでないし、背も相当低いほうなので、そのあたりに不公平を感じることはあります。 それゆえに「人生運も含め生まれつきから勝負。」と思ってるし、ある意味運の悪い人間は それだけで負けなのだろうと思うこともあります。 (生まれつきの運も人生の勝負のうち、当然どうしても改善されないゆえに負けもある。ってこ)
世の中は不平等というのはけっして間違いではないのですが、正確には平等と不平等が共存しているというふうに考えられたほうが正しいと思います。 たとえば義務教育を受ける権利は平等。選挙権は等しく与えられるというのは平等。平等なところもいくつもあります。 不平等の問題は政治的にたえず論争されてきました。1つの大きな問題はスタート地点が違うということ。たとえば確かに義務教育はみんな受けられるのだけど、もともとお金持ちの家に生まれた子供と、貧乏の家に生まれた子供では、どうみても教育投資に大きな差が出ます。 お金もちの子供は、プロの塾に通わせ、有名私立高校に行かせる。そして海外にも留学させて・・・といったことが可能です。年収1000万以上の人の子供が東大に行く比率が高いらしいですが、まさにこれです。 他方で、貧乏の家はもともと遺伝的に秀才でないかぎり、可能性を引き延ばすことができません。あるいはお金がないために、頭が良くても、大学に行けないという可能性もありえます。 ですから、これを機会の平等の問題といいます。誰もが同じように機会が与えられるべきだということです。たとえば、大学まで学費ゼロにするといった措置は海外ではよくあることです。日本のほうがむしろ高すぎます。 しかし、スタートが同じでも当たり前ですが、ゴールは同じとはかぎりません。同じように、有名大学に入っても、みなが良い就職ができるわけではありません。でも不平等が前提とされた社会においては、結果の平等は不可能です。 ですから、機会の平等をもってスタートを同じにするという政策がヨーロッパではとられています。 頭がいい・ハンサム・運動神経・背が高い・・・このあたりは遺伝的なもの、生物学的な差異ですが、これはどうにもなりませんね。でも、頭がいいことが必ずしも良い人間の条件ではありません。私はそう考えています。ハンサムも運動神経も背が高いことも、必ずしも良い人間にするわけではないし、その条件ではありません。 押尾学という俳優・歌手いますね。彼はアメリカ生まれの日本人。英語ペラペラでハンサムで、女性を何人も虜にしてきました。結婚はしたものの、もともと悪癖で浮気をするらしい。今ももっぱらスキャンダルが耐えません。私は押尾学さんがハンサムなゆえに逆にうまくいっていないのではないかと感じます。ですから、ハンサムでないからといって、人生がうまくいくとはいえない。芸能人なんて離婚だらけですよ。どこが幸せなのでしょう。絶望ばかりだと思います。 ですから、不平等を意識しすぎないことが秘訣だと思います。少なくとも五体満足で、それなりの家庭にいてご飯が食べられるだけで十分なことですよ。 「それともうひとつ聞かせてください。例えば、頭がいい・ハンサム・お金持ち・運動神経・背が高いを5段階評価して、 Aくん Bくん 頭5 頭2 ハ4 ハ1 金5 金2 運5 運1 背4 背1 とした場合、Bくんはどのように生きていけると思いますか?」 この数値化自体があまり良いものではないですね(笑)運なんて数字にできないものです。勘違いしてはいけないのは、人生の成功者といわれる人は、絶えず成功しているというわけではないということ。たいてい大失敗をしています。どれだけハンサムでも失恋を経験しています。芸能人なんて見ているとよく分かりますよね。結局、人間というのは多様であらゆる可能性があるということです。 たとえばハンサムでなくとも、頭がなくとも、技術職で素晴らしい人になるかもしれません。人間というのはいろんな可能性に開かれることができるんです。 「これとは離れるかもしれませんが、生まれつき重度の障害を持っている方はどのように生きられると思いますか?」 これは、ニュースなどでは取り上げないのですが、実は今なおひどい問題です。マイノリティの問題ですね。彼らはたえず社会的に排除されてきました。たとえば五体不満足で生まれた人の大半は、お金は給付されるとはいえ、仕事もできませんし、恋愛もできない、友達もできない、遊ぶこともできない・・・多くの人は家に閉じこもる毎日。彼らは普通の生活ができません。それゆえ死にたいと思うことも多くあると言います。 彼らが充実して生きられることは本当に難しいです。少なくともお金をあげればいいという問題ではありません。やはり彼らも人であり、友達もほしいし、結婚もしたい。でも叶わないことがほとんど。 こうしたマイノリティに対し、今の社会は無視することによって考えないようにしています。もっとこうした人々を受け入れられる社会になったらと思います。
お礼
今回質問をして、感じたことがあります。 それは、持つものが多い人間ほど道を踏み違える可能性が高いのではないかということです。 他人と比較せずに、自分自身の欲すること・好きなことを追及できる人間は幸せだと思います。 長文で回答どうもありがとうございます。
- Harley-1999
- ベストアンサー率29% (341/1166)
不平等といえば不平等なのでしょうね。 あなたも、その不平等の中に生きる一人です。 貧しい国の子供が、あなたに不平等を感じることもあるでしょう。 生きる意味を、パソコンの前で考えているあなたに対し、何日も食事のできない子供は、明日どうやって生きようか?と考えているかもしれません。 あなたが嫌いな食べ物を皿の横によける時、数日何も食べられず亡くなる子供もいます。 その人に対して、あなたは何と言うでしょうか? 『俺だって苦労してるんだよ。』そう言うかもしれません。 イチローも、お金持ちも、ハンサム君も同じです。 『俺だって苦労してるんだよ。』です。 みんな同じように苦労し、同じように幸福を感じている。 上手くできているんですよ、きっと。 以前、視覚障害のある方のエッセイを読みました。 彼はある盲導犬と出会ったことで、大きな幸せや充実感を得ました。 そして神様に感謝したそうです。 『目が見えていたら、この犬とは出会えなかった。 神様、目が見えない自分にしてくれてありがとう。』って。 こんな幸せを、わたしたちは感じられません。 苦労に見合った幸福があり、自分に備わったものの分だけ、幸福感の感度は変わるのではないでしょうか? そして、わたしはあまり頭が良くないので、上手いこと説明できませんが、生きる意味や幸せを知りたかったら、話を聞くより目隠しして一日過ごしてみたらいいですよ。 わたしは半日で泣きました。 目が見えるということに感謝しました。幸せだとおもいました。 ボランティアをしてみたり、海外へ目を向けてもいいかもしれません。 災害のあった場所へ、復興作業のボランティアへ行くのもいいのではないでしょうか? 頭で考えるより、そういったことは感じることで分かるのではないかとおもいます。 これは、個人的な考えですけどね。 そういったことに興味を持ち、頭を抱えるということは、成長の段階に立っているということではないでしょうか? これを機に、もう少し視野を広げて色んなものを見てみるのも、何かを知るキッカケになるかもしれませんよ!
お礼
確かに、生きている限り幸福の絶対量は人によって変わらないのかもしれません。 物質的豊かさによる便利さに満足する一方で、ものに対するありがたみが下がる。 恵まれない環境にありながら、日々小さいことに幸せを見出せる。 私は親戚にカンボジアの人がいて、以前その人の実家に遊びに行ったことがあります。 向こうの人々は、決して豊かではありませんが、日ごろの小さな幸せを素直に喜べる人々で、日本人に比べて幸せそうに見えました。 実は今の今までその事をすっかり忘れていました。 お言葉のとおり、視野を広く持ってみます。 回答ありがとうございます。
人には、持って生まれた資質・環境があります。 この土台の上に個々人の努力が加わって、それぞれの人生が展開してきます。 この場合、時代の追い風に後押しされることもあります。 この場合、時代の逆風に押し戻されることもあります。 さて、資質・環境・時代の風は、個々人の力ではどうすることも出来ません。 が、資質を活かす術は、これ誰しも考えることが出来ます。 が、環境を活かす術は、これ誰しも考えることが出来ます。 が、時代の風を人生に受けることは誰しもが可能です。 ところで、資質を十分に活かした人生であれば、それはそれなりに満足でしょう。 ところで、環境を十分に活かした人生であれば、それはそれなりに満足でしょう。 ところで、時代の追い風を受けた人生であれば、それはそれなりに満足でしょう。 資質に負け、環境に負け、時代に負けては、これは、悔やんでも悔やみきれないと思います。 まあ、27歳で重度の障害児を含む3人の男児の父親になり一女を授かりました。 駆け落ち同然ですから、年収130万円からの再出発。 この状況下で、自らの資質を活かし、与えられた環境下で、いかに時代の風を受けるか? これが私に与えられたテーマでした。 一方で、私に与えられた仕事は、工場の片隅でのパートの方に混じっての雑用。 1年経っても2年経っても、流れ者の私に与えられたのは雑用の類。 かかる状況を不条理と考えたことは一度もなかったですね。 2年経っても僅か150万円そこそこの年収ですから、考える余裕すらなかったのが真相です。 さて、12年前には、あのボロアパートから一戸建てに引っ越しました。 子供達も、大学を出て働いています。 家にはシベリハン・ハスキーやゴールデン・リトリーバーがウロウロしています。 犬の散歩から帰れば、一合の酒と肴が待っています。 「ごくろうさん」 「ありがとう」 ヨロヨロと老犬が寄ってきて私に甘えます。 私の至福の一時です。 これが、私が、蓄積の果てに辿り着いた現在のステージです。 私にとって、人生の幸福は、一合の酒をチビリチビリと飲むその一時にあります。 さて、次のステージは、犬との田舎での暮らしです。 田舎での朝の一時、夜の一時に、やはり、人生の幸福を感じられたら幸いです。 ※朝の食事、夕方の散歩。いずれもが、人生の幸福を感じさせる可能性を秘めています。 ※もちろん、そこに人生の幸福を感じることが出来るか否かは人それぞれです。
お礼
回答ありがとうございます。 人生を一生懸命生きることの大切さがわかった気がします。 一生懸命生きることで達成感や満足は比例するものなんですね。 良い勉強になりました。ありがとうございます。
- bagnacauda
- ベストアンサー率18% (228/1247)
はじめまして。 50代で妻と子供達と暮らす自称「幸せな不良中年」です。 ■努力しても、どうにもならない場合もあります。 皆さんはその不条理をどのように割り切っていますか? そうなんですよね、努力は報われるとは限りません。 しかし、もしも「努力が必ず報われる世の中」があれば、人間は幸福だと思いますか? そういう世の中では、報われない人間=努力が足りない人間となり、人間は報われるまでその事柄に「執着」するかもしれません。 これは「幸せ」じゃない。 そう考えると、「運」という「不条理」は、神様が人間を執着地獄から救うために用意したプレゼントなのかもしれない。 僕は、若いときになかなか仕事が上手く行かずに辛かったとき、こんな風に考え直して自分に運が向くのを待って、チャンスを手にしました。 ■(略)…とした場合、Bくんはどのように生きていけると思いますか? 僕の人生の最大の「ライバル」は、「かっての僕自身」です。 何故僕が今現在「幸せ」を感じて生きているか? 30年前の僕は、妻もなく子もなく、金もなく、気に入った仕事もなく、大した趣味もなく、家もなく、友達も少なかった。 今の僕は、その全ての面で30年前の僕を上回っています。 失った物は「人生の残り時間」くらいかもしれない。 条件や素質的に圧倒的に勝る相手に世俗的成功で勝つことは難しい。 しかし、かっての自分自身を上回り続けることは困難であるけれども可能です。 B君も、僕のように生きればよいと思う。 ■生まれつき重度の障害を持っている方はどのように生きられると思いますか? これと関連して、人生の生きる意味、幸せってなんなのでしょうか? 僕は自分のことを、とてもちっぽけな世俗的な成功者だと自覚しています。 世俗的な成功、つまり地位や財産・名誉を離れて、人間がどれくらい幸せを実感できるかはこれからのテーマです。 世俗的成功に依らない「幸せ」とは何か? 人間の人生の最後にはこれが大切になることだけは確かだと思います。 障害者の方達の幸せについて考えることは、自分自身のこれからの幸せにつながるのかもしれませんね。 それが、子供達が生きる意味を考える基礎になるかもしれない。 最後には、子供や周囲に暖かい何かを残したいと、年齢と共に考えはじめてはいます。そして、そう考えることが出来る心境が高齢者の幸せなのかもしれないと言う気はします。 こういう感覚には、世俗的成功は必要ないのかもしれない。 まあ、きっとこれからも、僕は試行錯誤すると思いますよ。 まだまだ生臭いし、体力も精力も余ってます。(笑) ホント、幸せってなんだろうね♪
お礼
う~ん、確かに、努力に比例して結果が出続ける世界は不条理ですね。 それは考えたことなかったです。 確かに、運による不平等によって、人間は少し休むことを許されてるのかもしれませんね。 とても参考になるアドバイスどうもありがとうございました。
- qwert21
- ベストアンサー率21% (86/392)
ANo.5です。 いえいえ、不快感なんて感じていませんよ(笑) お気遣いありがとうございます。 かえって、障害者はどう生きていくか、等、興味を持っておられた方が嬉しいのです。とても自然で人間らしい質問だと思いますよ。 もし周りにいらっしゃったら、是非勇気を出して手助けしてあげて下さいね。
お礼
はい。 おかげさまで視野が少し広がりました。 度々どうもありがとうございます!
Q、社会の不平等。皆さんはどういう風に割り切っているか教えてください。 A、はて、どこにも<社会の不平等>なんて質問文には書かれていませんが・・・。 社会で成功するか否か? 質問者が問題にしているのは、単に、それだけのこと。 ところで、質問者は、成功して富・地位・名声を得ることが人生の目的と思いますか? ところで、質問者は、成功して富・地位・名声を得ることが幸福な人生と思いますか? 星の瞬く間の儚き一生を、富・地位・名声を希求して貧しく過ごしても何の意味もないです。 Q、人生の生きる意味、幸せってなんなのでしょうか? A、人生の生きる意味、幸せについて考えることに何の意味があろう。 人生の生きる意味、幸せについて考えることに何の意味があろう。 そのような詮索は、高名な哲学者か評論家に任せておけばよい。 それよりも、今日より明日、明日より明後日を充実させることが大事であろうに・・・。 「何をなすべきか?」-この蓄積の果てに辿り着く人生のステージこそが大事であろうに・・・。 そう思う、今日この頃です。
お礼
回答ありがとうございます。 では、豊かに過ごす人生とはなんですか? そこのあなたなりの意見が聞きたいのです。 あと、幸せについて振り返ることは悪いことだと思いません。 確かに、考えることが主題になっては支離滅裂だとは思いますが・
- qwert21
- ベストアンサー率21% (86/392)
努力してもどうにもならないこと、とありますがそうでしょうか? 視点が間違っているんじゃないでしょうか。 本当に血の滲むような努力をした事がありますか?最初からあきらめてしまう事の方が多いんじゃないですか? 何事にしろ、努力した事はすべて無駄にはならないと思います。人生においては長い目で見ることが大切なんです。 自分の願った形で結果が出るかどうかはわかりませんし、そうじゃない場合も多々あると思いますが、自分が何かに向かってした努力は全て自分のものですし、違う形でも必ず結果に結びつくと思います。 幸せはどこか遠いところにあるんじゃないと思います。自分の足元にあります。それを見る努力をしないだけで。他人と比べているうちは、絶対に気付かないでしょう。 生まれつきでも後天的でも重度の障害のある人は、不自由かも知れませんが不幸ではありません。不自由な部分は誰かに補ってもらえばいいですし、周りの人間は助けてあげる必要があると思います。そこに双方の幸せが生まれる。 私の子供は重度の障害児ですが、不幸と思ったことは一度もありません。むしろその逆で、大切なことをいっぱい教えてもらって、生まれてきてくれてありがとうと感謝してます。 誰かと、何かと、比較して生きているうちは、まだまだ余裕があるんですよ。生きるか、死ぬかになったら、そんな事言ってられません。 とにかく、今、自分に出来るだけのことを精一杯やる、それだけです。
お礼
ありがとうございます。 耳が痛いですね。 確かに、血の滲む努力、生きるか死ぬかは経験ないです。 質問の仕方が悪かったかもしれません。 もし、不快感を感じさせてしまったなら、申し訳ないです。 すいません。
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お礼
うーん、でも生まれてから障害を持った方はいくら努力してもスポーツ選手や科学者とかにはなれないんじゃないでしょうか。 ルックスで見た目あれほどの差があるということは他でも生まれながらに差があってもおかしくないと思います。 しかしながら、私は最近人間の才能の絶対量は人によって変わらないんではないかと思います。 例えば、体に不自由がある方は人を思いやる才能が伸びるのではないかと。 確かに、自分の望んだ才能には恵まれていなくても、それで自分の価値観に沿った生活ができれば幸せに生きれるんじゃないかと思います。 回答ありがとうございました。