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障害者と高齢者を含めたバリアフリーについて

障害者や高齢者を含めたあらゆる人々の社会参加や地域生活を実現していくためには、何が一番の障壁となっているか教えて下さい。 またその障壁を除去するためには何が必要ですか。

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  • makotosan
  • ベストアンサー率100% (2/2)
回答No.2

 私なりの答えを出す前にお尋ねします。gamaさんが障害者や高齢者の方達と接したとき、または目にしたときに何を感じますか?あなたにとっての「障壁」はありますか?もし何らかの「障壁」を感じたならどうしてなのか、それはどういうことなのか、考えてみることが大切だと思います。「障壁」は人それぞれ違うと思いますから。  私は、精神障害者の方が通う作業所の職員をしております。自分自身の経験そして地域の方々の反応を見て感じたのは、健常者である自分たちにとって、障害者は異質の人間であるという排除の思想、若しくは哀れみの思想があるのではないかと言うことです。しかし考えてみて下さい。100人に一人の割合で精神分裂病は発病の可能性がありますし、誰でも高齢者になります。つまり、健常者と思っている私たちはいつでも精神障害者になり、そして必ず不自由な思いをする高齢者になるのです。  「障壁」の原点は、私たち健常者の内面であると思います。常に身近な事であると言うことを認識できるかが「障壁」をなくす第一歩ではないでしょうか。そこから初めて、行政に対して声を上げていけるのではないでしょうか。

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  • kenm7
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回答No.5

初めまして。仕事で、身体に障害のある方のバリアフリー等について考えるイベントをやらせていただいたことのある者です。 まず、社会的障壁という言葉がありますが、これについては、ふたつの側面があります。ひとつは、ハードです。つまり、施設・設備の問題です。てすりがついていない、段差がある。階段しかない、。スロープはある急すぎるなど、、、。 特に一番大きいのは、「つければいいんだろう。」的な見た目だけのバリアフリー対応が多いことです。例えば道路です。段差を削っているものの、こんな急な段差、本当に車椅子でこえられるの?というものがたくさん存在します。 そして、もうひとつは、単にある人たちにとってのバリアフリーを考えただけでは、問題が解決しないことです。それはどういうことか。 例えば、視覚障害の方にとっては、30cmのじゃまな段差や壁は、白杖を使っていれば、事前に検知できますから、超えていくこともできます。 でも、1cmの小さな段差は、つまづいてしまうかもしれません。 ところが、車椅子を使っていらっしゃる方にとっては、1cmくらいの段差は、乗り越えていけますが、30cmがあった途端に、もうお手上げです。 これが、実際に街中にも存在します。 みなさん御存じの黄色の道路に貼ってある誘導ブロック。あれが、車椅子の方には、困ったものになっています。あの誘導ブロック、点々のところで、止まれ。線になっているところは、その方向に進めなんです。 視覚障害の方には、それが、役立っているのですが、 車椅子の方が、線のブロックの線と線の間に車輪が入ってしまうと、出れなくなってしまうのです。 このように、ハード的な障壁は、人それぞれ、障害の種類程度によって異なるんだということを知っておいて下さい。 そして、もうひとつの側面、ソフト的なものです。これは行政の問題とわたしたち健常者全ての問題があります。 まず、行政の問題。これには2つあります。 ひとつは縦割行政です。 例えば自治体が、市の総合庁舎の中のホールを改装してバリアフリーを考えたホールを作った。トイレも手すりも、客席にも車椅子用スペースを作ったのに、車椅子利用が少ない。どうしてだろう。 どうしてだと思いますか? 庁舎の入り口がバリアフリーになっていなかったんです。担当セクションが違うだけで、何も解決されないという実際にあった例です。 そして、もうひとつは自治体の勘違いです。 最近景観を考えた道路や歩道というのは一種はやりです。ところが、ある商店街の歩道をカラータイルに変えた時に、あの黄色の誘導ブロックは品が無いから、といって、同系色で少しだけ目立つものにしたんだそうです。確かに景観という点ではいいでしょう。 ところが、弱視の方にとっては、色の差が無いというのが、大変困ったことになっています。黄色の誘導ブロックで、歩道と車道の区別をつけていたりするわけです。 そして、誰もが考えなければいけないのが、健常者としての障害を持った方々に対しての接し方です。 どうしても、何もかもしてあげなければならないと考えてしまいがちですが、それがどうやら間違いのようです。 障害を持った方にお話しを聞いた時に言われたのは、「ぼくたちは、あの山の上まで運んで欲しいと思っているわけではないんです。もし、運ばれてでは、さようならと言われたら、途方に暮れてしまいます。ぼくたち自身が自分で山の上に登れるように手助けして欲しい、どうしたら登れるか考えて欲しいのです。 ぼくたちが仕事をしたり、みなさんと同じように社会参加するための手助けが欲しいんです。必要なことを一緒に訴えていってほしいんです。」 こんな風にいわれました。 確かにその通りなんです。障害を持った方のために、ぼくたちができることを考えなければならないんです。 以上こんなところですか? 障害者の方が自分で車椅子のまま乗り込んで運転できるクルマのキャンペーンをお手伝いしたり、健常者の人たちが、車椅子で、ハード的な障壁とバリアフリー化されたところを実体験できる仮設のイベントをやったりして得た経験でした。お役に立ちましたでしょうか。

noname#5554
noname#5554
回答No.4

わたしは、先天性の身体障害があります。その当事者として言わせて貰いますね。 第一の障壁は、やはり人の意識やと思います。 障害のない方に出逢うと、高齢な方ほど「気の毒に」とか 「頑張って下さい」とか「かわいそう・ふびん」と言われたりします。 ですが、本人にしたら、それが当たり前で育ってきているから、かわいそうがられても困るのです。それに何より、頑張って下さいは腹が立ちます。 何で、普通じゃいかんの?って。客観的に観たら、すごく頑張って神経使って 生きているように見えるのかもしれませんが、それこそが偏見だと思うのです。 必要なとき手伝ってもくれないのに、いかにも言葉でそれをカバーしようとしている人、多いです。 同じ目線で、あたりまえに話したり関わりたいという思いが、まだまだ通用していません。 もう一つは、当事者に使いやすいようにバリアフリー化なされていない施設です。 必要なところに手すりがなかったり、エレベーターが時間制だったり、トイレの前に大きな段差があったり、と、不便なバリアフリーは進んでいますが、当事者が使って心地よく過ごせるというのにはほど遠いのが現状です。 私がお話しできるのは、これだけです。同じ障害者といえど、私と同じ考えの方ばかりではありませんし、高齢者の方の気持ちは分かりません。 ですから、一意見として受け止めていただければ幸いです。 社会参加とか障壁を少なくできる除去できる何て言っているうちは バリアフリーじゃないと言うことですね。きっと。 そんな言葉を使わなくても過ごせるようになる障壁除去の方法や必要性は あなた自身が感じたように行動してみることだと思いますよ。 私は少なくとも、同じ目線で過ごせることが一番のバリアフリーだと思うのですが・・・。 最後まで読んで下さってありがとうございました。

  • YB-4
  • ベストアンサー率25% (3/12)
回答No.3

一番の障壁は何か?と言うのはありません。医療・行政・経済が発展して行くにつれ、その時必要な福祉は変化します。そして行政処置は常にその時必要なニーズに合わせて(つまり遅れて)制度化されてゆくので、前例をを作るためにも先駆者が必要になります。障壁は常に構造的な問題を抱えるため、問題解決には長い時間を要しますし、急ぐと本来守るべき人間から犠牲者が出ます。質問の範囲が広すぎて短くまとめられないのですが、専門者が常に必要と感じることは、人・金・賛同者が少ないことで、それを解決することも専門者の仕事だと思っています。 一度興味のある福祉にボランティアで参加してみてください。そこで「あなた」によって笑顔になる人が必ずいます。

  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.1

私が思うのは高齢者や障害者、いわゆる社会的弱者といわれる人たちに対する、一般の人たちの認識があらゆる障壁の根本問題だと思います。 多くの人は、高齢者や障害者に対して、何かしてあげる、手伝ってあげるということを親切と感じている人が多いと思います。 しかし、これではその親切を受ける側が特に日本の様な風土では、申しわけないと委縮してしまいます。それで人に迷惑をかけまいとして、何もしなくなるか、頼りっきりになり自立を忘れてしまい、生活の質(というよりQOL)も低下していきます。 生きる権利が保障されている以上、そういう援助は親切ではなく、行政の義務なはずであり、それを一般の人の親切に頼ろうというのは行政の怠慢です。 社会的弱者といわれる人は何も出来ない集団ではなく、一定の援助があれば何かできる、ある程度自立して生きることができるという人達であり、これをそもそも障害と捉えるのではなく、個性として捉え直す必要があると思います。