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尾崎放哉 "咳をしても一人"の解釈
タイトルの通りです。この句はどのような解釈ができるのでしょうか?
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下の回答者さんがおっしゃっているような、 音が響くことで周りの物理的な孤独に気づく、という風景と同時に 「作者が咳をしても誰一人として心配してくれるものがいない」 という寂しさがあらわされているのではないでしょうか。 病気で体の不調と同時に気が滅入った状態のときに 家族や友人が心配・看病してくれると安心できるものですけど、それがない。 3・3・3の言葉で端的にあらわすことによって、 音が響く風景としての孤独と 誰も心配してくれない社会的な孤独の 両方をあらわしているのではないのかなぁ、と感じました。 似たように解釈されている瓜生鉄二さんの文が転載されているサイトがあったので、下に載せておきます。 サイトめぐりの中では、かまわれたくて咳をしているのでは、というかわいい解釈もありました^^ 俳句って面白いですね。
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- tatuorika
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孤独と寂しさを感じさせる句、というのが一般的解釈ですよね。 ただ、この句がそう解釈されているのは、彼のその当時の生活、経歴を知っていることが前提になっています。 私は、句のなかの“も”を、“が”にしたらどうだろうと思うことがあります。 孤独、寂しさが、より強く表現されると思ったりするのですが・・・。
尾崎放哉の生涯や、そうした句が詠まれたときの背景などを知っていると、句の味わいも深くなります。 その意味で、放哉を描いた吉村昭の「海も暮れきる」はいかがでしょうか。いい作品です。
- a375
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放哉の句についてはあまり関心が無いのですが、つまりは孤独のきわみと私は解釈しています。ですから孤独の象徴に自分だけしか動作を起こしえない「咳」を持ってきたのですが、これはこの句の弱点でもあります。この「咳」の替りに何を持ってきても句らしきものになります。例えば「酒を飲んでも一人」「夢から覚めても一人」山頭火スタイルでいけば「奥山わけいつても一人」「墓の水を飲んでも一人」となり要は独白の句で、静かなお堂でコンと咳をしたがむなしく響く孤独の極みの表現でしょう。しかし好き嫌い分かれる句ですが、私から見ればあまり芸の無い句に見えますがどうでしょうか。