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難病治療のための募金活動のあり方
http://news.goo.ne.jp/article/nbonline/business/nbonline-117394-01.html 宋文洲の傍目八目 捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと [1/4](日経ビジネスオンライン) - goo ニュース 上は、中国の貧しい農村の少女が白血病になった際の募金の様子です。父親は貧しい家計にも関わらず家を売り、親戚を回ってお金を集めたようです。 一方、国内の難病児(そういえば、大人のは聞いたことがありませんね)にたいする募金活動では、公式HPで「本会は、○○ちゃんのアメリカでの多臓器移植に関わるすべての費用を募金活動で行うことを目的とする。」(「」内は完全に同一文です…規約に触れる可能性があるので引用元は明かさないことにしますが)と詠っているところもあります。 どちらも不幸な境遇にある、同情されるべき人たちであるのは重々承知していますが、やはり後者の方法には問題がある気がします。 なぜ後者のような自分本位の活動をしてしまう人がいるのでしょう?背景にある問題、この違いへの感想など幅広くお聞きしたいです。よろしくお願いします。
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どちらの言い分が本当なのだろう。と、思っているところです。 ○○ちゃん募金を非難するサイトと、毎日新聞が、です。 個人の○○ちゃんの命という、くくりではなく、「難病のこどもたち」というくくりで、広く、基金とかの形をとって、募金を募るのだったら、もう少し、違和感が減るかもしれません。 手術費、入院費は、基金から、捻出し、滞在費などは、家族負担とし、貸付という形をとるとか。
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- 5S6
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難病治療なら 少女である。 ある程度の容姿である。 というのでないと難しいですよね。 これを悪用した死ぬ死ぬ詐欺というのもありますがあえてここでは書きません。 人の命は大切だ。 とかいうなら募金活動までして金を集めなくても病院も、タダとは言わないモノの その人の支払い能力に合わせた価格でやったら? テレビで募金を募るなら、CMに数千万嫌えるスポンサーがたくさんいるのだから 払ってもらえばいいじゃん。とか思います。 家族などが募金を集めることについては、1つのアイデアですよね。 プライドを捨てるという表現はおかしいですが、助けてください! と皆に言える勇気というか、活動する行動力があります。 それで娘や息子が救えるなら大きな行動力、勇気があると思いますよ。 逆にこういうのをみて、ああかわいそうだ。 と思うだけで募金しないなら力なき正義というか偽善者。 思う竹なら誰でもできる。 世界が平和で皆手をつないで暮らせる世界がいいな! と言っているようなモノですから。 金にかかわらず、行動力なども1つの力だと思いますよ。 中国の少女はについてはその記事しか見てないけど、ほかにも不幸な人はたくさんいます。 途上国の田舎、治安の悪い国、売春させられるような国もたくさんあるし。 臓器・・・ 私は不思議に思うのですが、臓器提供には本人の意思ももちろん、その家族、その他条件 が厳しいです。 ならいっそのこと、命のリサイクル。 囚人や凶悪犯の脳を打ち抜いて使える部品(臓器、目、手足・・・)を提供させれば いいのでは?とつくづく思います。 死刑反対の人にも有効かもしれません。 えん罪だったら?とかそういう話になるときりがないのですが。
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>金にかかわらず、行動力なども1つの力だと思いますよ。 回答ありがとうございます。そう考えることもできますね。もし自分の身内が死にそうになったら正しいとか正しくないとかじゃなく、生きたもん勝ちだと考えてしまうかも…。でもその行動の結果社会から批判を受けるのも覚悟の上ですが。 臓器提供の話は難しいですね。日本人がお金を持って外国人の臓器を奪いにいく現状(日本人が海外で手術を受けた結果、移植をうけられなかった人もいるのでは?と思ってしまいます)には、私たち日本人が対応しなければならないですからね。移植を積極的に進めないなら海外移植もしない、それじゃあかわいそうだというのなら積極的に移植医療を進める、どちらか選ばなければ国民全体が「ドナーは出したくないけれど臓器は欲しい」というワガママ放題の国になっちゃいますよね。 とか散々言っても、私はこのことで国会議員になろうとは思わないので、結局no4さんの言う偽善に過ぎないんですけどね。
- jamiru
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むしろ、他人頼みではなく、私が病を治すんだ!! という気持ちは無いんでしょうかね。 ここがかなり不思議です。 家族をコレラで亡くしたからこそ北里柴三郎は立ち上がったんですがね。 富国強兵にばかり金を使い、防疫対策を怠る国にすらひたすら講義しましたよ。 ところでで。街頭募金の彼等は何をしているのですか?
お礼
>私が病を治すんだ!! なるほど、威勢は良いですね。しかしその頃には娘さんは亡くなっているというのも事実。 >街頭募金の彼等は何をしているのですか? というのは、募金を始めた家族の支援者の事でしょうか。「○○ちゃんを助けたい」という気持ちは私も非常に肯定しています。そういう気持ちを忘れたら人間終わりです。そんな彼らの立場から「あんたら(家族)がちゃんとお金出さなきゃ誰も納得しないよ」などとは言えないのでしょう。しかし、逆に家族が家を売ろうとしたときに止めそうなおせっかいな人も支援者の中にはいそうなイメージですね…。イメージで語るのは辞めましょうか。 回答ありがとうございました。
- appleapple
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みんな同じでなければならない、という考えに、問題があると思います。 自然界を見ても、弱い、病気、年老いた動物は、生きられません。 オオカミがカモシカを襲う時、かならず、のろいものを襲います。 それで、カモシカの生存秩序が保たれるわけです。 8年の命も、90年の命も、宇宙の法則から見れば同じです。 長ければよい、というものでもなく、短ければかわいそうと決められないのです。 個人的には、~ちゃんを救うため、の募金は反対です。 ケチでいっているわけではなく、人間はそれなりの目的があって産まれてくるので、そのコースを無理に変えようとせず、自然に受け入れるほうが良いと思うからです。 うちの家族では、万一だれかが、重病になっても、一応の手当をしたあとは、家を売ってまで命に固執するのは止めようと、話がしてあります。 家を売ったら、残った家族は路頭に迷います。下の子どもの進学資金も無くなります。命は大切ですが、他の家族の生活も維持しなければなりません。
お礼
>命は大切ですが、他の家族の生活も維持しなければなりません。 回答ありがとうございました。この部分、難しい選択ですが選択されてるだけ立派だなぁと思いました。選べない選択を迫られて、それでも(自分なりに)より良い方を選ぼうという状況、 子供が難病にかかってお金が足りないときもまさに同じ状況ではないかと思います。「お金が無いから諦める」「全てを犠牲にしてでも助ける」こういう選択を迫られるのかな、と私は思っていましたが、全額募金に頼るというのは「犠牲は出したくない、でも助けたい」という意思の現れと受け取られても仕方の無い気がします。
- totovc
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まず中国の少女の例について。 こういう話は美談として事実がかなり脚色されている場合もあります。事実関係がまさにこの通りかどうかは必ずしも確かではないかもしれません。もちろん、この話の通りなら随分心根のやさしい男性だと思います。未婚なのに幼女を育てようというのも日本の感覚では珍しいですね。 この男性がお金を集める手段として家を売ったり親戚を回ったのはそれ以外に手段が無かったからで日本でのように募金活動が出来るなら募金活動に頼りたかったかもしれません。また、「自分の家を売る」ならともかく頼られた親戚も辛かったかも。そういう意味では頼まれたら断りづらい親戚に依存するより自分の意志でお金を出してくれる第三者を募る募金活動の方が妥当かもしれません。 「本会は、○○ちゃんのアメリカでの多臓器移植に関わるすべての費用を募金活動で行うことを目的とする。」というのが「自分本位の活動」という理由は?親は誰でも自分の子の命を助けたいでしょうし、それを他人が「自分本位」というのはどうも・・・。 「親が自分の家を売却せずに他人の金に頼ろうとしたこと」が自分本位? しかし子どもが助かっても家が無く安定した生活が出来なければその後子どもの命も守れないわけで。心臓移植などの場合は一生、拒絶反応を防ぐ薬を飲んだりその後のケアも必要なようで経済的に逼迫すればせっかく助かった子どもの命を守り切れないと親が考えても仕方ない気もします。 いずれにせよ「○○ちゃんのアメリカでの多臓器移植に関わるすべての費用を募金活動で行うことを目的とする。」という会の趣旨に賛同した人のみ募金に応じ、そうでない人は募金しないという自由な選択が出来るわけだから、賛同できない人は「私は賛同出来ないな。でも世の中には賛同して募金する人もいるのだな」と思っていればいいだけで批判的な目で見る必要まではないように思います。 「お金の集めのあり方」よりも私はむしろ「医療のあり方」の方が気になりました。 例えば中国の少女の場合、多額のお金を投じて治療をしたものの、手遅れだったためもあるのか「化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いる」ことになり、その上、命も助からなかったのです。 高度医療は膨大なお金が掛かる上、患者にも苦痛を強い、しかし助からなかったり仮に助かっても通常の生活が送れずに生きるためだけに膨大なお金が掛かり続けるという場合もあるようです。もちろん、助かってかなり普通の生活が送れる場合もあるようですが。 仮に「膨大なお金が掛かり続けて単にベッドの上で生きるために生きるだけの状態」になっても家族としてはそれでも生きて欲しいと思うものではと思いますが、難しい問題だと思います。 いずれの少女の場合も、家族だけで費用を賄うのは困難であり、かと言って「税金を投入」となればそれもまた、特定の人に膨大な金額をつぎ込まねばならぬことになるのでいろいろな意味で難しい問題かもと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >「親が自分の家を売却せずに他人の金に頼ろうとしたこと」が自分本位? この辺、回答を読んでなるほど、と思いました。しかし、やはり私としてはいくら今後の生活の苦しさを考えても自分は大した出費も出さずに他人の助けをあてにしようという態度自体が不愉快だと思います。手術費と銘打っていても余ったお金は数年間の健康管理費として利用されるケースも見受けられます(基金を設立する人もおり、どちらが多いかなどは分かりませんが)。 >自由な選択が出来るわけだから それは批判されない理由にはならないでしょう。テレビを見るのは選択ですが、昼間っから子供に見せられないような番組をやっていたら不快に思う人もいていいはずです。 医療の問題(というより、どう生きるかという問題?)、そう言う事もできますがそこは永遠に解決しない課題のような気もします。突き詰めて考えていけば「死ぬのと一生ベッドで生きるののどちらが素晴らしいか」の結論が出るというものではないですよね。だとしたらそこに問題を移すのは私は賛成できません。 不愉快な文章になったかもしれませんが、私とまったく逆の意見をお持ちのようで非常に参考になりました。ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 毎日新聞・・・元旦の2ちゃんねる批判の事でしょうか。どちらが本当か、というのはとても重要な事ですね。 基金にすれば違和感が無い、というご意見、非常に参考になりました。言われて気づいたのですが、私は何も募金を募ることが悪いとは思いませんしそれで助かる命があるのなら推奨されるべきことだと思います。公にそういうシステムができても良いのかもしれません。 ただ、現実的な問題として「○○ちゃんが**という病気で苦しんでいます」と顔写真つきで街頭ポスターを掲げでもしないと、多くの人の同情を買うことは難しいような気もします。「難病対策基金にご協力を」と募金を集めても、他の数多ある団体に紛れてしまうかもしれません。 逆に、今個人で募金を募っている(=多くの人の心を動かしやすい)からこそ、きちんと、誠実なやり方で募金を集めてほしいという気はしますね。