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キリスト教を信じるきっかけ
皆さんは今まで生きてこられた中で「偶然」をたくさん経験されていると思います。私もそうなのですが,最近はそういった「偶然」が単なる偶然ではなく,何かの意味があり,誰かの導きであると思えるようになってきました。ごく最近では「奇跡」とも思えることすらありました。今ではあらゆる出来事が必然のようにも思えてきています(こうやって質問していること自体もです。)。 そこで質問なのですが,こういった動機で神を信じたりするのは不純(というか変)でしょうか。「あなた,頭おかしいよ」といった叱咤でもかまいません。親しい友人は風俗にでも行ってこい,と言ってくれました。 また,実際上記のような動機でキリスト教を信じるようになった方にお聞きしたいのですが,なぜキリスト教を選択されたのでしょうか。神(またはこれに似た意思のようなもの)の存在を感じられたとしても,他の宗教の神でも八百万の神々でもよかったのではないでしょうか。こういう疑問を抱いていること自体もうダメなのかもしれませんが・・・。伝聞,推測でも全然かまいません。 なんだか巷間のオカルト体験談のようになってしましましたが,お時間がございましたら,ぜひともよろしくお願いいたします。
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私は信者ではないんですけど、中高大学とプロテスタントのキリスト教の私立の学校に通いましたのでかなり知らないうちにこの宗教を深く学んでいる気がします。 洗礼を受けて信者になろうとまでは思いませんが、この教えで私が感じたことは修行とかが必要というわけではなく、自分の気持ちの持ち方がいつも問われるというか、「自分が絶対ではない」=「神の存在」ということが根本のようなのでそこは気に入っています。ただし教えが私にとってはガマンが必要な事が多くて(誰にでも親切で天使のような心は私にはストレスが溜まって無理ですが^^;・・。)穏やかな人格形成には役立ったような気がしますが世間の荒波には弱かったりしています・・(中途半端な精神だからですがね、ちゃんと信仰している人は昔の隠れキリシタンのように強~い心を持っているでしょう) どの宗教を選ぶにせよ人への感謝とか食べ物への感謝とか戒律のようなものはありますが、キリスト教では他の宗教に比べて階級とか(大司教とかわいますが^^;)修行とかないし、まろやかというか、賛美歌であったり、人間は自分だけが大切なのではなく病める者も貧しいものも生きとし生けるもの皆平等で心を開けばその時点で救われるという教えや何にでもやたらに感謝するというのが実に平和的で入りやすく、判りやすくていいとは思います。 すべて偶然じゃなくて必然かどうかはその人の考え方次第と思いますが、宗教も自分に合う合わないがあると思いますので興味を持たれた神?があったならそれでいいと思いますよ。 キリスト教の授業で「いわしの頭も信心から」ということを習った記憶があります・・なんでも信じれば自分にとっては神になると^^;。 だから自分を司っている何かがあっていろいろな事が起こっていると感じるならばキリスト教的に言えば周りへの感謝や普段の行いがそのような事をもたらしてるとなり、仏教で言えば輪廻転生みたいになるのではないかと思います。生きていれば不思議な体験をする事もあることですし、生命の謎なんて誰にも分からないのだからそれが理由で信心しても何もおかしくない立派な動機だと思いますよ。 これを機にキリスト教徒になれば更に優し~い人になるのではないでしょうか^^;?回答が質問の趣旨とずれていたらゴメンナサイ。 何か参考になればと思います。
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No.1さんmNo.2さんでおおよそ解決済みかと思います。どちらもクリスチャン的心情のようですけれども。 「いわしの頭も信心から」昔から言われていることですがそうですよね。ある面自分の運命なんて、馬が自分の頭から鼻先にぶら下げた人参のようなものです。食べようとして右を向けば右、左を向けば左に人参が移動するために、右往左往しながら進んでいくのでしょう。しっかりまん前を見据えれば、まっすぐに進める。 しかし、人間なかなかな真っ直ぐ進めないからないから、何かにさがいたいし助けを求めることになる。そのひとつが信心かもしれませんね。 神の使わしたキリストが生誕してからたかだか2千年。その前の何千年かに人々の安泰は無かったのでしょうか。悪人を滅ぼされたと聖書にあるが善人に変えたとはなっていないところもある。善人悪人があっての世の中なかなか難しい。(悪口ではなく) 愛が無いような目には目を歯に歯をと、一見闘争的なイスラムの教え。戦争は終わらない。どの宗教も一部を突っついていけば信ずるに足らなくなってしまう。 もっと素直な気持ちで信ずる者になって生きたいものです。ただし、売れっ子タレントのだれだれさんが、お笑いの誰さんが、女優の誰さんが入信しているから、○○○会に入ろうかなどという、安易な気持ちで信仰に入るのだけはやめたほうが賢明です。
お礼
暖かいご回答ありがとうございました。 自分は無神論者でも不可知論じゃでもいられるほど強くはなく、また、人類と宗教の歴史に思いを馳せられるほどの余裕も知性もありません。なんだか絶望的な気分になってきていますが、aakireiさんの示唆も含め、回答してくださった4名の方に感謝します。 「素直な気持ちで」信じる者になる。というのは全く同感です。もっとも、タレントの某が、というのは全くありません。 しかし、いわゆる「プロ倫」に見られるような世俗的な成功や、身の回りの色々な出来事に意味を感じることや、何かに一生懸命になる動機にするとか、自分の利益のために信仰をすることには若干罪悪感を感じています。 今日聖書が届きました。気分が落ち着いたら幼稚園の頃お世話になった教会にでも行ってみようと思います。
- kona-coffee
- ベストアンサー率28% (200/691)
クリスチャンでもプロテスタントでもありませんが、どちらかといえば キリスト教を信仰しています。 理由は単純で、子供(小学校低学年)の頃「教会学校」に通っていたからです。 なぜ通っていたかと言うと、、、、不明です。。。 気がついたら、日曜の朝、近所の友だちと連れ立って通っていました。 子供心にも、日々の糧を分け与えたキリストに感動いたしました。 それがとても印象に残っていて、未だにお願い事をするときには、 無意識に手を組んでしまいます。 最初に神の教えにふれたのが「キリスト教」だったので、私にとって神と言えば「キリスト様」です。 洗礼を受けられたキリスト教徒の方のお叱りを受けそうですが、 私にとっての神はやっぱり「キリスト様」です。
お礼
貴重な体験談、ありがたく拝読させていただきました。ありがとうございます。 私も、プロテスタント系の幼稚園に通っており、小学校2年生まで日曜学校(確かそういう名前でした。)に参加させていただいておりました。kona-coffeeさんと同様、神様と言えばキリスト教の神様を思い浮かべる理由は、このあたりにあるかもしれませんね。 kona-coffeeさんのご経験にしても、私の経験にしても、理由はともかく、自己決定の範疇外での出来事だと思います。こうった偶然(私は必然だと思うのですが)に感謝して生きていこうと思います。 有益な示唆を賜りました。重ねて、ありがとうございました。
- sanga12
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これといった宗教を信仰する私ではありませんが、母方は代々の仏教家庭ですが、親父はプロテスタント系の教会に昔よく礼拝に行っていたことがあります、親父の親(僕の祖父)は所謂お坊さんで、先の大戦でお寺に空襲があり亡くなっています。親父の兄弟は、疎開で血縁関係で田舎のお寺に避難しました。そんな、親父が教会に通い始めた大きな要因は、親父が長期入院をした時に親身になって世話をしてくれた人がクリスチャンだったようで、でも、その人は、自分の宗教のことは一切、親父が聞き出すまで言われなかったし、そんな雰囲気もなかったとのことです。まあ、親父の場合は、自分が入院で、気が沈んでいるところを、すっくってくれた人の宗教に興味を覚え、教会に足を運ぶようになったとのこと・・・・ やっぱり、人間、心の中に、善と悪が共存していて、罪の意識を感じるときに、救いを精神的なものに求めたくなった時に、そーっと手を伸ばしてくれるのもが、宗教だと思います。仏さんにしろ、神様にしろ、信じる心一つで、色々なこと(現象・思想など)が一つの必然的な繋がりの中にある場合と、心が満たされないとバラバラに感じる様になるのではないでしょうか。その心を満たすために、物欲などに走らずに心(精神)を大きく(伸ばす)するのが宗教だと感じます。 ただ、日本の社会は仏教を中心に神道の国ですから、なかなかキリスト教やイスラム教と言ったユダヤ教系の宗教はまだまだ理解されずらい環境で、オギャーと命を授かったら、宮参り(神道)で結婚式はヨーロピアン風のチャペル(キリスト教)で、亡くなれば、お坊さんがお経を唱える(仏教)というおかしな国ですから、他の人の考えよりも自分が信じられそうだ、仕えられそうだと思う宗教を選択すればいいと思います。 だって、僕はそういう環境に育ったからか、道路で猫や狸が轢かれて死んでいると、手を合わすより先に十字を切る癖が付いていて、子供から不思議がられています・・・・ 回答じゃないですが、ふぁ~と読んでいただければと思います
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 親父さんの世話をなさったクリスチャンにしてもそうですが、自分からは話さないといった謙虚さに大変惹かれます。親父さんが聞き出して初めて言われる、信じる者の心から生まれる教えといいますか、うまいこと表現できないのですが。 2段落目の宗教についてのsanga12さんのお考え、大変わかりやすいです。内容にも大変納得しました。「信じる心一つ」なのでしょうね。こうやってsanga12さんが丁寧に回答を付けてくださるのも、「一つの必然的な繋がりの中にある」のだ思いました(sanga12さんの自由意思を否定するとかではないです。)。 「回答じゃない」とのことですが、私にとっては十分回答になっています。重ねて、ありがとうございました。
お礼
親切なご回答ありがとうございます。 >自分の気持ちの持ち方がいつも問われるというか、 >「自分が絶対ではない」=「神の存在」ということが根本のようなので そうです!今までそれなりに葛藤なり試練めいたことなりがあって、自分自身の力でそれを乗り越えてきた、と考えてきたのが傲慢だったなあ、と思います。このあたりを、m3o3mさんの仰るとおり、「何にでもやたら感謝」したいのです。 その感謝の相手は、今まで折に触れて親であったり友人であったり配偶者であったりしますが、質問欄で記載したような経緯から、神様ではないか、と思えてきたのです。 仏教でいう因果律や縁起や、いわゆる共時性も、言われてみれば確かにそうかなとも思えます。しかし仏教については私の理解不足なのですが、「優し~い人」ではなく無気力な人になっちゃう気がして怖いです。共時性については信仰心や感謝とは無縁の世界ですので、これもちょっと違うな・・・。と。 お礼内容なのに延々と書いてしまいましたが、m3o3mさんに触発されたところは今後も色々考えてみます。質問の趣旨とはずれていませんよ。重ねて、ありがとうございました。