- ベストアンサー
加藤の乱について
数年前にあった加藤の乱とはいったいどのようなものだったのでしょうか? 加藤紘一氏が何か失敗したというぐらいしかわからないもので…. わかりやすく教えてください. お願いします.
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
<橋本政権~小淵政権> 加藤氏は元幹事長という肩書き。これは橋本政権の時に幹事長だったから。 橋本政権は1998年の参議院選挙で大敗し幹事長であった加藤氏も退陣。 そして田中真紀子氏に「凡人、軍人、変人」と揶揄された、小淵、梶山、小泉の 自民党総裁選挙へと突入しました。加藤氏の所属する旧宮沢派は小淵氏を支持して 小淵政権が誕生しました。ここで重要なのは総裁選挙に立候補することは 自分を最高にアピールする場所であるということです。(現在の小泉政権でも、 それまで無名だった麻生氏が総裁選後に政調会長に就任しました) ここまでの自民党の派閥について整理してみましょう。 旧竹下派は小淵派、旧渡辺派が山崎派、旧三塚派が森派、旧宮沢派が加藤派となり、 旧渡辺派から村上グループ、河野グループが独立、旧三塚派から亀井グループが独立 さらに村上グループと亀井グループが合併して江藤・亀井派が誕生していました。 ポイントは名門だった旧渡辺派の継承者であった山崎派が弱小集団になったことです。 <第一次小淵政権> この時点では加藤氏は党の主流派であり、小泉氏の所属していた森派や 山崎派が反主流派となっていました。これが激変したのが翌年に行われた自民党総裁選。 (98年は任期途中の総裁選で99年が正式な任期満了) 絶好調であった小淵政権は野中氏の下、無投票で再選というシナリオを考えていました。 ところが弱小集団のリーダー山崎拓氏は「次の次の総理」を目指して 総裁選に立候補しました。これに慌てたのが次の次の総理大本命だった加藤氏。 ライバルにアピールされてはたまらないと考えたのか追随立候補。 それまで一緒に小淵政権を支えてきた小淵派にとってみれば裏切られたとしか言えず しかも、なんの大義名分もない立候補に加藤憎しの声があがりました。 結局、小淵派は反主流派だった森派や中間勢力だった江藤・亀井派を 抱え込んで総裁選に圧勝。しかし、小淵氏にとってみれば敵役だった森派を 党の中枢へ迎えいれる代償を払うはめになり加藤憎しはさらに増加。 総裁選をアピールポイントと軽視していた加藤氏は大誤算、大打撃を被りました。 <第二次小淵政権~森政権> この時点で、加藤氏は反主流派に転落。しかも味方は弱小集団山崎派のみ。 このままでは埋没の運命にあった加藤氏に転機が訪れたのは2000年春。 小淵総理の死去により「加藤はずし」が解除されるものと期待するも、 絶好のアピールポイントである総裁選挙はうやむやのまま行われず 密室五人衆の裁定によって森政権が誕生しました。 しかも、閣僚は現状維持という加藤はずし体制のまま続くことに。 その森首相と言えば失言総理の異名を取り国民の人気は絶不調。 にわかにポスト森の動きが活発になってきました。さらに2001年からの 省庁改編により12月中に内閣改造が迫っていました。ここにきて加藤氏は 内閣不信任を取り引き材料に自民党での復権を目指しました。つまり、 加藤氏にとってみればブラフにすぎませんでした。 この策略に大誤算を与えたのが民主党の管直人氏。管氏はマスコミを煽り 加藤氏の造反を促し、自民党壊滅を目論んでいました。 更に自民党からも「自民党の明日を考える会」という石原・渡辺氏率いる若手集団が 参戦の気配を示し、管氏の策謀により、自民党大分裂、野党との連合、 加藤政権が誕生という加藤氏の当初の予想を超えた決戦ムードが高まり 「加藤の乱」へと突入していったのです。 <加藤の乱> 数の上では勝利は間違いありませんでしたが、元々、加藤派は伝統的に 公家集団と揶揄されるほど戦が下手でした。特にリーダーである加藤氏は 小淵総理との総裁選完敗から所属議員の人望も薄いため、覚悟を決めた山崎派に 対して基盤があやふや。そこを小泉森派会長率いる森政権連合軍に 攻められて、加藤派からは寝返りが続出。本陣の弱体化で若手集団も 一部の強硬派を除いて沈静化。本来、強力な援軍になったであろう 白川・平沼氏率いる自民党の反公明党集団は加藤の乱より数カ月前、 2001夏の衆議院選挙で自民党から見放されて惨敗しており、 加藤・山崎連合軍の敗戦は濃厚になりました。 それでも管氏は自民党の弱体化を目指し、自民党離脱も含めて 野党の不信任決議案に共闘を呼び掛け、山崎氏も せめて自分達だけは責任を取って反対しようと呼び掛けましが 自民党破門を恐れた加藤親衛隊により加藤氏も動けず(よくTVで放映される 加藤氏が壇上で泣きながら他の議員に説得されてる映像はこの場面) かといって、今さら刀をおさめることもできず、結局、議決を棄権するという 中途半端な反乱で終了しました。 <戦が終わって> この戦いでほとんど造反者を出さなかった山崎氏は自民党で再評価され 現在の幹事長就任へとつながっています。加藤派はというと80人中 60人が加藤氏を見限り堀内派を結成。名門、宏池会を引き継いだはずの 加藤派は弱小勢力へと転落していきました。そして、2002、 管氏と田中氏の策略から始った宗男・清美国会で政治問題が活発になり なにもかも失ってしまいまいました。
その他の回答 (1)
- Eivis
- ベストアンサー率29% (1122/3749)
「加藤の乱」は私に云わせれば単なる『加藤の乱心』で、墓穴を掘った優柔不断の蝙蝠男、加藤紘一の面目躍如たるものです。。。 概略は森内閣を不信任しようとして腰砕けになったというそれだけの事ですが、書く気にもならないお粗末な結末でした。 ・・・2000[平成12]年11月21日、森内閣不信任案採決・・・ 『加藤紘一氏と山崎拓氏の逃亡などにより、賛成190、反対237、棄権1、欠席51(うち病欠2、退場1含む)で否決されました。』 http://murasame_toppa.tripod.co.jp/topix/2000/katou_rebellion.htm 当時H12年頃、後輩議員の渡辺喜美氏の書かれた文が彼のHPに紹介されていますのでご覧下さい! http://www.nasu-net.or.jp/~yoshimi/mas/kato1.html
お礼
なるほど.そうゆうことだったんですね. 御教授ありがとうございました.
お礼
詳しい説明ありがとうございます. よくわかりました. その加藤氏も議員辞職らしいですね. ありがとうございました.