狂ってはいません。
あなたの言うトラウマとは、劣等感のことであると思います。
人間、劣等感を克服する力こそ、身につけなければなりません。そして一つや二つの劣等感があってこそ、人間として深みが出るのです。
何一つ劣等感を持たない自信家を想像してみてください。その人は、他人を「自分みたいでなくてかわいそうだなあ」と思うことはできても、その痛みを自分のことのように考えることはできないはずです。
あるいは他人の痛みなど気づかないかもしれません。
個人の尊厳を大切にするとは、差があるという現実を教えず、隠し、ぬるま湯につけておいて、最後に世間に放り出すことではありません。
足が遅い人間に、足が遅いことを暗記が苦手な人間に、暗記が苦手であることを、絵が下手な人間に絵が下手なことを、気づかせないことが、人間の尊厳を守るということではないのです。
足が遅いからといって、それに劣等感を持ったとしても、自分は人間として駄目だと思い込んでしまうことが、尊厳を失うということです。
もちろん教育機関が、そこまで考えて偏差値を使っていたとは、私は考えません。しかし教育機関が何を教育しているかを考えれば、偏差値というものは妥当なシステムでした。
教育機関が、人間のあらゆることを、それこそ人間性まで評価し、順位をつけたとしたら、それこそ人間の尊厳を踏みにじることになります。
問題は、教育機関以外が、子供を評価しなくなってしまったことなのです。
家庭も子どもの偏差値だけを、社会も子どもの偏差値だけを、そして当人もそれが全てになってしまうから、ものごとが滅茶苦茶になったのです。
商人の子が商売を手伝ったり、年上の子が年下の子を子守しなくなったりして、とにかく勉強だけが、偏差値を上げることだけが大事になってしまったことが問題なのです。
偏差値を出すことが人間の尊厳を踏みにじることではなく、偏差値だけが人間を評価する物差しになってしまったことが、問題だったのです。
繰り返しますが、これは教育機関のせいではありません。
教育機関、つまり学校とは、運動会のカケッコをしているフィールドのような場所です。そこでは走る速さが全てで、順位という現実と向かい合い、順位を上げるために自分を鍛えなければなりませんし、限界もわきまえなければなりません。
しかしそれは、カケッコの順位でしかないことも、わきまえなければなりません。早い者は優越感を持ち、遅い者は劣等感を持ってもいいのです。しかしそれを、人間としての評価に結びつける必要はありません。
人間の尊厳は、それ一つではかれるものではないからです。
よって教育機関は教育機関なので、勉強ででかい顔して子供に順位をつけ、劣等感を与えていいのです。しかし同時に、優越感をも与えているのです。
しかしあなたのように考える人たちが、これではいかんと、偏差値という物差しを無くしました。
競争で順位が出ると、一番後ろの子がかわいそうだからと、順位を出さないことにしたのです。
結局それは、「偏差値で認められる」人々が認められなくなっただけの話でした。
順位という目標を得て努力し、精一杯力を出す機会や、自分の順位を知る機会を奪われたにすぎません。
たしかに劣等感はそこで発生しなくなりました。
しかし人間には、劣等感が必要なのです。
そして優越感を得る機会も必要なのです。
偏差値が唯一の物差しになり、そしてその物差しがなくなりました。
あらゆる面で、人はみな同じ能力を持っているわけではありません。
本当に必要だったのは、たくさんの物差しです。
あることで評価を得られなくても、たくさんの物差しのうちの一つででも認められれば、人間は自分に自信を持つことができます。
少なくとも偏差値は、絶対的に半分の子どもには、自分は偏差値なら、平均より上という自信を持たせてはいたのです。
しかし残る半分が、偏差値は平均以下だけど野球ではエースといった、自信を持つ機会が、少なすぎるのです。
今、自分はこれは駄目だけれど、これは出来るという自負心をもっている若者が、どれだけいるでしょうか?
そして大人になったとき、文句をつけるばかりで、なんでもいいから認める人、褒める人が少ないのも問題だとおもうのですが、いかがでしょう。
お礼
よくわかります!たくさんのものさしの重要性、そして教育の成績評価をその中のひとつに埋もれさせることによる、毒と効能のブレンド具合の調整、それこそ健康な社会的評価ですね。まあほんと、努力してもこれくらい努力しなくてもそれよりいいなんていうことで、かわいそうだなと思わざるを得ないことを学校が粛々とおこなっているということ炉になにか異常なものを感じたのですが、それは副作用だけを大きく取り上げてみるような視点や風潮があるからでしょう。 全く賛成です。勉強なんて「ひとつの」特性に過ぎません。 そして、結局人間は優越感や、見方によっては弱いものをみることで慰められるという、人生の不公平さによる心の動きが必要なのかもしれません。