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死に方は、その人の行き方を反映するか
大切な人を病気で亡くされた知人が、 「あの人は本当に潔い死に方で、良い生き方が良い死に方に繋がるのだと本当に思った。死ぬ時にそれまでの生き様が反映されるのなら、きちんと生きていかなくては。」と言っていました。 世の中にもそういう考え方があるように思います。 そう考えることで人が「より良く」生きようと努力する(「いい死に方」をするために)のであればプラス面もあるとは思うのですが・・・。 ただ、私個人的には、理不尽な形(事故や事件や戦争など)で命が奪われることも多いこの世界、どうも違和感があるのです。 一生懸命がんばって、誰かの幸福に関与し、誠実に生きたからといって、必ずしもいい死に方をするわけではないと思うのです。 同様に、悲惨な死に方をした人が居たとして、それが相応の「悪い生き方」をしてきた故とは思えません。 基本的には人生は不平等なのだ、とどうしても思ってしまいます。 正しいことをする人が必ずしも報われるとは限らないし、悪いことをした人が必ずしも不幸になるわけではない。 たとえどんな死に方をしたとしても、その死に方より、その生き方を心に刻みたいと思うのです。 いろいろな考えを聞いてみたいのでよろしくお願い致します。
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人はいつ死ぬか、誰にも分かりません。 「悪人世にはばかる」という諺がありますが、ずるがしこい人ほど、長生きするようです。 誠実に生きた人ほど、早すぎる死を惜しまれる傾向にあります。 果たして、どちらが幸せでしょうか? 私は後者を選びたいですが、我が身を振り返って、果たして誠実に生きているかと自問すれば、決して人様に胸を張ることはできません。 生あるもの決して死からは逃れられません。しかし自分は死んでもその周りの人間の中に生き続けます。 「あいつはいいやつだった」と言われ死を惜しまれるのか、「ついに死んでくれたか」と突き放されるのか、その人の生き様の答えが出る時だと思います。 突然の事件や事故で尊い命が無くなる場合もあるでしょう。 その時に、この世の理不尽さを呪います その理不尽さこそが人生ではないでしょうか。 理不尽を知る事で今を懸命に生きられる。 理不尽を知る事で命を大切にできる。 私はそう思います。
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- domaine-espoir
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こんにちは。 自分がどういう死に方をするかは、たくさん浮かんできて、 いったいどれになるんだろうか、 ひょっとすると、理不尽なものかもしれないし、 意識に浮かんでこないものかもしれないので、 いまはわからないです。 いままで何人かの人の死に目にあってきました。 理不尽なものはないけれど、 その人の生きた時間のなかで自分が接していたときを思い返すことがあります。 日々どんなことを考えて、 どう生きていく(すごしていく)かが大切じゃないかと思います。 人が死ぬとき、自分が死ぬとき、両方のときのためにも。
お礼
こんにちは。ありがとうございます。 私も何人か大切なヒトをなくしましたが、 出会って一緒に居た時間のなかで、 その人の魂の一部が私に溶けて混じっているのだと なんとなく思っています。 それが関わったことの証のような。 これからもなるべく暖かいかかわりで周りのヒトと溶け合いながら大切に日々を送っていきたいですね。 いつ誰とお別れするかわからないですもんね。 それができたなら、どんな理不尽な死に際でも受け容れられそうかな。
- fe-shokugyou
- ベストアンサー率6% (16/240)
私は、「死に方」をどう思案するだけ無駄と考えます。理由は、死んだときに周囲の「誰か」がその死んだ人に対してどう評価するかだと思っているからです。 しかし、質問者さんの意見には私も理解できます。「自分」が周囲に対して誇れる生き様ができたのなら、死に方など思い煩うまでもありませんよ。
お礼
ありがとうございます。 自分の人生が、周りに誇れるかどうかはわかりませんが、大切な人たちや自分自身に対して恥ずかしくない生き方をしていきたいと思います。 そして最期の瞬間、どんな死に様であっても 「ああ、なかなか頑張ったなぁ。みんなありがとう」と思って死にたい、今はそんな風に思います。
- daidou
- ベストアンサー率29% (491/1687)
こんにちは 本当に、正しい生き方をした人が「良い死に様」を迎えられるとは限りませんねぇ 理不尽な亡くなり方をする人は世に大勢あります。 ただ「生き方の汚い」あるいは「悪しき生き様」の人は「良い死に方」はしないように感じます。 「武士道とは死ぬ事と見つけたり」とあるのは「葉隠れ」でしたか。 ある程度の年齢になるまでは、自分が死ぬ運命にあることを念頭に置いて生きている人は少ないでしょう。 「自分が如何に死すべきか」などと常に自問していれば、人生観はかなり変わると思います。 かなり時代がかった考え方かも知れませんが、「生きる事」と「死ぬ事」は表裏一体の価値観である。と感じます。 ま、私などは生き汚いので、人様に迷惑を掛けまくりながらでも長生きしたいなぁ、と… でも自分の身体が本当に利かなくなる前に、どっかの山の中で人知れず朽ち果てていきたい。などと考えております。
お礼
ありがとうございます。 自分でどのように最後を迎えるか、ある程度望みをかなえる人もいらっしゃるでしょうね。 私は正直まだ全然そういうイメージは持てないですが…。
- tips
- ベストアンサー率14% (829/5762)
こんにちは。 どう死ぬかよりも、日々をどういきるかのほうが 大事だと思います。 もちろん、生きている人、生き続ける人にとっては 死んだ人は、死んだままなので 死に際をこころに暖め続けることができるので、 大事におもえるのではないか、とおもいます。
お礼
ありがとうございます。 もちろん「どう生きるか」が大事ですよね。 見送る側は、その人の死に際を心に暖める…そう思うと、やはり死に際についても考えてしまいますが。 ____________ 回答くださった皆様、本当にありがとうございました。 大切にするべきは今であり、これからであり、どう生きるかであることはわかっているんですよね。 ただ、死に際の姿や何で死ぬかで「いい人だったからいい死に方をした」「悪い人だったからろくでもない死に方をした」みたいな概念が在るような気がして、「いい死に方をしなかったから、その人の人生は良きものでなかった」という判断をどこかされるような気がしていました。そして納得できなかったんだと思います。 答えなど無いような小さな引っ掛かりでしたが、こうしてたくさんの方のご意見や考え方に触れることでどこかストンと納得できた部分があったような気がします。 一人で考えるよりたくさんの人の言葉に触れてみるのも大切だと改めて思いました。ありがとうございました。tipsさんのお礼欄をお借りして、皆様へのお礼もさせていただきました。
良い生き方をしてきた→良い死に方が出来る。。。とは思いません。 でも、良い死に方をしたいと思ったら、悪い生き方をする気にはならないだろうな・・・と思います。 もっとも、これは希望でしかありませんが。
お礼
ありがとうございます。 同じ気持ちです。
- reki4649
- ベストアンサー率21% (116/539)
No3です。補足。 「いい死に方」とは死ぬ瞬間の状態ではありません。 死というゴールをしっかり見据えて生を限るあるものとして捕らえて生きていくという事です。 (ですから今も死に方の最中です) マラソンでも自分の納得のいく良いゴールをしようとしたら一生懸命走らないといけないでしょう? ゴールの手前100mからがんばったっていいゴールは出来ません。 ましてやいつゴールが来るかも知れないのです。 その時にあれをやっとけば良かった。 これもやっておけばよかったと、見苦しくなるのは「悪い死に方(悪い生き方)」ということです。 あなたは明日死んでも悔いの無い一日を今日過ごせましたか?
お礼
”その時にあれをやっとけば良かった。 これもやっておけばよかったと、見苦しくなるのは「悪い死に方(悪い生き方)」ということです。” 心に入ってくる言葉でした。 毎日を、「コレが最後でもいい」と思えるほど 完全燃焼ではないですが、 やっておけばよかった後悔を抱いて死ぬ感じは 無い気がします。
- kagemusya
- ベストアンサー率15% (17/110)
死に方は生き方など反映しないと思います。 それよりも死んだときに、葬式にたくさんの知人が訪れてくれるとか、死んだ後も忘れられない存在であるとか、そういったところは生き方が反映されているのではないのでしょうか。 良い人間は亡くなっても良い人で、悪い人は亡くなっても悪い人のまま、後世の人に思われ続けると思います。
お礼
ありがとうございます。 そういう意味では反映されるかもしれないですね。
- chisaizumi
- ベストアンサー率25% (71/281)
私の感覚的にはどれだけ亡くなった時に周りの人に惜しまれるか、手厚く葬られるかだと思います 「良い生き方」をすればそれだけ周りから信用されたり、尊敬されたりするので、亡くなった時にそれに見合う送られ方=「良い死に方」をするのではないでしょうか? 「死ぬ方法」だけで人の人生の善し悪しは決められないと思います
お礼
ありがとうございます。 どういうふうな最後を迎えるかではなくて、 どういう気持ちで送られるか、ということですね。 そういった意味では生き方が反映されるともいえますよね。
- barretto
- ベストアンサー率45% (53/116)
「死ぬこと」はどんな人にも平等にあると思います。 ただ、「死に方」は平等ではなく、運だと思います。 悪いことをしても、いい死に方もできるでしょうし、いいことをたくさんしても理不尽な死は当然あるでしょう。 極端な話ですが、ジャンヌダルクはいい死に方をしたでしょうか。 私が思うのには、大事なことは、死んだ本人が「納得して死ねるか」ではないでしょうか。 毎日を一生懸命生きて行くことが大切なことではないでしょうか。 「いい死に方」は、後に残された人たち亡くなった人を偲んで言う言葉ですよ。 それを日々の目標にして生きていく事って言うのは違いませんか?
お礼
ありがとうございます。 ”毎日を一生懸命生きて行くことが大切” 私も本当にそう思います。 やっぱり運もありますよね。
- reki4649
- ベストアンサー率21% (116/539)
すこし勘違いされているようですね。 「いい死に方」とは実際に事故で死ぬとか戦争で死ぬとかということではなく 死という物をどう捉えて生を生き抜くかということです。 悪い人も良い人も等しく平等に死にます。 あなたも私もこれを読んでいる方々もいずれ死にます。 その誰にでも訪れる死をいたずらに恐れるのでも無視するのでもなく真剣に考え見つめる。 そうするとおのずと生も見えてきます。 そういうことを言っているのだと思いますよ。 下のURL非常に参考になるコラムがあります。 私自身はこのコラムの考えに全面的に賛成ではないですが非常に判りやすく考えの糸口になると思います。
お礼
ありがとうございます。 参考のコラムも読みました。 ”「いい死に方」とは実際に事故で死ぬとか戦争で死ぬとかということではなく 死という物をどう捉えて生を生き抜くかということです。” こう考えるとあまり違和感が無いような気もします。
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お礼
ありがとうございます。 理不尽さに希望をなくすのではなく、 理不尽を知ることで命を大切に出来る、 そうかもしれません。 私もそう在りたいと思います。