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岡本太郎ブームに感じること
- 岡本太郎ブームの真相とは?
- 岡本太郎の芸術と大衆の関係
- 岡本太郎が残したメッセージとは?
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現在のCMなり書籍なりの現象をブームと呼ぶのなら、 こんな風に考えました。 「太郎」はいつでもあると思って安心している私たちがいます。 現に作品は強烈な印象を持って、そこにあるわけです。 ところが1996年に岡本太郎さんが亡くなられ、 2005年に岡本敏子さんが亡くなられ、 真に「太郎」を伝えられる人がいなくなったんだなあと実感したとき、 自分たちが急に「太郎」と対話するために一人立ちしなければ ならないような、追い込まれた気分になります。 そして妙にソワソワしてこの穴を埋めようとした結果が ブームという形で表れたのではないかと感じることがあります。 とくに敏子さんが亡くなられてから、そんな風に強く感じます。 仕掛ける側は、意識してか、せずしてかはわかりませんが、 「面白いおじさん」の岡本太郎を利用する体を照れ隠しのようにとりながら、 「伝道師はいなくなったんだよ。大丈夫だよね。みんな。」 と呼びかけ、且、自分自身を奮い立たせているようにも見えます。 ですから、仕掛る側は、 > 「大衆の前を通り過ぎる風」と割り切って行っているのでしょうか。 > それとも「いつか大衆が本当に岡本太郎が主張してきたことを理解する」 > という願いが込められているのでしょうか。 と仰るとおり、前者を自覚しながらも、後者を願っていると思いました。 「太郎」と向き合うことのできる仲間を募っているのではないでしょうか。 私は、個で「太郎」と向き合うには、自身がちっぽけ過ぎて不安になりますもの。 以上は私の単なる感傷的な解釈かもしれませんね。失礼いたしました。
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- noshiyo
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まず、岡本太郎ブームと捉えるのは違和感があります。 今の時代、昔よりもアート関連の情報をネットで入手しやすくなったので、素人でもアートに触れ易くなったのだと思います。どんなことでも、まず興味を持つところから入りますし、最初の入り口は別に「おもしろいおじさん」でも良いと思います。 自分は、芸術論を知りたいために作品は観ません。 観ることで、新しい刺激が欲しいからです。 最後に、質問者は何を疑問に思っているのか今ひとつ理解できません。
お礼
太郎ブームというのは、何か底流があるものという感じがするのです。まいた種が余りに強烈であったのが理由なのかわかりませんが。そしてその入り口が「面白いおじさん」なわけで、そこから紐解いて行く人が何割いるのかということなのでしょう。そして、やはり岡本太郎の作品というのは、背景を知るほどに味わいが増す面があるのです。それは人によりさまざまでしょうけれども。 私の考えがおかしいかどうか疑問でした。
- msmk
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人の目に触れる機会がなくては作品に関心もよせられません。 これだけ、情報があふれているなかで、少しでも興味をもってもらうには、話題性も必要です。 価値あるものでも露出量の少なさは黙殺されます。 作品を理解する人にとっては不本意な扱われかたと思います。 作品に力があれば、問題ないですよ。 新たな理解者が増えるでしょう。 70’万博の経緯からもそう思います。
お礼
「対極主義」的な考えによれば、私の解釈ですが、無知な大衆、茶化す大衆、冷ややかに笑う大衆の前に、この上なくまじめに事故の芸術論を燃やす姿というのが、不調和であり、矛盾の露出であり、また本人の芸術論に沿ったものなのでしょうということです。結局のところ、不本意も当然の帰結ということなのでしょう。 数に訴えかける動きというのは、結局一番確実なのかもしれませんね。しかもそれが本人の望んだところなのでしょうし。
お礼
ブームの成り行きをそんな風に説明していただくと、実に納得してしまいます。潜在的に太郎の流れというのは常にあるのかもしれませんですね。 ふと思ったのは、こういうマスコミへの登場という行為そのものが、「対極主義」の自己パフォーマンスだったのではないかと思えることです。矛盾したものを同一のキャンバスに置く。無理解な大衆の笑いに、戸惑いに、それと同化することなく平然と挑みかかる姿。行為そのものを、芸術の一形式に実現させていたのかなと。 それを、主催者は再燃させ、そして「願い」として化学反応させようとしているのかもしれません。