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厄年って何をすればいいの?

昭和44年2月18日です。去年はだんなの母が入院したり私の父が二度にわたり入院そして年末には解雇。ちょっと買い物に行ったすきに大雨にあい開いていた窓から雨が入りテレビ、パソコン、ビデオ、電話、dvdすべてが壊れた。だんなは二度も車をぶつけられる(けがなし)そして取引先倒産のため責任を取らされ給料20パーセントカットボーナスなし。どれも自分自身ではないのですが同い年の友人が絶対厄年のせいだからお払いに行けといいました。ところが我が家はいまや食べていくのもやっとお払いのお金は出ないので行きませんでした。そしたら元旦早々私はひどい熱に悩まされ4日には帯状疱疹という病気で即入院。医者いわくもう少し遅かったら危なかったと言われた。これってやっぱり厄年のせいなのでしょうか?私は恥ずかしながらその辺の知識がなくて。。。 その辺のアドバイスと何をすればいいのか教えてください。やっぱりなにもしないといけないのかなぁ

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noname#1583
noname#1583
回答No.4

厄については色々な意見がありますので、色々な人の言葉を聞いた上で、snowrainさんご自身が判断してくださいね。(^.^) 私自身の考えは…「気になるなら払う」、「気にならないなら払わない」です。 厄年にばかり不幸が集中するなんてコトはあり得ませんよ。 よく考えてみれば、日常、不幸な出来事なんてあちこちに転がっています。 1年365日生きていれば、必ずいいことや悪いことが起こってきます。 特に厄年じゃなくても、です。 ただ、いつもいつも不幸な出来事ばかり数えていたら暗くなってしまいますよね。 特に構える必要もないような年は、人はそういう出来事を少しずつ忘れてしまうものです。 改めて数えでもしない限り、やがてはそんなに気にならなくなります。 少なくとも、一つ一つの不幸をつなげて「ほ~ら、こんなに不幸が重なった」って言うことは少ないです。 ただ、厄年の場合は、どうも気持ちが「厄年だしな~」と不幸をカウントする状態に入ってしまっていますので、一から十まで数え上げて、不幸をリストアップしがちです。 そして、いったん不幸をリストアップすると、それが気になって気になってしょうがなくなってしまうんです。 ですので、もし、snowrainさんがこうした「ついつい気にしてしまうタイプ」の人で、厄払いをすることによって「気分がすっきり」するのであれば、厄払いをすれば良いと思いますよ。 私自身はとても気にする人間ですので、迷わず厄払いに行きました。(^^ゞ 自分のもっとも安心するやり方で厄を払い、それで気持ちが楽になるのなら、お払いは有効だと思います。 逆に、特に必要も感じない状態であるならば、金銭的な問題もありますから、無理して行く必要はないのではないでしょうか? 厄払いに行ったからといって、次の日から不幸が「ゼロ」になるわけではありません。 要は自分の気持ちの持ち方が代わる…それが大切なんだと思います。 もともと厄年は人生の節目の年齢に設定されています。 自分の健康の衰え、生き方を見直す時期、身内の不幸が起こりやすい時期、そういった時期であることは確かです。 ただ、これは別に「厄年」と設定されたから起こる現象ではないですよね。 私も今年から厄年です。 今までのことを少し振り返りつつ、自分の体や生活、両親を労わっていきたいと考えています。

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  • odd-art
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回答No.3

 世間では、よく四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄(たいやく)だといって心配している人が大ぜいいます。  しかし、日蓮大聖人は、  「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅(しちなんそくめつ)七福即生(しちふくそくしょう)とは是なり。年はわかうなり、福はかさなり候ベし」 と妙法の信徒にとって、厄はけっして恐ろしいものではなく、むしろその時こそ若さを増し、はつらつとして福徳を積むことができるのだということを教えています。  厄という字は、もともとは木の節のことで、木に節があると製材や木工に困るところから転じて、災いや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。  また厄年の年齢区分についていえば、男性の二十五歳、四十二歳、六十一歳は、昔は人間の一生の折り目にあたる年祝(としいわい)の行われた年齢で、青年が壮年組に入り、村人のために諸種の役を得る資格を得、また壮年より老年組に入る節目のことで、けっして忌(い)みきらうことではなかったのです。  また女性の十九歳、三十三歳、三十七歳は、育児や健康の上でも、ひとつの節し目にあたる時期だったようです。  大聖人は、  「やくと申すは譬へばさいにはかど、ますにはすみ、人にはつぎふし、方には四維の如し」 と、さいころの角・升のすみ・人体の関節・方位の四隅などのように、厄とは人生における大事な折り目のことなのだと教示されています。  そうした時期に、単なる四十二歳は「死に」通じるから、三十三歳は「さんざん苦労する」などと語呂合わせをして思い悩むのはまったく馬鹿げたことだといわなくてはなりません。  また、世間の迷妄に紛動されて、邪な神社や寺で厄ばらいなどを頼む人は、大聖人が、  「善を修すると打ち思ひて、又そばの人も善と打ち思ひてある程に、思はざる外に悪道に堕つる事の出で来候なり」 と説かれているように、かえってよけいに災いや魔が競うのです。  大聖人の、  「厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」 との教えどおり、私たちはこの厄年の節目の時こそ、邪心・邪説に惑わされることなく、正しい御本尊のもとにいっそうの信心を奮い起こして、七難即滅・七福即生の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。  厄に災いが出るのは、邪宗の神社仏閣にお参りしたりした果報であり、それまでにそういった罪業を積まれたから、出来したのではないでしょうか?  如何ですか?

回答No.2

 厄を否定する宗教もあるし肯定する宗教もあります。まあ、いろいろなわけです。わたしは個人にも両方あってかまわないと思っています。  ただわたし自身は厄は無いと信じています。だからお払いにもいきませんし、なにかまじないらしいこともやりません。このあたりはその人その人の見識みたいなものでしょうね。

noname#1498
noname#1498
回答No.1

snowrainさんこんにちは。 厄ですか。賛否両論あると思いますが。 私見としては単なる偶然ですと思います。私は非常にドライでクリスチャン、イスラム教などの神教を信仰されていない日本人はたくさんいるわけでして、その方たちは神社で厄除けなんてしないでしょ?昔お付き合いしていた彼がとある新興宗教を信仰されていましたが、その方は初詣(神社)に行くことすら拒否しました。もちろんその彼は厄除けに神社には行かないでしょう。仏教徒がお寺で厄除けを受けれるか否かなど詳しいことはわかりませんが........。 いわゆる厄年で不幸な事が起きる方もいるしそうでない方もいる。異教徒もしかり。単なる偶然です。 人は良いことより悪かったことのほうを覚えるものです。自信あり。 それでは!

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