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文才があるとは何か?
「キミ、文才があるね」 小学校の低学年のとき、国語の授業で先生が学級でも目立たない、大人しかった僕の作文を読んでこう言いました。 自分に文才があるかどうかなんて、当時の自分には解りかねることで、今になってもこの「文才」という言葉に時おり惑わされることがあります。 確かに、絵が巧い人が居て、運動が得意な人が居るという風に、人にはそれぞれ得意な分野や技術が少なからずあると思います。 ただ今現在、大学で文学部に在籍し日頃から活字にも多く触れ、blogやmixiで日記などの雑文を書いてはいますが、コレといって自分の文章に才覚を感じることはありません。 けれど、あまり口が達者なタイプではない所為か、最近、僕は日頃口に出来ない感情や出来事を文章で綴ることに喜びを感じています。 巧い文章が書きたい、伝えたいことを明確に伝えたい、そういう欲求を声ではなく練り上げた言霊によって表現することを可能にしたい。 そう思いながら、なかなか想い通りにならない自分が居るのです。 美辞麗句、レトリックなど、巧いと言われる文章は様々ですが、結局のところ原理的な意味で文章とは、“感情の文字起こしではないか”という壁にぶつかりました。 つまり口頭で弁の立つ人は、筆を持っても理路整然としたユーモアのある文章が書けるのではないか、ということです。 口下手な僕のような大学生が、文才を身につける方法はあるのでしょうか。
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- EFA15EL
- ベストアンサー率37% (2657/7006)
伝えたい事を正しく表現する、というのは練習すれば出来る事だと思っています。 スキルとしての文章、って事です。 でも「面白い文章」というのは才能ある人にしか書けないと実感しています。僕は恐らく普通に比べればよく喋るタイプですし、笑いを取る事もそこそこ出来ています。 それでも書けないんですよ(苦笑)。 どれほど言葉を駆使しても、言い回しを変えても、本質を外してしまえば響かない。饒舌な言葉は逆効果になる事の方が多いですね、僕の場合は。 昔、身近な友人(決して普段饒舌な人間ではない)にわずか数行の手紙をもらったことがあり、それを読んで「文才とはこうゆうことか」と思い知りました。僅か数行、100文字程度の文章は過不足無く僕の心に響きました。 少々話がそれました。 要は口がうまい、弁の立つ人間が良い文章を書ける訳ではない、という事です。 伝えるべき事が先にあって、それをどんな言葉で的確に表現するか、です。言葉遊びが先に来てはダメなんだと思っています。文才はなかなか身に付きませんが、とにかく書いて書いて書きまくれば、洗練させる事は出来るかと思います。 昔、小沢健二が言った様に「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんて馬鹿な過ち」をしないようにね。
- saccoarigatou
- ベストアンサー率40% (220/549)
私が文才があると感じる文章は、まずは基本的に言いたいことが伝わること(言いたいことが、比喩などを通して分かりやすく、嫌味なく伝わること) 人の持つ単純な感情を、慈しむような表現がされてること、文章に起承転結があること(順番どおりじゃなくても)。 感情の表現ではあっても、その表現の仕方は様々で、例えば喜びの感情でも、単純な喜びと表現もできるし、幼い頃からの積もった思いを付け足せば、深い喜びを表すこともできると思うし、なにかと結びつけて表現することで、人に同じ喜びを感じさせるような喜びにもなると思います。 一口に喜びといっても、同じ喜びはないと思うのです。今までの生きてきた経験から、同じ喜びでも、感じ方が違うと思うので、そのあたりの表現の工夫が必要じゃないかと思います。 言葉が言霊となるには、人に自然に伝わるような、心の強さ、人としての器の大きさも必要じゃないかと思います。その心の中に溜まった思いの強さは、自然に文章に表れてくるように思います。 真実に感じたもの、心の浅い部分ではなく、心の深い部分で強く感じているものは、文章にしてみても、強く伝わるように感じます。 それは文章だけでなく、音楽や絵など芸術一般にあてはまることだと思います。 同時に、感じる人も、それなりの経験、感じ方の有る人でないと、ただの上手い文章、上手い絵画になりますね。 文才を身につけるには?という質問ですが、あらゆる事柄、出来事、自然現象などを、自分の中で、深い経験とすること、そこから生じる感情を自分自身が心で正面から受け止め、味わうこと。 そう味わうこと。喜びとは、悲しみとは、どんな感情なのか、それは何に似ているのか、何色なのか、それは心の中のものだけなのか、宇宙のどこかで発生したものではないのか・・。 そんな思いの蓄積が、文才を身につける一つの手段になるんじゃないかと思います。
お礼
表現力こそが文章の見せ所ですね。「慈しむような表現」を身につけるために、自分自身も成長していかなくてはならない。そうなると「心の強さ、人としての器の大きさ」は必要な要素だと言えますね。 そして「なにかと結びつけて表現すること」こそ、表現に膨らみをもたせる意味で、欠かせませんね。これは、“講義中の雑談”と近いものを感じるんですが…。脱線とはまた別の、話の軸から派生した有益な表現のひとつだと言えそうです。ありがとうございました。
お礼
「ローラースケート・パーク」ですね。小沢健二の詩のように、僕は人に響く言葉をもとめて努力していこうと思います。 >言葉遊びが先に来てはダメ 肝に銘じておきます。ありがとうございました。