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裁判は大丈夫なのか

先に高裁の裁判官に切りかかった控訴人についての投稿があったので便乗投稿なのですが、最近あった事件で、裁判の結果に不服で裁判相手の会社に四駆車で突っ込み自殺した人がいます。 <日生本館>四駆車突入し炎上、男重体 裁判でトラブル?  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050901-00000133-mai-soci 真相はわかりませんが、誤った判決を苦にして自殺する人がいるなら由々しきことだと思います。裁判官も人間だし、地裁でさえ一人年間何百件もの事件を抱えているのが普通ですから、一定割合で判断ミスが出ても何らおかしくないと思います。 ところが世間的には「裁判結果は何が何でも正しい」ということになっていて、医者でさえ最近は医療過誤や犯罪で多くやり玉にあがる世の中になったのに、裁判官がそのような状況にさらされていることは10年に一度くらいしか見ません。 裁判はなぜ聖域化されていて一般人にはブラックボックスになっているのでしょうか。それについて問題だと思う政治家が皆無なのはどうしてでしょう? 何か政治的な意図があるのでしょうか・・・(政治家には弁護士出身の人も時々見かけますが)

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noname#13197
noname#13197
回答No.2

確かに裁判所でも間違うことはあると思います。さらに、最高裁判所判事の任用について、行政府の恣意が強く働き過ぎることも問題だと思います。 外国のとある国では、行政監察機関が裁判所に対する監督権能も有しており、裁判員制度の導入を前提にするとしても、そのような仕組みについて日本でも議論がなされても良いと思います

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  • cse_ri2
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回答No.7

多くの方に回答にあるように、司法は決して万能ではありません。 裁判官には裁判官の判断基準があり(それは法律と過去の判例の積み重ねに よるものらしいですが)、それが世間の平均的な価値観とは、一致しないことも 多いわけです。 このズレをどうするかと言えば、これは政治で解決するしかないと思います。 何人かの方が触れている裁判員制度は、この司法の世界の常識と国民の常識の ズレを埋めるために、導入されたものであると私は解釈しています。 裁判員制度の導入に際しては、弁護士の中坊公平さんが、自身の政治的な主義 主張をかなぐり捨て(中坊さんがリベラリストであることは、周知の事実かと)、 小渕総理大臣に接近して、裁判員制度の導入にこぎつけました。 司法だけで解決できない事柄は、立法や行政ななど他の権力の力を借りなく てはいけないという、よい実例だと思います。 質問者の方が、司法の現状にどうにも納得できないものを感じているのであれば、 一念発起し、政治活動を通して問題解決の道を模索してみては、いかがでしょうか。 ところで質問にある、高裁の裁判官に切りかかったり、四駆でビルに突っ込んだ 件については、私はその事件を起こした人が精神的な未熟さを抱えていたか、 もしくは精神的に問題があったのではないかと、推測しています。 アメリカでは、株の暴落で証券会社のビルに銃を乱射する人が、ときどき出て きますよね。そういうのと同レベルの事件ではないかと もっとも、きちんと裏をとっているわけではないので、あくまで個人的な推測に すぎないのですが。

noname#19230
質問者

お礼

すでにお答えしたことの話の繰り返しになってしまっているような気がするので、これで質問に対する回答を締め切らさせていただきます。ありがとうございました。

noname#21609
noname#21609
回答No.6

>裁判はなぜ聖域化されていて一般人にはブラックボックスになっているのでしょうか。それについて問題だと思う政治家が皆無なのはどうしてでしょう? これにはまず、三権分立の制度から知らなくてはいけません。ご存知かと思いますが、司法・立法・行政と権力作用が分かれています。 それぞれ、司法権は裁判所に、立法権つまり法律を作る作用は国会に、その国会が作った法律を基に国を運営するのが行政権である内閣、といことになります。 つまりは、この三権はすべて畑が違いそれそれがそれぞれの専門機関なのです。畑が違う国会や内閣が法の専門機関である裁判所の判決に口出しすることは許されません。たとえ国会議員に弁護士や元裁判官がいたとしてもそれは司法機関ではありませんし、もし口出しが許されるならば、裁判は時の内閣や国会の意向に沿わない判決を出しずらくなり、正義を全うすることが出来なくなってしまいます。逆に言えば裁判所が内閣や国会に口出しすることも許されないのです。このように裁判所は政治機関からも離れた孤独の機関なのです。 また、裁判所は国民の意見には謙虚に耳を傾かなければいけませんが、国民の意見に必ずしも従わなくてもいいのです。国民は法律の専門家ではありません。裁判所はその法独自の理論を使い緻密に計算して結論を出しているのです。 仮に、ある判決では国民の意見に従い妥当な結論が出たが、別の裁判ではその国民の意見を採用するとどうしてもおかしな判決出てしまう、ということにもなりかねないからです。 判決がなぜ絶対正しいかとされるとそれは裁判秩序・社会秩序を守るためです。仮にそのような権威・力が裁判所に無かったら誰も(特に負けた方は)裁判所なんかの判決を守りません。「当事者間の争いは私的自治だから」といって、当事者が好き勝手やってしまい社会秩序が保たれなくなってしまいます。ですから、そのような争いを蒸し返さないためにも、裁判所の判決は正しいとしなければいけないのです。上記したように裁判所自身が「判決が正しいか正しくないか分からない」じゃ、誰も裁判所の言う事を聞かなくなりますからね。 ただ、裁判所も何が何でも一回の判決が正しいとされるのではなく、他の方も書いたように控訴や上告場合によっては特別上告などの三審制によって二重のチェックをしたり、一定の事由があれば再審の制度もあるのです。 ただ、忘れてならないのは裁判所の判決の多くは妥当な結果だということです。このような妥当な結果はマスコミには報道されず、おかしな判決だけ拾い上げられ報道されるのでいかにも裁判所・裁判官は常識の無い機関・人だ、と考えてしまうのでしょう。

noname#19230
質問者

お礼

そして、三審制(実質的には二審制)とはいっても、上級審は、下級審の出した結論が明らかにおかしいと思わない限り、下級審の出した事実認定をいちいち訂正しようとしないし、すごく忙しいから一から事実認定をやり直さないといけないような事件は、ましてや「原審の結論通り」との判決を出す可能性が極めて高くなります。 そういったことは、頭の良い裁判官自身が一番良く知っていて、そういったことは計算づくで、いわゆる恣意的な事実認定をする判決がまかり通る原因になっているのではないでしょうか。 裁判所の判決の結論の多くが妥当とはいえないものではないことは、それはそうだと思います。しかし私は、裁判所の独立性の趣旨が尊重されすぎて、また裁判官が多くの事件を抱えて事件処理について機械的になりすぎて、時に人の心を忘れたような判決までもが正当化されているよう思えてならないのです。

noname#19230
質問者

補足

私は判決の結論に強制力を持たせること自体には異存がありません。 民事事件であれば、判決の結論というのは要すればお金で解決できるような話が大半ですから、判決の中味がちゃんとしていれば、自分に不利な判決であってもギャンブルに負けるのと同じで納得する人が大半だと思うんです。 結論以前のところで、裁判所が正しく事実を斟酌していないから、いつまでも不服に思う当事者や傷つく当事者が出てくるのだと思うのです。 一つ例を挙げると、以前、判例集に載っていた大手企業の懲戒解雇の事例に興味を持って裁判記録を閲覧したことがあります。判決文ではとにかくその解雇された人がとんでもない非行行為を重ねていて、なんでそんなことをしたのか動機に興味を持ったのです。裁判記録を読んだ後の印象は、判決文を読んだときの印象とはかなり違いました。要するにその社員は会社の処遇に対して反発していてそれが行き過ぎて懲戒解雇されたんですが、それに至った過程には会社の社員に対するいじめのようなものも見えてくるのです。 私は結論として、事件の筋として、一線を越えてしまったように見える社員の解雇を有効とした結論には異議があるとまでは思いませんでしたが、判決の事実認定はあまりにも極端に思えました。人間の信頼関係の崩壊は当事者相互の行動によって発生するのに、一方的に社員のみが異常な行為を行ったかのように事実認定され、客観的な証拠に欠ける中傷まがいの解雇事由さえ事実だと認定されていました。その懲戒解雇が有効だとされた社員は、それだけでも今後の人生大変であろうに、それだけではなく、そんな酷い内容の判決を判例集に載せられて、その内容を一生背負っていかなければならないことに気の毒に思いました。もし私がそんな目にあったら、今後まじめに働く意欲をなくしてしまうかもしれないし、自殺してしまうかもしれないと思いました。溺れた犬に石を投げるような行為は第三者として不快に感じました。 判決文を見る法律専門家が判決の法律判断が間違っているということはむしろ稀だと思います。でも、それは、むしろ間違ってない法律判断を判決文に書くために、事実を歪めている場合が多いからなのではないでしょうか。上記の事例でも、正確に事実認定がされていれば、懲戒解雇が有効かどうかについて人の意見が割れるかもしれません。地裁の裁判官にとっては、正確な事実認定をしないほうが、上級審で結論が覆されるリスクも小さいし、第三者に対しても裁判官が絶対正しく見えるでしょう。でもそういう理由で恣意的な事実認定がなされているのであれば、私は倫理的におかしいと思います。裁判所は結論がすべてだとしか考えられないのでしょうが、裁判当事者にとってはそうではないし、それが裁判所への反発になっていることもあるんじゃないかと思うのです。

  • nrb
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回答No.5

 日本は法治国家です  すなわち人間の常識より法律が優先する社会です  さて法律は非常識か常識かとすれば  いろんな回答が返ってくるので楽しいのですが    さて人により常識は違います  Aさんには常識でも  Bさんにとっては非常識であったりすます  なにかの基準を設けないと人の常識が全員同じであればなにも問題はないのですが  いかせん・・・・・そうには成らない  そうその為に法律があるのですね  なんだかの基準を設けたものが法律なんですね   さてある人にとっては理不尽な法律であったり  (例であげると殺人犯が時候で罪を問われないなんか   家族になんかにとっては罰して欲しい気持ちが・・)  裁判所は法律にだけに乗っ取り証拠により判断を下すこととなります  この中には  立法府の裁量の範囲内である判決もでます  (3権分立なので・・・・・・)  また、疑わしきは罰せの法則なんか  理不尽なんで言う人もいます  和歌山のカレー毒物事件なんか  黒に近いほど・・疑わし・・・・・  控訴審で疑わしきは罰せの法則なんか言われると  目も当てられないのか  本当は真犯人がいたらどうするの・・・・・  なんで考えると裁判は難しい  心身喪失なんかで殺人しも無罪・・・・・・  なんか  裁判は大丈夫なのか・・・・・・・  って思われる人も多いでしょう  そうならないためにも、法律立の整備及び改正を考える必要がありますね  現状裁判は大丈夫なのか  法治国家が法律に元づいて裁判が運用されているので大丈夫としか言いようが無いです  裁判結果は何が何でも正しいでは無く  現行の法律を元に裁判制度を運用しているだけですので、法律に乗っ取りです  その結果、ある人の常識には正しく無い判決が出ることになります  例を挙げると  昔銀行員が勝手に銀行にないしょで  何億円ものお金を口座に振込みし、そのお金を盗む事件が起きました  裁判になり  送金した、銀行員は詐欺罪にはあたらない  機械はいれた通りに動くの黙られたこのにならない  ってことに  無罪です  おーーーい理不尽な・・・・・  っても裁判所は法律に乗っ取り裁判しただけですから  裁判は大丈夫なのかってても  法律に乗っ取りやってますので  法治国家では法律の前では平等・・・・・・    その後にこれはいかん  法律改正・・・・電子取引に関する法律が出来てます

noname#19230
質問者

補足

>法律に乗っ取りやってますので >法治国家では法律の前では平等・・・・・・ その法律(例えば民事訴訟法)では、裁判官は自分の自由な心証でどんな事実認定をしてもいいことになっているのです。 回答者さんの言われる「平等」って何ですか? 実質的には正義と平等より秩序の維持と紛争の解決に重きがおかれているのが現実の裁判実務です。

  • tojyo
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回答No.4

三審制があるにもかかわらず裁判結果に不服で暴れだす人は、自分に非があることを自覚している人だと思います。少なくとも三審制は義務教育中に刷り込まれる重要事項のはずです。制度を知らないというのは通じないです。 他の人には知られていないと思っていた自分の非を白日の元にさらされて逆上した結果だと思います。

noname#19230
質問者

補足

三審制が実質的に機能していないのは、下記にも述べられているとおりです。義務教育で教えられるのは「三審制という制度をとっており、最高三回審理がなされる」ということだけで、その実質的な内容については教えていません。 >他の人には知られていないと思っていた自分の非を白日の元にさらされて逆上した結果だと思います。 実際に裁判のことを知ろうとしないで、そのように決め付けて臭いものに蓋をしようとする態度が、国民レベルでは一番問題なのではないでしょうか。 「自信あり」とされてますが、何に自信がおありなのですか? そのような世間の偏見に、不当判決を受けて苦しんでいる裁判当事者はより苦しまれるのではないでしょうか。 確かに、判決が不服だからといって暴れだす人は行き過ぎているとは思いますが、不当裁判の結果に自殺に追い込まれても、暴れないために記事にもならない人たちが、その後ろには多数いるということです。それが私の根本的な問題意識なのです。

回答No.3

裁判管がいつも正しい判決を下すとは限りません。裁判官も人です。過ち・ミスもあります。しかし、それを正す方法は上級審での判断しかありません。一応、三審制ですが、実質的には二審(地裁・高裁)ではないでしょうか。多くの場合、二審は一審を支持しているのではないでしょうか。 現在のように複雑な内容の訴訟が多い時代になると、各分野の専門家の裁判官が必要です。しかし、司法試験の勉強だけで実務についた裁判官の多くは、実際には専門知識のない(少し言いすぎですが)まま訴訟を担当して判断を下さざるを得ない状況ではないでしょうか。専門知識をもった裁判官の養成が必要だろうと思います。そのためには裁判官の数を増やすしかありません。 今後、導入が予定されている「裁判員制度」ですが、これは刑事事件だけではないでしょうか。もしかりに民事事件にも適応されると、裁判の迅速化・裁判官の偏見などに基づく判決については、是正される可能性があると思います。 裁判官の世界にも、最高裁の人事部門ににらまれないような判決を書く人が多いので、結局、類似事件の判決が参考になるのではないでしょうか。

noname#19230
質問者

補足

>一応、三審制ですが、実質的には二審(地裁・高裁)ではないでしょうか。多くの場合、二審は一審を支持しているのではないでしょうか。 その通りですね。一番人が多く配置されている地裁の裁判官さえ年間数百件の事件を抱えている状況ですから、多数の地裁を傘下にもつ都会の高裁はパンク状態だと聞きます。高裁では一回だけ法廷を開いて結審する場合が7割以上だそうです。これでは殆どが型どおりに一審の判断で問題なしというだけでしょう。 双方きちんと弁護士を立てて長期間争っている民事訴訟では特に、どちらの結論になってもおかしくないものがほとんどですし、離婚訴訟や労働訴訟など人間関係が絡んだ問題になると、どちらの当事者にも非がないとはいえないものがほとんどです。それでも裁判官はどちらかが悪いという判決を出さざるをえないのであって、そのために相当恣意的な事実認定がなされることも多いと聞きます。そしてどちらが勝っても負けても著しくおかしいとはいえない判決なら、高裁はまず地裁の判断をそのまま尊重しているようです。 >裁判官の世界にも、最高裁の人事部門ににらまれないような判決を書く人が多いので、結局、類似事件の判決が参考になるのではないでしょうか。 そうなのですが、現実の事件というのは唯一無二のものですよね。それを無理に過去の類似事件の判例にあてはめるためには事実のうち判断に都合のよい部分だけを恣意的に取り出したり、実質的に事実を歪曲したりすることが公然と行われているようで、そういう裁判官の事実認定が一番問題とされるところなのではないでしょうか。

回答No.1

日本は三審制と言って、 地裁・高裁・最高裁と一つの訴訟で、 最高で3回の判決が出ます。 それの全てが不当判決と言うのは、 殆んどありえない話だと思いますが?   聖域化してるとのことですが、 近々「裁判員制度」が導入することが決まっており、 今後は、より身近な存在になると思いますよ。          

noname#19230
質問者

補足

>最高で3回の判決が出ます。 >それの全てが不当判決と言うのは、 >殆んどありえない話だと思いますが? ほとんどありえない話というのは先入観や偏見で、十分ありえる話だと思います。 そもそも三審制は建前で、最高裁判事は15人しかいないのに、民事行政事件だけで訴訟は年間130万件提起され、刑事事件も年間約130万件立件されています。裁判には何年もかかることが多く、その間に膨大な資料が提出されます。不当判決云々以前に最高裁判事が上告された事件にちゃんと目を通してちゃんと考えているとは到底思えません。 中味も知らないのに「敗訴したのだから悪いのに決まってる」という決め付けが多くの人を余計に傷つけているのではないでしょうか。 「裁判員制度」が導入されるのは、刑事事件のごく一部の重大事件にすぎません。これらの事件はすでにマスコミの報道によりある程度監視されています。問題は、現在も今後も裁判所のブラックボックスの中でなされる大多数の裁判です。