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宗教はどの程度まで許容されるのでしょうか?
以前まで、「根っこのところで自分で考えることを放棄させるのが、宗教だ」と思って距離を取ってきました。でも、最近知人が牧師になるための学校に通っています。その前までは施設の福祉作業所を経営していました。資金繰りのために、一日に三つもアルバイトをしたそうです。過労のため劇症肝炎になり、死の直前まで行って引き返してきました。その後、神に仕える身になろうと思ったらしいのです。そういうことを聞くと、今まではコトバの上で宗教を批判してきましたが、今ではその知人を批判することになってしまいます。今までのようにスパッと切れなくなりました。かといって諸手を挙げて容認することもできません。途方に暮れています。迷っています。どなたかのご意見をうかがいたく思います。お願いします。
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宗教を否定するそもそもの理由が不明だと思います。 根っこのところで自分で考えることを放棄させるのが、宗教だとおっしゃいますが、では思考する宗教家が存在するのはなぜでしょうか?同じ宗教でも様様な考え方に分裂し、同じ宗派内でも相互に論争が起こります。 それは歴史上のこれまでの神学論議など宗教の歴史を一切無視し、宗教の狭い一面を捉えた言い方ではないでしょうか? 宗教はいろいろなものがありますがそのすべてが良くないものだとなぜ言いきれるのでしょうか? 宗教のすべてに出会ったことがあるのでしょうか? 考える人に出会ったことがないのでしょうか? あなたが考えることを放棄させるとおっしゃっているのはもしかして原理主義と呼ばれる宗教という大枠のごく一部のムーブメントを指しておられるのでしょうか? あなたの方がむしろ宗教について考えることを放棄しているのではないでしょうか? いままで宗教についてきちんと学んだことがあるのでしょうか? 宗教者は自分の信仰のあり方について考えますがそれは思考のうちに入らないのでしょうか? 人夫々に好き嫌いがあって、どうしても「宗教」というレッテルが嫌いならそれはそれであなたの宗教ですが、だからと言ってその感覚をそのまま他人の宗教を否定することに結び付けるのは変ではないでしょうか? 宗教の一切を否定する論理的な部分での根拠がさっぱり見えてこないのですが 反語ばかり投げかけてしまいましたが、攻撃ではなく批判ですので悪しからず
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- utaufune
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宗教の定義はとても「こうだ」といえるものではないですね 根っこを考えることを放棄することにも使えるのも宗教だけど、 「根っこのところで自分で考える」ことをしようとすれば宗教になるしかない、とも言えるし。 (「根っこ、根本ということになれば道徳の範囲ではないと思われるし、定義のしかたによれば道徳だって結局それを守る集団の宗教みたいなものだし。) 私は一宗教を本気で信じてきて、教義に疑問が見えてやめているところですが、 宗教自体を不必要と切り捨てはできません。 団体に属したりすることが宗教とは思っていませんけれど、 生きるうえでなんらかの考え方があればもうそれは宗教ではないかと・・。 「人間の考え方」が宗教か? だとすれば、宗教の批判は「人」そのものへの批判になる。 ・・多分、そのことに気がついたから、「スパッと切れなく」なったのではないでしょうか? そして、それはいいことなのではないかと、私は思います。 スパッと切る必要があるでしょうか。 多くの人が本気で迷っているものを、スパッと切れるほど、自分はその人達より優れているのでしょうか? 迷って、一緒に考えて、・・いつか、自分としての答えを出していく。宗教への考え方としては、それでいいのではないかと思います。 お友達のことは、やめさせられはしませんから、無責任な言い方になってしまうかもしれませんが、・・できるだけ気遣ってあげて、できるだけ助けてあげられるといいですね。゛てきることは、本当に「できるだけ」でしかないですけれどね・・。
お礼
アドバイスありがとうございました。今まではコトバの世界で、それも不完全に、宗教を論じてきました。でも今は考えようとするとその知人の顔が思い浮かんできて、ハッキリとした結論が出せないでいます。
補足
その知人も「試行錯誤している」と連絡してきましたが、私自身も揺らいでいます。何にも知らないのに、批判していました。批判と言うより怖がっていました。少しでも興味を持って勉強すれば、恐怖感は薄らいでいくことと思われます。知らないで批判すると言うことは、予断と憶測をもってそうしていると言うことです。ただ怖がっているだけに過ぎません。
- gunto
- ベストアンサー率19% (347/1784)
どんな宗教でもその人にとっては必要で救われているのなら、生きていく上で生き易くなりプラスです。 でも自分の考えを確立している訳じゃなくて、背後にいる信者集団の受け売りをそのまま洗脳されて、疑いもなく人を勧誘する姿が無知なだけ。 そしてその表情が囚われていて、なんとも嫌な顔つきをしてる事。 そしてもっと一番嫌なのはそこに金がらみが出来てしまう事。 例えば収入の一割献金すると幸福になるとか、教祖なりリーダーが裏で凄く儲かってるのに、「それは世界平和の為に使われてる」とかを信じてる信者見ると、 バカだなあと率直に思う。 私の知り合いに何を血迷ったのか、00学会に2千万寄付したのが居た。 今は生活凄く困ってて「学会に助けてもらえばいいじゃないの?」と聞いたけど助けてくれないよね。 唯お題目を唱えなさいだけ。 困った人を助けるのが宗教なんだから、献金した2千万くれたら助かるのに凄くバカな話。 だからどんな宗教でも、心の問題なんだから唯静かに個人で考え、祈り哲学してたらいいのです。 だって人生そのものが哲学なんだから。 弱い人間が洗脳されたら人殺しもする。狂気です。 そこまでいかなくて、普通に心のよりどころとして 金も要求されずに、ましてや「私の宗教は世界一。あなたも入るべき」みたいに最低の事をやらなければいいんじゃないの? ある教祖が言ってたけど「信者は儲かるんだよ。だって儲かるって字だろう? 」 その裏には無知な集団が居るって事。 宗教が悪いんじゃなくて、宗教団体になると組織が出来て、心がどっかにいっちゃうから悪いのです。 何信じたって自由。 唯人を誘うなって事。 私はちなみにあの世に逝った最愛の母を信じてる。 私の神は母。
お礼
アドバイスありがとうございます。宗教に限らず、組織に入ってしまうと、自分を「殺す」ことになりますね。他の知人から「新聞」の勧誘を受けていますが、この知人からは、何も求められず誘われてもいません。
補足
その知人には何も求められていませんし、何も誘われてもいません。でも組織や団体に所属した人からは、新聞の勧誘などを受けます。でもこれは宗教に限ったことではありません。ある政党に属している知人からも新聞の購読を勧めまれました。ですから問題なのは、宗教とか政治とかではなく、組織や団体なのでしょうね。
- mailhiro
- ベストアンサー率23% (32/135)
どういった宗教を信仰するかどうかは別として... 人間は、地球上で最も進化した生物です。 であるからこそ、人間を超越した「神」という存在を認め、謙虚に振舞う宗教的なものの考え方をすることは大切なことだと思います。 宗教を否定する人には、自分が神様だと言わんばかりの自己中心的な方が結構います。 無宗教をよしとする風潮が社会に蔓延することのほうが問題である、と私は思っています
お礼
回答ありがとうございました。「無宗教」と自称する人でも、お金を信じたり、恋人を信じたりすることはあると思います。「宗教」という言葉を聞いただけでアレルギー反応を起こすことは問題ですね。
- E-DC2
- ベストアンサー率22% (131/595)
こんにちは。 >宗教はどの程度まで許容されるのでしょうか? ということですが、 他人に迷惑を与えない、が条件だと思います。 誰にも好き嫌いや信条があります。 宗教もそれと同じでしょう。 たとえば「私は肉食しません」はけっこうですが「お前も肉は食うな」は迷惑です。 また、信条であろうが信仰であろうが、法律違反はいけません。 それさえはっきりしていれば、個人の思考の範囲ですから無神論者と同じように普通に付き合えるのではないでしょうか。 もちろん、好き嫌いや信条によって付き合いづらいヒトがいるのとも同じだと思います。 では。
お礼
回答ありがとうございました。その友人も以前は私と同じ宗教観でした。でも、詳しくは語りませんが、今は違うそうです。そうなると、どこでその知人と接点を持てばいいのか私は分からなくなっているのです。
- hanpty
- ベストアンサー率13% (12/88)
宗教は、教祖となった人間の名言と例え話の集合と思えば良いと思います。天国なんて無い、と言ってしまえば話が進みませんが、褒め言葉としての『天国に行ける人』なら容認できるのでは? 不当なもので無い批判であれば、知人を批判する事にはならないと思います。
お礼
回答ありがとうございました。今まで安易に宗教を批判してきましたが、これからも同じようなことをすると、その知人の人生そのものを安易に考えていることになります。それは避けたいですね。
宗教は理屈で割り切れない部分があります。 他人から見て酷く不幸だと思っても、本人は幸せと感じてることもあれば、本当に不幸で底なし沼に落ちつつあるかも知れません。 それは当人の内面の問題ですから、他人が推し量ることは無理で、冷たい言い方をすれば「自己責任」です。 ご友人も現世の利益とか何かが虚しくなり、神に仕えようとしてるのですから、それは本人の決断ですから例え友人でも求められなければ意見を言うべきではありません。 つまり彼自身は既に自分自身は死んだと理解しており、死人になったのだから財産も名声も不要、神の声(概念)に従おうと考えたのでしょう。 彼が自分の考えをあなたに押し付ければ別ですが、そうでなければ見守ってあげればよいし、今までどおり普通に接していけばよいですよ。 私も宗教は信じてませんが、毛嫌いすることも無いと思います。 お寺のお坊さんの説法(瀬戸内寂聴さんなど私も好きです)を聴いたり、神父さんの話を聞いて、なるほどと思う部分があれば、別に入信しなくても心に留めておけばよいのでは。
お礼
アドバイスありがとうございます。友人がどう思っているか、その本当のところは分かりません。でも病気が治って、「試行錯誤している」という便りも来ました。私自身も京都の大徳寺の坊さんに狂った経験があります。
- oaji009
- ベストアンサー率6% (1/15)
1の方もおっしゃってますが宗教を信仰するのはあくまで個人の自由です。 あなたが信仰を批判することがあなたの自由であるように、知人の方が信仰することもその人の自由です。 その人があなたにその信仰を押し付けてきたら?迷惑ですよね。同じように、あなたが信仰をやめることを押し付けたら?やっぱりその人には迷惑なことだとおもいます。あなたの思考の枠内で他人を縛ることは避けたほうがいいとおもいますよ。 文面からは、特にその知人が財産をつぎこんでるとか、犯罪行為に走りそうだということもなさそうですし。
お礼
アドバイスありがとうございました。今のところお互いに迷惑になるようなことは起こっていません。その知人は、破産したから教会に駆け込んだという側面もあります。散財も犯罪もできないと思われます。
- omen_riderman
- ベストアンサー率18% (748/4047)
宗教を信仰するのは自由ですし、信仰の自由は憲法でも保障されています。 あなたが勧誘されて迷惑しているのであれば きっちり断ればよいでしょうし、 別に無理やりその友人の信仰をやめさせる必要もないでしょう。 目に見えるようなひどい事象がおこったりすれば 全く別問題でしょうがね。
お礼
アドバイスありがとうございました。その友人に勧誘されたことはありません。友人の信仰をやめさせる気もありません。9.11のようなことをしようとしたら、やめさせるでしょうね。
お礼
アドバイス(批判)ありがとうございました。確かに思考の停滞を来していたのは私の方だと思います。根っこで考えることを放棄している自分を、宗教に帰依した知人に投影していました。考え始めなければなりませんね。
補足
確かに断片的な知識しかありません。講話を聞いたことがきっかけで、そのお坊さんの書いた本を読んだことがありましたが、受け売りの域を出ません。ある思想家が書いた宗教論を読みましたが、その人が触れている宗教家や文献を、直接自分で読んだことはほとんどありません。一時情報が少なく、二次情報ばかりです。自分で考えるということも、一時情報に含まれますね。