- ベストアンサー
河野洋平議員が総理になれなかったのはなぜ?
歴代の自民党総裁の中で、河野さんだけが総理大臣になれなかったと聞きました。どういう政治的事情があってそうなったのですか? 幼かったため、当時の記憶はほとんどありません。できるだけ詳しくお願いします。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
宮澤内閣不信任案が,自民党の一部の議員が造反したことにより可決し,衆議院が解散されました。 そして総選挙で,自民党は過半数割れし,宮澤総裁が退陣し,河野洋平氏が自民党総裁となりました。 しかし,首班指名で,自民党総裁の河野洋平氏は,日本社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけが担いだ日本新党代表の細川護煕氏に敗れ,総理大臣にはなれませんでした。 その細川総理が辞任した際の首班指名でも,新生党党首の羽田孜氏に敗れました。 次に,羽田総理が辞任した際,自民党は,社会党・新党さきがけとともに,社会党委員長の村山富市氏を担ぎ,与党に復帰し,河野洋平氏は副総理兼外務大臣として入閣しました。 その後,自民党総裁選挙で,形勢不利と悟った河野洋平氏は立候補せず,橋本龍太郎氏が自民党総裁となりました。
その他の回答 (4)
- ipa222
- ベストアンサー率20% (903/4455)
野党になった自民党が、河野を総裁にし、社会党と連立を組んだとき、村山富市に総理を譲ったのです。
- kuma56
- ベストアンサー率31% (1423/4528)
新自由クラブを作って、自民党に反旗をひるがえして出ていったことがあるから。 自民党が連立で政権に戻った時でも、"この人だから"総裁には成れたけど総理候補にすらならなかった。
嘗て自民党は国会において単独過半数を占め、その内の最大派閥が田中角栄氏の田中派でした。 そして田中派の中で竹下登氏が角栄氏に反乱を起こして独立、竹下派を作り首相になります。 89年、リクルート事件で退陣すると、宇野宗佑が引き継ぎますが、器では無く早々に愛人問題で退陣、クリーンイメージの海部俊樹を経て、宮澤喜一が首相になります。 この時点で竹下派は影の実力者、金丸が仕切りますが、金丸も失脚、羽田と小渕に分裂し、羽田は宮澤内閣の不信任案に賛成し、小沢一郎などと共に自民党を飛び出し、過半数を割ります。 宮澤が退陣した後、河野洋平が宮澤派を受け継ぎ、総理を目指しますが、過半数割れした自民では指名選挙に破れ、総理にはなれませんでした。
単純に野党だったからです。ちなみにその時の総理は「細川護煕」「羽田 孜」「村山富市」氏たちでした。