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言葉と気持ちの関係について、どう思いますか?
こんにちは。 以前から、間違った敬語を使われて腹が立った、という話をよく聞きます。しかし、これは本当に腹立たしい事なのでしょうか? 敬語を使うべきところで間違った敬語になってしまうのは、緊張したり、誤って覚えているかだと思いますが、その心や姿勢は他人を敬い、不快にさせたくない状態だと思います。それなら実際には自分を敬っているのだし、立腹する事はないと思うのです。間違いを指摘するなら怒る必要はありません。 言葉はあくまでも交流の道具の一つであって、他に相手の表情や姿勢、身振りや手振り、その行動などで気持ちを推し量るなどできると思います。 ですから相手の本心に迫ろうとせず言葉っ面の間違い部分を指摘して不快になるなんて、言葉を扱う目的を考えれば本末転倒だし愚かで短慮な反応だと思うんです。 きれいな言葉というのは気持ちのいいものです。でも、それより大切なのは相手の言葉の出所にある "心" を感じる能力ではないでしょうか? 言葉を自分の為に使う場合はより厳しく律することもいいでしょう。きれいな言葉を使うと自分を正せます。 しかし、他人との交流では他人の気持ちを理解することを第一に考えた方がよいと思っています。だから、言葉っ面の間違いを気をしすぎて相手の本心から気をそらす行動は愚かだと思います。 以上はあくまでも「聞く側」の姿勢の話ですが、皆さんはこういった言葉の誤った使い方と、その人が伝えたいと思っている気持ちについてどう考えますか? 言葉で伝える事こそ交流の本命であり、言葉足らずな方が悪いのだと思いますか? それとも私達は言葉の形にばかり気をとられて、気持ちを受け入れるという事を忘れていたと思いますか? 皆さんのお考えをお聞かせ下さると幸いです。
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お礼ありがとうございます。 >間違った敬語を使われて腹が立った、という話をよく聞きます。しかし、これは本当に腹立たしい事なのでしょうか? という観点から考えた私なりの答えでした。 言葉より心ありき、という点で言えば相手の気持ちを台無しにする揚げ足取りっぽくていやですよね。 同様に、受け手が気にしなければ腹の立つことではありません。どんな言葉であれ相手の気持ちを汲み取ることは十分できます。 とはいえ言葉遣いには人間性も現れます。そういう意味でも「憤慨する人の心の狭さ」も一理、「許容する人の心の広さ」も一理あると言った感じです。 間違いを正すやさしさと、聞き流すやさしさ、そのどちらも相手のためではないでしょうか。敬語は使えないより、使えるに越したことはありません。 見方を変えれば敬語も文化ということで、同じく使いこなせれば「楽しめる」言葉アイテムのひとつかと思いますよ。
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- chunjinho
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>大切なのは相手の言葉の出所にある "心" を感じる能力ではないでしょうか? その通りと思います。私たちはより親密であればあるほど、同じ言語を使っていると思います。「言語」とは日本語とか英語と言うことではありません。日本語の語句の使用法と理解が似ているということです。 「バカヤロウ」といったとしてもそれは尊敬の意味だということが相手に伝わることです。
お礼
ありがどうございます。 > 日本語の語句の使用法と理解が似ているということです。 はい、よくわかります。わたしははじめて会う他人同士でも、お互いが能動的なら初回のやり取りでも言葉の裏の気持ちが伝わると思っていました。口調や表情、姿勢など、他にも感じることはたくさんあるのですから。でも、今は他人同士、ろくに顔も合わせずにしゃべって、言葉だけを聞いている。そんなことを聞いたり、見かけたりしているものですから、残念なことだ、と思わずにいられませんでした。
補足
皆様、どうもありがとうございました。こちらをお借りして、皆様へのお礼とさせていただきます。 今回は、質問の内容をきちんと皆様にお伝えできたか自信がありません。また、皆様のおっしゃりたいことを理解できたかも自信がないのですが、何度か読み返しながら考えさせられることも多くありました。 ちなみに、すこし率直すぎるガチガチの口調で書かせていただいたのは、なるべく、気持ちを正確に表したかったからです。ふだんは、お話し口調なのです。もしかしたら、こちらのほうが伝わりやすかったかもしれませんね。送り手の不備でした。申し訳ありません。 それでは、どうも、ありがとうございました!
- tukimayu
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とっさの状態でない限り、伝えたい相手に、きちんと伝わる言葉で話すことこそ、本当に相手を思う気持ちだと思います。 目上の人には目上の人を敬う気持ちを基本にしていれば、それなりの言葉遣いが出るのではないでしょうか。服装のTPOと同じことだと思います。 最近この件と同じようなことを感じたのは、映画で本格復帰することになった窪塚洋介さん。 彼の場合、話の内容は変わりません。今までもいいことは言っていました。でもラフな服装、過剰な身振りにわけのわからない言葉、あれでは言っていることは素晴らしくても聞く気にはなれません。 しかし今回、きちんとした格好、きちんとした言葉遣いで記者会見に臨んだ彼は、窪塚洋介という人となりは変わっていなくても、あの真摯な態度だけで言葉より深く伝わるものがありました。 言葉は確かに、その言葉に意味はあるし、言葉の正しい使い方よりは気持ちの問題だと思います。 でも、言葉もある意味上っ面であり、形式、スタイルですよね。 中身がどんなに素敵な人でも、深く知るまでは内面にたどりつけません。髪はぼさぼさ、ジーパンTシャツで会社にくる「仕事のできる人」より、仕事はそこそこでも見た目のマナーを守っている人のほうが好感が持てると思いませんか? 言葉も同じく、基礎ができてこその応用だと思います。特に社会に出てからは常識として、正しい言葉遣いができる方がいいと思います。 私も気をつけたいと思う点です、自分のためにも、相手のためにも。
お礼
ありがとうございます。 もちろん、敬う気持ちがあれば、敬語を使う、服装を整える、などすると思います。 質問を誤解させてしまったかもしれませんが、わたしは言葉、表情、姿勢、行動などでやりとりをするうち、道具のひとつである言葉を誤用したからといって、それだけでその人の気持ちを読み取れなくなるわけではないでしょう、と思ったのです。 だから、以前の窪塚さんに対する tukimayu さんのご指摘は当然だし、今回、真摯な態度で臨んだ記者会見に感心したのも当然だと思います。 ジーパンTシャツで会社にくる仕事のできる人が、社則を破っていて、それを知りつつも仕事のできを楯にその格好でいるなら、彼の行動は正しくありません。それが本心なら、言葉以前の話でしょう? 言葉遣いが著しく荒く、誠意のない場合の話をしているのではないということだけは、この場で確認させてください。
「敬語の使い方に厳しい」というのは「心」と「社会性」どちらを 自分の中で優先しているかによって考えが違ってくるのだと思います。 敬語に対して厳しく言う人の言い分というのは外面的(社会性)に 重点を置いていて、逆に質問者様のような考えの方は内面的(心)に 重点を置いているのだと思います。 私の考えは後者です。 敬語という言葉のカタチにばかりこだわって、肝心の中身が 疎かになっては、何にもならないのでは、と思います。 「言霊」って言葉があります。 言葉は魂を乗せるものです。ですから、その時の 自分の気持ち(魂)を乗せやすい言葉で話せば良いと思います。 それこそが私は「正しい言葉」だと思います。 敬語ももちろん大切です。相手を敬う言葉ですから良い言葉ですよね。 でもそれを強要するのは少し違う気がします。 言葉とは、心を伝えるものであり、楽しむものです。 「言葉遊び」という言葉があるように、言葉とはとてもユニークなものです。 若い年代が、俗に言う“若者言葉”を使うのも、言葉を 楽しんでいる証拠です。みんな言葉が大好きなんですよ。 キレイな言葉を使うのも、オリジナルの言葉を生み出すのも、 「言葉を楽しむこと」だと思います。それがいつしか 一部で言葉の使い方を強要してしまう社会になってしまいましたね。 残念です。 私は言葉使いを強要するよりも本来の「楽しむ」ことの方が ずっと大切だと思います。
お礼
ありがとうございます。 心と、社会性ですか。そうなのかもしれません。 わたしは、言葉だけで終わるのか、言葉を鍵に心に触れるのか、の違いだと思っていました。受け取るほうが受動的か、能動的かだと。 だから、わたしは、誰の言葉にも、彼らが何かを伝えたくて発したなら中身があると思っています。ただ、言葉にうまく載せられないだけ。 じぶんのところまで中身が届かないとき、「届いてないよー」と文句を言うだけでなく、じぶんから取りにいってあげる親切さがあってもいいじゃないか、と思うのです。 ある言葉遣いを強要することは、いいのか悪いのかわかりません。どこでも通じる、共通の意味を持った言葉を守るのは、場合によっては必要だと思うからです。 しかし、その目的と枠を超えれば、強要は害だと思います。 言葉遊びを親しむのは楽しいと思います。そして、それが皆に受け入れられ、皆が理解できる言葉となるなら、それはどんなにすごいことだろうと思います。 のびのびと言葉を育める環境が、なくなってきているのかもしれませんね。
- Jinjim
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これは、外観と内面の問題と同じことだと思いますね。人間は内面が一番大事なのだから、外から見た印象でその人を決めるのはだめなのではないか? と言うのと同じ。 でも、いくら平服でと書かれていても、結婚式に普段着で行きませんよね。また、一週間、着替えなしですごしたりしませんよね。清潔感と言うものも大切ですから。 確かに建前からすると、あなたのおっしゃるとおり、心が大切なのですが、心が見えるほど交流が出来るかどうかは、最初の印象にかかっていると思いませんか?
お礼
ありがとうございます。 わたしの質問の例が、すこしあいまいだったようです。 正しくしようという気持ちがあるのに、未熟なために正しくできない場合、正しくできないことをつつくのではなく、正しくしようという気持ちを汲んでみてはどうか、ということです。 Jinjim さんのお挙げになった例の行動は、正しくあろう、と努めていない気がいたします。もし、一週間、着替えなしというのも、それができない状態だというなら、わたしはそれを責めはしません。その人は本当は清潔でいたいと思っているなら、そこを感じることができます。
- 5748
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おっしゃる通りだと思います。 言葉は人の気持を伝えるもので、余り「問題な日本語」などとあげつらうものではありません。 「問題な」という言い方の方がおかしい気がしますが。 私は「全然大丈夫」と言われても(本来的には誤用でしょうが)「全然」気にしません。 それより、余り汚い言葉を使われると 「損をしてるなあ」とは感じますが。 例えば女性が男性の言葉を真似して 「ケツ」とか「メシを食う」と言ったりするような。
お礼
ありがとうございます。 汚い言葉を使っている、というケースも難しいです。じぶんは、彼女が虚勢をはっているのか、下品と知らないのか、わざと使っているのかと考えてしまいます。
お礼
> 言葉より心ありき、という点で言えば相手の気持ちを台無しにする揚げ足取りっぽくていやですよね。 はい。それぐらいのことを指摘するより、相手の気持ちを汲んであげればよいのに、と思いました。 ただ、皆さんまだ、わたしの質問を大規模にとらえていらっしゃるような気がいたします。 具体例を挙げますと、「○○のほう、○○のほう」とついつい "ほう" を使ってしまったり、言葉のはじめに "まあ" を多用したり、「~していらっしゃる」の "い" を抜いてしまったなど、緊張していたりなんだりで、つい間違えたり、不快感を与えてしまったりするようなことなんです。