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人を信じたい・・・
人を心の底から信じることができません。 それは相手が家族・友達・恋人に限らず誰でもなんです。 些細なことでも疑い、悲観的になり、一歩退いてしまいます。 特にひどいのが友達関係です。 元々人見知りが激しくて友達関係は狭く・深くなのでそんなに 信用できそうにない軽い感じの子が周りに多いわけではないのですが 裏切られたらどうしようとか考えてしまって、もちろん友達に そんな兆候もなくすごく良い人たちばかりなのに、頭では 分かっていても信じることができないんです。 なので、いつも本音で話したりすることができません。 ラジオを聴いたり中高生向けの雑誌を読むと、同年代の子で 本音で話せる友達がいたり、毎日のように電話でいろいろなことを 話せる友達がいるという人が多いみたいで、私みたいに人を信じられず 本音で話せる友達がいないなんておかしいのかなと思うんです。 本当はもっと仲良くなって、何でも言い合える仲になりたいのに 常に一歩退いていつ裏切られてもいいように構えているというか・・・。 ドラマを観ていても、主人公が友達や仲間を信じているシーンを観ると 「絶対に後で裏切られるんだから、そこまで信じないほうがいいのに」とか 思ってしまいます。 (ドラマなので、後々裏切られるけど最後は心を開いて信じるという シーンが来るな、と誰でも予想できるようなシーンだったんです。) 人を信じられるようになれば、もっと友達とも仲良くなれて 裏切られることを前提ではなく付き合っていけると思うんです。 でも、自分ではどうすればいいのかわかりません。 どうすれば、人を信じられるようになるでしょうか。
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こんばんわ。私(→女)も以前はそうでした。 自分の家庭環境は結構複雑で、家族すら信用できませんでした。言葉や感情を心の中だけに詰め込んで、自分を偽ってましたね。学校では根っからのお笑い系ですよ。それは家庭のことを忘却したい事とそれを隠し続ける偽りの自分が交差した結果だとつくづく思います。 で、今は「信じるとか信じない」を考えません。 それって、考えすぎると結構疲れますよ。 例えば自分が好きになった相手から裏切られたと感じた時に「もう信じられない!あんたなんか信用できない!」という一言で片付けたりします。その中には「相手を信じた自分を認めたくない」と「相手に非を認めさせる事で自分の存在を確認したい」ようなものだと。 自分の場合、きっかけは当時の彼氏であり今の主人です。彼には誰にも言わなかった事をすべて話しました。そして「私は貴方を好きだけど、貴方も信用できない」と伝えました。(→鬼ですね)それを彼は受け止め、彼がいった言葉は「それでもいいじゃないの?」でした。その後、彼は特別「信用してもらおう」って行動も言葉もなく、ありのままだったわけです。だからありのまま自分も接しました。・・・だから信じるって言葉を常に言っておかないといけない事は本当は自分が自信もって相手を信用していない時だって思いました。 で、自分の結論は「信じる」って言葉を連呼したり、重視しすぎる事が自体がおかしい=「信じる」という言葉に縛られない。これが自分の答えです。 よく「信用にお応えします」って金貸し屋の看板があるけど・・・それ「当然」でしょう?あえて書く必要ないでしょう?そんな看板ほど連絡先が携帯の番号だったりしませんか? 例えば親が子供に対して毎日暗示の様に「信じているから」「貴方をしんじているのよ」っていう必要ありますか?(逆に子供がいう事もあるでしょう。)親子関係にそんな暗示はいりますか?子供達は大きくなってその言葉の違和感に気がつくでしょう「あれ?」って。不安だからつい使ってしまう、自分の枠に戻し入れたいから使いたがる・・・要するにとても大事な言葉を軽く使いすぎですよ。自分にも娘がいますが、ここぞ!という時のみしっかり抱きしめて言いますよ。大事な言葉ほど本当は心で感じるものですし、軽々しく乱発しない。 「信じられない」自分を認めて、そこからスタートでもいいんじゃないの?だって貴方自身も心のどこかで「信じてみたい」でしょう?じゃなかったらここに質問はしないでしょう?それでも「何かを信じてみたい」のなら、まずは「自分」を信じる、つまり「自(分を)信(じる)」=自信です。あ・そんな堅い話じゃなくてね。 こうして貴方のことを思ってご回答をされている人がいることが事実でしょう。皆さんそれぞれ自分の言葉で書いておられますが、貴方が悩んでいる内容を『信じて』ここに書き込まれているのでしょう?これ以上の理由はありますか? 恐らく原因は貴方だけに問題があるわけではないのです。多分、「信じる」という言葉だけがマスメディアなどを通じて一人歩きしそれがいつの間にか「信用・不信用」の枠を作ってしまっている事と思います。 その言葉を使い過ぎている時は「相手を信じきっていない時、つまり自分の存在を尊重したい時」が多いでしょう?理解と共感を相手に求めるという意味も含めてね。 だから、自分は「信じる」って言葉はここ一番!以外、封印しましたし、もうそれすら深く考えることもなくなりました。ありのままです。 「sarusaruを信用していたのに」って言われても「ふーん、そうなんだ」っていいますよ。『それなら態度や行動で示そうよ、その信用って言葉で自分を正当化してるでしょ?第一「信用してくれ!」って頼んだ覚えもないし、そう貴方がおもうなら仕方ないって』って言わないけど、反論しても空しくなるんで。*自分に何らかの原因があった事 *相手が求める「信用」は自分と違うものだったみたい・・・と思うようになりました。 うーん、昔の自分と大違い。 まずは今の自分を好きになってください。別にいいところがどうだとか、ここが嫌だとか・・・ではなくて、簡単に書けば「朝、鏡を見て自分に対して笑顔ができるか」程度です。自然に笑えればOK!って感じですよ。 深く考えない、それから貴方の事を思ってくれるご友人を大事に。貴方の気持ちは自然に伝わるものですし、疑いの眼差しはご友人も感じますよ。 相手を信じられない人ほど吹っ切れた後には「本当の信用」をとても大事にするものです。 きっと、心が落ち着いて何かが分かり始めたら貴方はきっと人に対して貴方らしい自然な接し方ができる人だと思いますよ。気長にね。明日も笑顔でいってらっしゃい!
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- adcha128
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どんな人だって疑心暗鬼な面はあるような気がします。 心から信じられるというのは、まずあり得ませんね。 あるとしてもそれは表面上だけではないでしょうか。 ただし、多くの人は質問者様のように深刻にそれを考えないでしょう。 極論かもしれませんが、人を信じない人も、人には信じられていないから。 人間とはそういう生き物です。 どこかで裏切られたくないと思っています。 でも、自分が人を裏切る可能性だってあるんです。 無理に信じる必要はありませんが、必要以上に疑うこともないでしょう。 もっと気楽に考えていいと思いますよ。
お礼
そうですね、気楽に考え、気楽に付き合っていきたいと思います。
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お礼
考えすぎていたのかもしれません。 何も考えずありのままに接することのできる人が現れたとき それこそが信頼していることなのかもしれないけど。 何事も深く考えてしまうのが私のクセでして; ありがとうございました。