オカマの皆さん、私のような兄貴は好きですか
まばゆさに目をつぶってはいけない。
光の中にその輪郭を読み取ろうとする愛の探求者。
私はそこに何者の姿を見つけるのか。
猛々しき実在する仮面ライダー。
ドリル番長だ。
テーマは異性に対する愛情だ。
一般に俺様は自分だけが大切だ。
こういう表現は自己愛と定義されている。
男性が共感可能な男性に欲情するとしたら、それは自己愛の延長にある倒錯だろう。
男性が女性に対して愛情の実現を試みるとすれば、それは自己愛、自分だけ大事を突き抜けて、まさしく他者を愛している事を証明することが出来る。
人が孤独で無く、お互いに人と人、すなわち人間であるその社会性を自覚する基盤が言葉にすると愛だ。
お互いに人と人、同性同士は友情で愛と云うより友情と云う言葉が当てはまる。
こっちの方が、社会基盤を安定させ、人と人との職業などの共同の生産性を発揮できる。
友情は愛情に匹敵し、現状では対価をもたらす生産活動だ。
自分自身として、すなわち人間の前に人そのものとして、男女で交わされる生産活動は子供を産むことだ。
生物の一種族である人は、原始的な愛情を友情と云う生産活動に昇華させ社会を形成している。
さてこの論説は、オカマバー クラブヴァルハラで繰り広げられる哲学バトルの傾向とも符合する。
私は仏陀に対してV字攻撃してくるオカマの倒錯した愛情に、自らがセレビィと云う女の子を装い痴漢撃退しまくった。
これはアニキ愛を回避し、幼児性愛から君達にみずみずしい愛なり、友情なりの感情をもたらすためのアニキな親切だ。
これで友情に対する哲学に裏付けされた定義は完成する。
要するにだ。
兄貴に愛を自覚する同姓はオカマだ。
私が発見した友情の観念に到達していれば男だ。
今回は愛を至高の人間の資質とだけ定義した西洋の倫理への補足のつもりだ。
ほかにもこんな事を考えた。
発表済みだけど、人は他者に自らが生きる事と等しく、その者が生きる事を助ける事が出来て、だからこそ社会性がある。このような他者への配慮を広く善といい、社会への体裁だけでなく、自らの心から善心を発露すれば、その情動は愛と云えるだろう。
このように変化したりする愛の派生定義について質問をしご回答いただくという体裁で、読者をウハウハさせる知的SMショーを行おうという趣旨だよ。
兄貴の熱さを君に入魂しよう。