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人間は短い一生をなんのために・・・
人間は短い一生をなんのために生きているのでしょうか。 先日近しい人を亡くし、そんな風に思うことが多くなっています。何か熱中したり、楽しいことがあって笑っているときなんかにもふとそんな無常観を感じてしまいます。 これは「死」という人間に平等に訪れる巨大なものの大きさを恐れているということなんでしょうか?
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「何のために生きているのか?」そう思った時が、精神のステップアップの時です。 そのことをふと友人なんかに話しても、「そんなことを考えても仕方がない」「理由なんかない」とかそんな答えばかり返ってくるでしょう。そこでほとんどの人が「そうだよな」と考えるのをやめてしまうようです。 私もある人が死んだときにすごく無常に感じて、人間が物に見えたことがあります。 しかし、そこで「なんでだろう」といろんな人生の本などを読みました。そしてイメージトレーニングなどもやりました。 結果、人それぞれ役割がどうも違うようです。 しかしながら、人間に共通する、大きな目的は、少しでも生きている間に精神、魂を向上させるのが目的のようです。 私も場合、あまりにも利己的なのが、自分を見つめてわかりましたので、あらゆる場所で、自分がどう動いたら、全体がうまく調和するかということを意識して生活するようになりました。 昔の無目的の時と比べて、毎日がすごく新鮮で楽しいし、あれだけ自己否定的だった、自分が好きになっているところです。 ぜひ、自分を研究して人生の目的を探求してください。 自分の人生を肯定して、悔いがなかった言える人は、人生の目的は「何か」と追求したばかりです。
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- coffeefreak
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難しい質問ですね…。 このご質問の答えは、いろいろと模索していく中で、 quinquinさん自身が見つけるべきものと思います。 一つ良い方法があります。 大きな図書館へ行ってみて下さい。 過去多くの人々が、同じ疑問を抱いて生きてきました。 (それは「紀元前の人々」も、です…) ですので、それらの先人の知恵や考え方が書かれた本を参考にして、 「あなた自身の答え」を見つけてみてください。 (→全部の本を読む必要はありません、自分が読みやすいものだけで、とりあえずは十分です) なお、御参考までに、私自身は 「自分と自分以外の人々が、いかに幸せになれるか…」が、 自分の人生の目的なのだろう、と思って生きています(^^)
お礼
ありがとうございます。素敵な目的をもっていらして、私にはうらやましいです。早速図書館にいってきます。
「なんのために生きているのか」 これは、生きているあらゆる人が持つ疑問なのではないでしょうか。多くの宗教はそれに答えようとしますが、それでも、なかなか、人は与えられた答えでは納得できないと思います。 私もこのごろ自分に近しい人が亡くなることが続き、なんとも言えない気持ちになったのですが、今は何となく、私の親しかった人たちというのは同じ電車に乗り合わせたようなもんなんだなぁ、と思うんです。 私もたまたまあるところに生まれ落ちて、いろんな人たちと出会い、時間を共有して生きてきて、でも先に亡くなってしまう人もいて、私もいつか死んでしまう。人が死んでしまうのって、それが最後なんではなくて、私には電車から降りるような感じに思えるんです。 親しい人が先に電車から降りてしまうと、自分だけ残されて寂しいけど、自分もいつかはおりなくてはいけない。でも、たまたま同じ電車に乗り合わせて、いろんな時間をすごして、親しくなれた人がいたことに、感謝したいなぁ、と思うんです。 あまり、答えになってませんけど。私も人は何のために生きてるのかなぁ、ていつも考えつつ、答えはみつけられていません。
お礼
そういう角度の考え方もあるのですね。素敵な考え方だとおもいます。
- yu-taro
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こんにちは。 >人間は短い一生をなんのために生きているのでしょうか。 難しい命題ですね。人ばかりでなく、生き物は何のために生きているのかということだともいえますね。生き物の中の一つに人間がいるということです。 私は、生きていることは楽しむことだと思っています。楽しむために生きているとも考えています。 当然生きていくためには働かなくてはならないのですが、生きていくために働かなくてはならないという当たり前な考え方が嫌いです。 人生を楽しむ、週末や仕事時間以外を楽しむために勤務時間は一生懸命に働く。これが私の理想の生き方だと思っています。 楽しむ中には、日曜日にこうしてここに質問したり、回答したりしているのも知恵を出し合ったりしていて人生をより楽しめる手段の一つだと思っています。 死はいずれば誰しもが訪れます。その途中には肉体的にも精神的にも老化したり物忘れや痴呆も出てくるでしょう。でもこれは死に対してあるがままに受け入れるためには必要な体のしくみだと考えられます。 加齢でボケることによって死への恐怖も薄らぎ、そして最後が訪れる。怖がらずにあの世へ旅立つ。これが理想な生き様だと考えています。 ボケるということを医学的に防止したりすることもある面では盛んに研究されていますが、自然と起きる体調の変化は老化とかではなく「老人力がついた」と考えればそれも楽しいことです。 こうして、ここに質問も回答もできる我々はまだボケも起きていないので、老人力も付いていないのですが、その分良い回答をしたり、アドバイスをすることで、自分に出来ることをするこということで、生きている存在証明ができるものだと思います。 数十年かして、教えてgooでyu-taroといういつも変な回答を書いていた奴がいたなと何かの機会にでも思い出してくれれば、それば生きていた甲斐があったものだと思っています。 偉そうな事を書いていますが、日曜日の休みの日に年末ジャンボに当たらないかなとテレビを見ながらみかんを食べてごろごろしている単なる凡人です。(^^; それと、まだまだ老人力が付かないので修行が足らないかとも思っています。 こんな感じでいかがでしょうか。
お礼
具体的でとても参考になりました。yu-taroさんの意見、しっかり心に留めておきます。
- haruka1234567890
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誕生が最初で、死が最後ではありません。 その前後にもあります。 良く考えましょう
お礼
もっとよく考えて見ます。ありがとうございました!
- ozisan
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あなたは、「生かされている」と思っているからです。 死は、全てに人、平等に迎えます。 違うのは、どのように死を迎えるかだけです。 自分の死に方を決めた方は、「空しい」等とは言わないでしょうね。
お礼
自分の死に方ですか・・よく考えて見みます。ありがとうございました!
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お礼
悶々と考えている間にも精神は高まっているということですね?よかった!ありがとうございます!とても前向きになれそうな気がします!