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川中島の戦いが長引いた理由

最強武田軍団と精鋭上杉軍団は、川中島周辺で何度も激突し、戦国時代最大の激戦、関ヶ原の戦いよりも死傷者が多かったそうです。善光寺平が超重要だった理由は何ですか。 A. 善光寺平(長野盆地)が肥沃で稲作に適していたから。 B. 善光寺の門前町が繁栄していて徴税できたから。 C. 善光寺は重要な巡礼地でメッカやエルサレムのような聖地だったから。 D. その他。

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  • eroero4649
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回答No.3

上杉謙信と武田信玄との間では合計5回に渡って世間でいうところの「川中島の合戦」が行われたといわれています。 一般的に「川中島の合戦」というと、永禄4年の「第四次川中島合戦」のことを指していますね。そしてこの第四次川中島合戦以外は、合戦というより小競り合い程度で終わっていたとされています。 確かに各種資料を見る限りは、第四次川中島合戦を除く川中島の合戦では双方とも「ポジション取りの機動戦」に終始していて、双方に意図的に決戦は避けていたことが分かります。 お互いに相手の軍勢は強力であり、決戦は大きな損害を伴うと避けていたと思います。 では第四次川中島合戦はどうだったのでしょうか。巷間ではその半年前の謙信の関東出兵が信玄に邪魔されたことに対して、謙信が雌雄を決さないといけないと決意して川中島合戦に臨んだ、とされています。そしてそのためにあえて敵地深くにある妻女山に陣を構えたとされています。 けど、そこから信玄の海津城入り、妻女山への夜襲計画とそれを喝破した謙信が夜間に山を降りて八幡原で両軍が激突した、という流れは後の軍記物によってしか確認ができず、しかもそれぞれのその采配はとても名将とは思えない双方の愚策の応酬としか思えないので、実際の第四次川中島合戦とは大きく異なっているのではないか、というのが主流になっています。 「敵をおびき出すための奇襲作戦」は、後に長篠合戦で織田信長が武田軍の背後の長篠城に一部部隊を送ったという事例があります。しかしこのときはあくまでごく一部の部隊に過ぎなかったんですね。 川中島合戦では、半分の軍勢が妻女山に向かったとされています。ある研究者の計算によると、もし軍勢の半分が妻女山に向かった場合は、先頭の部隊が妻女山に到着した頃に最後尾の部隊が海津城を出発するくらいになるそうです。いくらなんでも軍勢が多すぎて非現実的ですね。 最近の研究では「それまでの三度の川中島合戦と同じく、双方とも決戦はしない方針だったが、何らかの偶発的な出来事によって本格的な衝突に至ってしまい、双方にそれなりの損害が出たのではないか」という説があるそうです。私もそれが正しいのではないかな、という気がします。上杉勢の主だった武将に損害はありませんが、武田勢は信玄の弟信繁や諸角虎定らが戦死しているので、人的被害は武田勢のほうが大きなダメージであると思われます。 特に弟信繁の戦死は痛手で、もし信繁が存命だったなら後の信玄と義信の争いやそれに伴う飯富兵部のクーデター未遂や、信玄死後に武田家が親勝頼派と反勝頼派で対立したことを防げたかもしれません。 さてそれはそれとして、次に川中島という場所の戦略的な意味を考察したいと思います。 結論から先にいうと、川中島という場所に戦略的な意味はありません。「緩衝地帯」としては双方にとって都合がいい場所であった、というのが実際であったと思います。 まず上杉側から見ると、善光寺より北は自分の本拠地である春日山城と近くなるので、敵対勢力を入れたくない地域になります。デッドラインは今の中野市から飯山市あたりで、ここまで敵対勢力が出てくると謙信としても関東出兵などといってられなくなります。川中島(長野市)あたりだと少し余裕をもっていられますので、その辺りが国境線なのが理想。 一方の武田側ですが、武田が一番進出したいのは、関東です。決して北陸ではないんですね。ではどうやって関東に出るかというと、今の佐久市、小諸市から東に碓氷峠に行って上野(群馬)に出るルートです。これが武田家が甲斐にいたときからの志向していた進出方向だったのです。 武田信玄は最初の対外進出として諏訪に攻め込みますが、諏訪の小笠原一族を完全制圧しないまま佐久方面に進出します。そのため上田原合戦で村上義清に敗れると小笠原勢が勢いを回復して諏訪も失いかけます。塩尻峠合戦に敗れていたら、諏訪も失っていたことでしょう。 なぜ武田家は佐久方面に進出したのかというと、ひとつは佐久のあたりは作物向けの良い土壌だったというのがあったと思います。農業にいい土地かどうかは、当時の人たちは我々よりずっと敏感だったはずなので、盆地で暑くて寒くてあまり良い土地でなかった諏訪地方より、土壌が優れた佐久地方のほうが魅力的だったはずです。 そして佐久地方が手に入れば、そこから碓氷峠を経て関東地方に出られますから、貧しい信濃地方より発展している関東地方に進出したいという気持ちが大きかったと思います。 「武田家の戦略的目標は北関東」と考えれば、そのデッドラインは今の上田市の辺りで、上田市まで失うと武田家の関東への足掛かりは危険に晒されることになります。 そこから考えると、川中島(長野市)の辺りは「緩衝地帯」として上杉側、武田側ともにちょうどいい場所であるといえます。お互いに「そこから先には行かせない」でちょうどいいのです。 謙信はこれ以上リスクを背負って先に進出する必要はありません。あくまで謙信の戦略的目標は関東です。その先の地域に対しても何の魅力も感じなかったでしょう。 信玄にとっても、「戦略的目標は北関東」であるならば、川中島から先に行く必要はありません。謙信の抵抗がやたらと強くなる割に、その土地を手に入れたところで経済的メリットは小さいのです。うっかり信濃と越後の国境地域に手を出してしまうと、謙信が取り返しに来たときに遠征しなければなりません。 なので国境線として、川中島で双方は対峙していたのです。そして双方が「ここが国境線」と認識していたなら、合計5度も対峙しながらあったとしても一度しか大規模な衝突が起きなかった理由も納得ですね。 お互いにそれ以上先には進出する気はないですから、軍勢を消耗するような真似をする必要はないのです。ただ、相手にその先に行かせないために、お互いにそこで対峙しておく必要はあったのかなと思います。 謙信は村上義清らの信濃勢を亡命先として受け入れていたので、彼らに対して「君たちの土地を奪い返すために努力しているよ」とポーズをとるための政治的な必要性もあったかと思います。しかし本気で奪って村上義清らを復帰させるつもりもなかったので、川中島をプラプラしたら帰ってきたのでしょう。 信玄は、川中島を失いさえしなければそれでよかったのです。

DK000
質問者

お礼

小諸で保険代理店をされている紳士的な友人がおりますが、小諸佐久地方は土壌が豊かな土地なのですね。ありがとうございます。

その他の回答 (4)

  • Nakay702
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回答No.5

DK000様 不肖、私段差で転倒、右手骨折、右目負傷、左手入力やっとです。楽しい話題や図の話で盛り上がりたかったところ、残念です。しばしいとまごいいたします。いろいろありがとうございました。復帰の節はまたよろしくお願いします。

DK000
質問者

お礼

「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる…」。清少納言「枕の草子」を意識して、島崎藤村(島崎春樹)氏は「千曲川旅情の歌」を発表したのでしょうか。お父様は国文学者で古典に精通されていたようです。「枕の草子」の早朝と「千曲川旅情の歌」の夕方と対照的でもあります。幾つも色が詩に織り込まれていて、風景を脳裏に思い浮かべられるのが秀逸ですね。 「雲白くして遊子悲しむ」旅人が身請けしてくれなくて遊女が悲しい情景と勝手に解釈していましたが、遊子とは一時的滞在者島崎藤村本人という解釈が正しそうです。不本意な生活から抜け出したくても難しい悲哀は古今東西同じなのですが。読み込みが浅くて大変失礼しました。ありがとうございます。

  • Nakay702
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回答No.4

お礼コメントをありがとうございました。お尋ねの原文をPCの(100以上ある)どの保存ファイルに入れたか分からなくなってしまったのです。てっきり社会・歴史系のファイルとばかり思っていたのでその部類ばかり探しましたが見つからず、しばらくほったらかしていました。さきほど、ふと思って開いたファイルにありました!何と「国語学」のファイルに入っていました! >甲斐の国も信濃の国も山がちで長野盆地は平坦な穀倉地帯、武田軍には魅力的な土地ですよね。ただし上越に近くて、毎秋収穫を上杉軍に横取りされそうな…。遠い甲府からはるばる善光寺平へ何度も遠征、エルサレムへの十字軍との共通点を感じました。相違点もありますが、古今東西、聖地を奪回できれば領民の支持は瀑上がりなので…。武田信玄公は、仏像を持ち帰って甲斐善光寺を建立された位に信仰心の篤い武将ですよね。 ⇒そんなことがあったんですか。知りませんでした。教養豊かなテーマから、落ち込む話で恐縮ですが、中学生の頃、国道をチャリンコで走っていたら頭にコツンと当たったので見上げたらリンゴでした。それを引き千切って食べちゃいました。うまかったぁ! 暗唱したばかりの、県人島崎藤村の美しい詩「初戀」(若菜集)を思い出しました。 逸れてすみませんがが、引用します。  まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり  やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅の秋の實に 人こひ初めしはじめなり  わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき戀の盃を 君が情に酌みしかな  林檎畠の樹(こ)の下に おのづからなる細道は 誰が蹈みそめしかたみぞと 問ひたまうこそこひしけれ >人類の歴史から学ぶには、人物や出来事の共通点と相違点を整理するのが有効そうですね。地元の地理をありがとうございます。 上杉謙信公が塩を送った美談、「塩は供給するから日本海まで進出しないでね」隠れた協力のメッセージ?を感じました。甲信越地方も北陸地方も繁栄してほしいものです。 ⇒この件も、美談としてのみ覚えていましたが、なるほど、「塩は供給するから日本海まで進出しないでね」という含みがあったんですね。DK000さんの教養的史学に対し、不肖私はまたしても、藤村の「小諸なる古城のほとり」(落梅集)を引用したくなりました。  小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なす繁縷(はこべ)は萌えず 若草も藉(し)くによしなし しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る  あたたかき光はあれど 野に満つる香も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色 はづかに青し 旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ  暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む 実は、最近やたらと田舎の原風景、畑や野原、小川や木立や木洩れ日が、あわせて、その風景を彷彿させる上掲の詩などが懐かしく思い起こされるのです。上掲の2詩集とも初版本(といって復刻版)を持っていて、時々棚から取り出しては撫で回しています。『若菜集』の奥付にこうあります。「明治三十年発行 実価金弐拾五銭…」、今昔の感がありますね! 長々と失礼しました。(できれば、詩の余韻にひたってください!)

DK000
質問者

お礼

人々の日常生活への観察眼が深い詩ですね。曇りで洗濯物が乾かない?参拝?商売?急いで歩く旅人と北陸新幹線の乗客と、今も昔も忙しい毎日のようです。でも人々を慰めてくれる花の香りや原風景や濁り酒は用意されているのですね。ありがとうございます。

  • Nakay702
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回答No.2

>善光寺平が超重要だった理由は何ですか。 A. 善光寺平(長野盆地)が肥沃で稲作に適していたから。 B. 善光寺の門前町が繁栄していて徴税できたから。 C. 善光寺は重要な巡礼地でメッカやエルサレムのような聖地だったから。 D. その他。 ⇒ABCすべて、内容的には至極もっともな事実と存じますが、本件「川中島の戦い(が長引いた理由)」とは直接関係しませんね。ということは、私の回答はDです。 実は、私は15歳までが川中島の近くに住んでいました。それで何度か現地に出向いたことがあります。その都度感じたことは、山がちな長野県にあっては、実に、広く平らに開けた盆地である、ということでした。それもそのはず、この川中島こそ、西に飛騨山脈、東に浅間⋯軽井沢山系の囲まれていながら、千曲川と犀川の合流点に当る三角州だからです。そんなわけで、ここはあの関ヶ原よりも広いかもしれません。 山梨県側から迫る武田信玄勢としては、ここ川中島こそ最良の戦場と映ったに違いありません。ところが、その結果はどうだったか。 それは、頼山陽が詠ったように、 「鞭声粛粛 夜河を過る 曉に見る千兵の 大牙を擁するを…」でした。つまり、 「(上杉謙信勢は)鞭の音もたてないように静かに、夜に乗じて川を渡った。明け方、武田信玄方は、上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て、大いに驚いた…」わけですね。 以上の理由から私は、D. その他 を本命と考えました。

DK000
質問者

お礼

私の父は落合橋の近くの農家の出なので、回答者様のご近所だったかもですね。甲斐の国も信濃の国も山がちで長野盆地は平坦な穀倉地帯、武田軍には魅力的な土地ですよね。ただし上越に近くて、毎秋収穫を上杉軍に横取りされそうな…。 遠い甲府からはるばる善光寺平へ何度も遠征、エルサレムへの十字軍との共通点を感じました。相違点もありますが、古今東西、聖地を奪回できれば領民の支持は瀑上がりなので…。武田信玄公は、仏像を持ち帰って甲斐善光寺を建立された位に信仰心の篤い武将ですよね。後に返却されたのでわだかまりは解消され、信仰は目に見えない上位者が対象ではあるものの、平和で何よりです。 人類の歴史から学ぶには、人物や出来事の共通点と相違点を整理するのが有効そうですね。地元の地理をありがとうございます。 上杉謙信公が塩を送った美談、「塩は供給するから日本海まで進出しないでね」隠れた協力のメッセージ?を感じました。甲信越地方も北陸地方も繁栄してほしいものです。

  • maskoto
  • ベストアンサー率53% (538/1007)
回答No.1

上杉側からの見方 この地は上杉の本拠である春日山城に非常に近いため、ここを武田に抑えられると 喉元に刃を突きつけられた格好になり 防衛上厳しくなる 武田側からの見方 越後から北信濃へ進軍するとき この地がその玄関口となるので 信濃の支配を確実にしたい武田は 玄関の戸締まりをしっかりしたい このようなことかなと思います

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