当時の横浜はこんな感じでしょうか。
道路は舗装されていないところが多々あり、雨が降ると大きな水溜りができます。小学生はみんなゴムの長靴を履いて水溜りをバシャバシャ越えて学校へ行きました。
走っている車はダサイ国産車が大部分、時々カッコいい外車(フォードかクライスラー)を見かける。外車は平べったくて大きい。デコボコ道をユッサユッサと揺れながら走っていったのを思い出します。
家は大きな道路に面していましたが、道路を隔てた反対がわには田んぼと豚小屋(さすがに当時でも珍しかった)。小学校へ行く途中にも、裏道に入れば田んぼがたくさんありました。
テレビはカラーテレビの普及期だったため、要らなくなった白黒テレビがよく空地に捨てられていました。中の真空管を抜いて地面に叩きつけると「ボンッ」と割れる。ブラウン管は大爆発するといわれていたので、怖くて石をぶつける勇気が出ませんでした。
爆発といえば、爆竹と2B。爆竹は今でも売られていますが、2Bは見かけませんね。直径3~4ミリ、長さ5センチくらいの筒状で、頭にマッチのような点火薬が着いていました。ここをマッチの箱かコンクリートの表面で擦ると数秒後に爆発しました。かんしゃく球は5~6個入りの袋が10円だったような。これは地面に叩きつけるだけで破裂します。道路に撒いて自動車に踏ませ、パンクと勘違いするのを期待しましたが、止った車は無かったですね。
遊びは野球。当時の横浜ではサッカーをしている子供は見かけませんでした。当時は造成中の宅地や小学生の草野球チーム(名前も無い)がたくさんあったので、日曜日に空地へ行けば試合の相手には事欠きません。ユニフォームを持っている子もいましたが、デザインやマークを揃えるわけではなく、ただ、好きな選手の背番号を付けて喜んでいました。ボールは軟球。普通はA球ですが、一回り大きくて軟らかいL球や少し小さくて硬いS球もありました。空地のまわりを探せば、必ずいくつか拾えたものです。
のどが渇くと近くの家に行き、「おばさ~ん、水のませて」と頼んで外の水道の水を飲ませてもらいました。
横浜にも少年野球があったらしい。少年野球にはチーム名があり、コーチがいてユニフォームや用具を揃え、すごく上手いらしいという噂でしたが、草野球の空地に姿を現すことはなく、別世界の存在でしたね。
小学生当時流行った珍しい遊びに、牛乳ビンの紙フタ(ハーポンと言いました)か一升瓶のフタ(酒ブタと言いました)を使ったものがあります。ゲーム名もハーポン又は酒ブタです。数人が同数のフタを出し合い、フタの端を爪で弾いて2枚を裏返しにし、その2枚に片手の指がとどけば全部Getです。3枚以上が裏返ったら2枚を残して表にもどさなければなりません。
どこから入手したのか未使用のハーポンを持ってくる子がいましたが、これは裏返すのが非常に難しいこともあり、なかなか手に入らないレアものでした。
子供の飲物はプラッシーというオレンジジュース。お米屋さんがお届けします、というやつです。カルピスは贅沢。カルピスの類似品に不二家のハイカップとメーカー不詳のコーラスというのがありました。いずれも蓋は、ビールビンのような王冠でした。
おばあちゃんが遊びに来ると不二家のシュークリームかケーキを持ってきてくれました。当時の安いケーキはバタークリームを使用していたのでたくさん食べると気持が悪くなりましたが、さすがに不二家は当時から生クリームだったので大変美味。でも、子供だったのでケーキよりも保冷剤のドライアイスを水に入れて白い煙を噴かせるほうが楽しかった。
当時のお菓子メーカーで最近耳にしないのは、カバヤとコビト。カバヤは栃木県で生残っているらしいけど・・・ コビトの安いアイスクリームは1個10円で買えました。
服は、母親の手製というのが結構ありました。主婦の雑誌の付録の定番は洋服の型紙、型紙と足踏みミシンで服を作ってしまう母の腕前に感心したものです。セーターは全部手製、手動の編み機でザーッ、ザーッ、と編んでいました。小さくなったセーターをほどいて別のセーターに編みなおしたこともありますが、これをほどくのが面白い。毛糸を引張ると端からどんどんほどけてセーターが小さくなっていきます。これだけは進んで手伝ったものです。
家は商店だったのでレジがありました。数字つきのレバーを押し下げてハンドルを引けばレシートに値段が印字されます。レジに計算機能はないので、計算はソロバンでした。その後、新しい物好きの父が卓上計算機を買ってきました。厚めの弁当箱くらいの大きさで標示部は赤い電光管、値段は7万円だった、と聞いています。「答え一発、カシオミニ」が発売されるずっと前のことでした。