bananasand の回答履歴

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  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • ヒエラルキーは、害か

    ひとと社会と戦争が嫌いな無職の仁科です。 先日はとんずらこいてしまいました。だから削除されたのでしょうか。 忙しいと、疲れてしまい、私は自棄になってしまうのかもしれませんね。 今回こそは冷静さを欠くまいと思います。焦らずゆっくり、冷静に、だらだらと書きたいと思います。 で、今回はヒエラルキーについてのみ質問します。 ヒエラルキーについてどう思いますか。みたいな。 私はヒエラルキーが戦争の原因であり方法であり目的だと思うのですが。 安易にそう思うのですが、 そう思うと、ヒエラルキーって悪いよ、害だよ、と言いたくてたまらなくなるのですが、 けれども誰も話し相手がいませんから、こんなところで話したいのですが、 ヒエラルキーは、かなり悪いものじゃないですか。 なくせば、ヒエラルキーなくせば、戦争も、そろそろ、なくなるのではないですか。 ヒエラルキーなんか、人なんかが人なんかと、生きることにおいても、ヒエラルキーなんか、ないほうが、少しは、楽になるのではないですか。 とか。 これはあれです、ブリッジローンさんの考えにも近いかもしれません、 し、梅原猛さんとか、あと、むのたけじさんってひとも、そんな考えでした。たぶん。 なんでしたか、ここ一万年くらい、人類に刺さっているトゲは、ヒエラルキーなのだと、か。 それ、抜けば、人類の新たな夜明け、っぽくないですか。

    • noname#82450
    • 回答数31
  • 死んだらどうなると思いますか?

    死んだらどうなると思いますか?最近そのことを考えるといてもたってもいられなくなります・・・。

  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • オークションでの個人情報悪用

    オークションにて、前に取引した人が、自分で落札したもの(時計)が落札したあと欲しくなくなったとの理由で、私の個人情報(住所、電話番号、名前)を悪用し、私になりすまして取引を進めていました。 荷物は代引きで私あてに発送されてきました。私がいなかったので、料金は家族が払いました。 落札したものがいらなくなったからとの理由で以前取引した私の個人情報を持ち出しなりすまし、取引を済ませようとしたその人は、反省の色がありません。 このように個人情報を悪用した人間に対する罰則などはないのでしょうか?

    • noname#79197
    • 回答数4
  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

     ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

    • noname#80116
    • 回答数36
  • 本質の意味についてご教示お願いいたします。

     本質という言葉の意味がいまいちよくわかりません。 辞書を引くと以下のような解説が出てきました。  (1)あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質    (2)変化常ない現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的  な   もの。  (3)実在に対する語として、なんらかのものが現に存在しているとい  う事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によって   いわれているもの。     あまりにも抽象的すぎてわかりません。    (1)~(3)までの本質の意味を具体例を交えてご教示いただけまし   たら幸いです。     又、僕なりに(1)と(3)の意味を考えて、具体例を交えて書くの    で、    それが正しいかそうでないかの判断もお願いします。     (1)は、ある物事の定義されている性質の事でしょうか?哲学    の本質を言うならば、「前提や問題点の明確化、概念の厳密     化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な    主題について論じて研究を進める学問」がその本質なのでしょ    うか?(WIKIPEDIAを元にして本質を定義しました。     (3)は、例えば1+1はいくつか?という問題があったとした    らその問題の本質は「足し算」。    

  • 誰がそのボタンを押すべきか

    死刑執行のボタンは誰が押すべきでしょうか。

  • 「常識」とは「陳腐」だろうか?

    常識と言うのが、コモンセンス大衆擁護的な性格を持つとすれば、それは「陳腐」とも表裏一体であると思われます。 皆さんはどうお感じでしょうか? 私は「常識」の反意語がアーティスティックだと思っています。つまり、創造性、懐疑性その他もろもろの精神の働き。

  • 連帯保証人の契約、解約について質問

    現在2008/11月より、BARをオープンしたのですが、連帯保証人として父親名義で、自分が契約者としスタートしました。今月に入り家族上の問題があり、父親に勘当され店の保証人も取消しするといわれています。 このままでは、解約されてしまうと今月2月いっぱいで店を締めなければいけなくなります。現在、自分はまだ22歳で経済的にも保証人を解約されてしまうと大変困るのですが、連帯保証人の契約として3年契約となっています。そもそも3年契約を果たさず途中解約が可能なのか、又、お店は今後も続けていきたいのですが、そのためには、万一、父親の保証人解約が認められた場合、解約の手続きにかkる期間はどれくらいなのか?今後経営を続けるための手段としてどのような方法があるのか?を詳しく教えていただけますか? よろしくお願いします。

  • 昔は暴力に寛容だったのか

    バーでバイトをしている18歳です。 カウンターに座るおじさんの客って酔うと「学生時代はよく喧嘩したわぁ」と言います。 しかし、暴力って犯罪ですよね。 昔は、暴行罪や傷害罪がなかったのでしょうか? 又は、警察が大目にみてくれることが多かったんでしょうか? たぶん、1960~1980年くらいの話だと思います。

  • 誰でも押せる認印は何の意味があるのでしょうか?

    日本では様々に書類に印鑑を押す習慣があります。 実印なら意味がわかるのですが、、何でもいいから押して!と言われる場合がありますが、あれは何のために必要なのでしょうか! 今日も、確定申告しに行ったところ、書類に押印がもれており、何でもいいから押してくださいと言われました。近くに印鑑屋さんがあることも教えてくれました。

    • apples
    • 回答数4
  • 連帯保証人の時効?について教えてください

    宜しく御願いします。 亡くなった父が、連帯保証人になっていました。 (借金の額は300万円くらい) 父のほかにも連帯保証人がいるとは思いますが、 最近になって信用保証協会の人がまたやってきて、 お金を払うように言って来ます。 詳しいことがさっぱり分からないのですが、 父は時々気まぐれのようにほんのわずかな額を 払っていたようです。 最近来た信用保証協会の人が、手紙と振込用紙を もってきました。 「○月○日までにお出向きください。前述の期日を 過ぎても、ご来所またはご連絡の無い場合には、 不本意ながら法的手続きにより回収することが・・・」 という内容で、下の部分に借金の額が書いてありました。 そこに、代位弁済というのがあるのですが、これは なんでしょうか? 日付は昭和62年となっています。 結構昔のものだと思うのですが、時効?には ならないのでしょうか? 父が時々返していたので、やはり最後まで返さなくては いけないでしょうか? 父が亡くなってすぐにきた協会の回収者は、 母に払わなくてもいいですよと言ったそうです。 その後、現在の担当者に変わり、土地を抵当に入れると 言われたり、元金だけでもいいといわれたりしたようです。 この借金が何時のものか、他の連帯保証人がどうしてるのか、 父が何時ごろまで借金を返していたのか、分からないことが 多いのですが、それを知る方法や、時効?かどうか 調べる方法、それを申し立てる方法など、分かる方が いらっしゃいましたら、教えていただきたいです。 宜しく御願いします。

  • 制限行為能力者が無権利者であった場合即時取得は?

    未成年者が他人所有の動産を誰かに譲渡したのちに、制限行為能力者であることを理由に売買契約を取り消したとします。 この場合、即時取得の適用はあるのでしょうか?