09000000000 の回答履歴
- ネズミの尿ですか
キッチンの扉と近くにおいてしまっていたメモ帳にに何かの尿の跡が付いていました。 ネズミのものでしょうか。それともゴキブリでしょうか。それともただの油汚れでしょうか。(五臓を参照ください)どちらかである場合、尿の跡をきれいにするにはどうしたらよいでしょうか。(扉の上から下に掛けて少し尿がありました) また、キッチン周辺のシンクやコンロなどはどうすればいいでしょうか。いつもはウェットティッシュでさっと拭くだけなのですが、床を移動した可能性もありますよね。 キッチンマットや汚れが付いていたものの消毒など何もしないまま周辺を歩いても平気ですか。足裏にネズミの菌が付くとかありますか。 周辺にあったものすべてを殺菌用のウェットティッシュで拭くなどするべきでしょうか。 また、食器類は全て煮沸するべきですか。煮沸の方法に詳しくありませんので教えてください。それとも熱湯をかけるだけでいいのでしょうか。
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- yuki323
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- 「ばっこん」ってなんでしょう?
「ぎったんばっこん」とか「ずっこんばっこん」とかの、 「ばっこん」ってなんでしょう? ちなみに、こんなのは見つけました。 http://q.hatena.ne.jp/1153317359 「ぎったんばっこん」は「板の上がる音と下がった板が地を打つ音」とあります。 おそらく、「ぎっ」が板の軋む音であり、「ばっ」は勢いよく板が上下する際の(風の?)音、 「こん」が板が地面に当たる音、なのだと思われます。
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- noname#204421
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- 精神病は
精神病は一生涯治りませんよね!?そんなんだったら自殺したほうがましですよね!?安楽死したいです。治っても再発率50%とかですから
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- uekikousuke777
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- アルバイトの面接のための履歴書について
新しくアルバイトを始めるために、面接の約束をして、履歴書を昨日書きました。 自己PR欄に、 「人に物事を教えることが得意です。 新しいアイディアを生み出すことが得意です。」 と書きました。 今更ですが、少し不安になりました。 盛ってたり、自慢しすぎだろと思われないでしょうか? 皆さんが面接官の立場からこの自己PRをどう思いますか? どういうふうに書けば、無難とか分からずにこうなってしまいました。 お願いします。
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- m_shins0925
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- 私は「読書教」信者です。
表向きはキリスト教(カトリック)信者ですが、仏教や神道はじめほかの宗教の存在も認めています。 しかし、「読書教」の方は、もっと強固な信仰(?)であり、読書を重んじない人間の存在については否定的であり、はっきりいって、馬鹿にしています。 こうした偏屈な「読書教」信者からは、どうやって脱却すればいいでしょうか? そして、読書をしない、重んじない人間とは、どのように接触していけばよいでしょうか?
- 神は信じるものではない、神は感じるものである
万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申された。 「ここにいるあなたがた皆に言っておきます。 あなたがたは神を信じようともがいても無駄である。 神を信じようともがいたところで決して神を信じることは出来ないのである。 何故なら神は信じるものではなく、感じるものだからである。 だから神を感じることが出来ないのであれば、なおのこと神を信じることなど出来るはずはない。 あなたがたは神を信じようともがいている限り、神が何かまるで分かっていないのである。 神が何かも分からずその神を信じようとしている。 何かも分からぬ神を信じることが出来るわけがない。 あなたがたは神が何かまるで分かっていないのである。 それが故にあなたがたは神を信じようなどと愚かなことを考えるのである。 神が何であるかまず知りなさい。 ここにいるあなたがた皆にはっきりと言っておきます。 宇宙の法則が神である。 そして万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。 そうすれば神を信じようともがく必要はなく、神を感じることができるようになるのである。」 アルケーの神はこのように申された。 それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。
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- hitonomichi33
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- 全てうまくいきません…
私は20代後半の女です。 最近、何事にもうまくいかず、たまらなくなり解決策の糸口をお聞きしたく、質問致します。 いま、私は男性とお付き合いをしています。ですが、不倫です。年の差は親子のようにあります。その男性とは、以前からの会社の上司でした。書いていてよくある話だな、と自分でもつくづく思います。 その上司は独立し、私をその会社に呼んでいただきました。そこで、不倫関係になりました。彼は今、離婚調停中です。 そして、その会社で不倫関係がバレてしまい、ともに元の会社の人達にもバレて業界中の噂になりました。私達は会社を辞めることになり、彼はまた独立し企業する、とは言ったものの、もうすでに三ヶ月が立ちましたが、一向に企業する気配がありません。 私は職を失った上に、仕事仲間も失い、貯金もつき、親や友達にも嘘をたくさんつき、ボロボロになりました。ふとした時に涙がでてきたりします。本音を言える人は誰もいません。 全て自分が悪いと思います。今までしてきたことの報いだと思います。 頭ではわかっているのですが…自分を変えたい…とは思うのですが、なかなか心の気持ちの整理がつかなくて悩んでいます。一歩が踏み出せないのです… 少しでも感じることがあれば、解凍していただけたら幸いです。
- 神様に最も愛された人種ですか?
神戸女学院は。 米国のキリスト教団から105億円の出資を受けて学者建設。「日本一美しい学舎」と言われ、山の上にお城のようなキャンパス。中学から大学並みの設備でなんと大講堂からソールチャペル、シェークスピアガーデンに至るまで。「日本に最高の女子教育を」という理念のもと設立時から募金の元女学院の経営にたづさわってきている。関西一の「金満家庭」の良識あるお嬢様の学校と言われる。中等部から6年間一貫教育で高等部からの入学は出来ない。世界中の神様の助けを求め、神様を信じる友人達の「希望」として教育される。偏差値も関西トップレベルかつては女子高ダントツの偏差値を誇り「女子の灘中」と言われていた。英語教育は最先端。あらゆる英語スピーチコンテストでは上位を必ず独占していく。ついこの間も輸入米の税金の事について世界大会出場していた。様々なボランティア活動を行い西宮市の市民文化賞を受賞、そしてついに国の「重要文化財」に指定される。 国が「日本の宝」と認めた。女学院で第二次世界大戦中からずっと続けられてきた「平和の祈り」を続けてきた誇り高き学校。関西屈指の偏差値を誇りながらも学校側は「大学受験の為の学校ではない」と主張。その為大学受験の実績は一切公表されない。神戸女学院の正義のバッジをつけ登校している。卒業生は国際社会で広く活躍。官界、医学界、法曹界、学術界等に多数人材を輩出。中には大学院で助教授をし国際法学会などに所属し軍縮や化学兵器の論文など有名な先生もいる。 神様に愛された人種・・・と言ってよいですか?
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- sousoumoutoku
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- 春と秋の叙勲について
春と秋に勲章が贈られます 毎回何千人と選ばれますが このペースだと日本人全員が貰えるぐらいになりませんか? そのうち私にも?(笑)
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- あずき なな
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- 天国に入る人の数は、14万4千人と書かれているそう
時々、この哲学カテを興味深く覗かさせ頂いております。ところで、 <こころは 果たして存在するか> という質問がありました。その回答に <最初に天国に入る人の数は14万4千人と書かれてます> という説明がありました。狭き門だな、という感慨です。 キリスト教にも不案内ですので、どこに書いてあるのか、教えて下さい。
- 天国に入る人の数は、14万4千人と書かれているそう
時々、この哲学カテを興味深く覗かさせ頂いております。ところで、 <こころは 果たして存在するか> という質問がありました。その回答に <最初に天国に入る人の数は14万4千人と書かれてます> という説明がありました。狭き門だな、という感慨です。 キリスト教にも不案内ですので、どこに書いてあるのか、教えて下さい。
- こころは 果たして存在するか
ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか? コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか? ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり: いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ) をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる) ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい) かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲) というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが: ○ こころは あるか? ○ 《こころ》とは 何ぞや? お考えをどうぞ。
- こころは 果たして存在するか
ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか? コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか? ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり: いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ) をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる) ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい) かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲) というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが: ○ こころは あるか? ○ 《こころ》とは 何ぞや? お考えをどうぞ。
- こころは 果たして存在するか
ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか? コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか? ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり: いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ) をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる) ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい) かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲) というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが: ○ こころは あるか? ○ 《こころ》とは 何ぞや? お考えをどうぞ。
- こころは 果たして存在するか
ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか? コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか? ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり: いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ) をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる) ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい) かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲) というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが: ○ こころは あるか? ○ 《こころ》とは 何ぞや? お考えをどうぞ。
- こころは 果たして存在するか
ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか? コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか? ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり: いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ) をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる) ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい) かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲) というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが: ○ こころは あるか? ○ 《こころ》とは 何ぞや? お考えをどうぞ。
- こころは 果たして存在するか
ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか? コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか? ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり: いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ) をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる) ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい) かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲) というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが: ○ こころは あるか? ○ 《こころ》とは 何ぞや? お考えをどうぞ。
- 婚活相手としてアリかナシか。判断に迷います。
ネット(omiai)で知り合った男性からご飯に誘われ10月に初デートしました。 デート後、婚活相手としてアリなのか判断できず、どうするか悩んでます。 当日はこんな感じでした。 1.時間・場所指定してきたのに、約束の1時間前に「1時間半後にして欲しい。ごめん。」とメールが来た。 (私は既にバスで現地へ向かう最中でしたが彼の希望に応じました) 2.対面後、遅刻の理由説明や詫びの言葉はなし 3.その後バルでご飯食べて割り勘(1人1100円)。その後は彼の希望でCD屋でDVDチェック。 4.カフェで休憩しようと言われ、連れて行かれたのは駅ビルにあるセルフサービスで、安くて古臭いフードコートみたいなカフェ。 満員で分煙なし、大勢の年配層や中高生がガヤガヤ喋り続け落ちつかない雰囲気でした。 ジュースをご馳走になっておきながら言うのもなんですが、適当に済ませられたような気分がしてガッカリしました。 都内でお洒落なカフェが山ほどあるし、スタバも数軒あるエリアなのに…。 割り勘、遅刻は構いませんが、最後のカフェが残念でした。 残念な所もありましたが、実は彼、仕事に対してとにかく真面目。仕事は激務ですが弱音を吐かない姿が男らしくてかっこいいなと思います。MARCH以上の大学を出てまだ28歳だけど年収も高額で安定しています。 ただ、男3兄弟で中学から男子校(進学校)、大学は理学部、仕事は男だらけのエンジニアなので、女扱いは不慣れな感じも…。 合コン好きで男にうるさい友人は「自分から誘っておきながら遅刻?なのにご飯は割り勘?ありえない!プライド高くて謝りたくないタイプじゃない?」 「最後のカフェなんてやる気ないの見え見え。婚活目的ならもっと頑張って欲しい!」とシビアな意見。 その一方、別の友人は「女慣れしてないからデートコースをミスしたんだろうね。ハイスペックなのに遅刻したり、女慣れしてないなんて意外性あって完璧すぎない所がいい!頑張ってメール続けたら?こんな真面目で弱音吐かない男、なかなかいないよ。多少は相手のダメな所を許す心も必要だよ!」と。 相手を許す大らかな心も必要と思いますが、どこまで許していいんだろう?都合のいい女になりたくないしと思ったり。 今までダメ男に引っかかってばかりだったので、こんな真面目な人を諦めるのはもったいない!と思ったり。 もう何が正しいのか判断できません!! デート後は私から特に誘わず、お礼とまたよろしくお願いします!とメールを送りました。 彼は別れ際と同様、「今日はありがとう。また時間あったらランチしよ。」と。 元々真面目で口数少ない人なので普段のメールと差は感じませんでした。 私は「また話そう!さっき話した◯◯公園気になるね!また時間ある時に行こう」と送りましたが返事なし。 脈なしですが、趣味は合うし頑張って脈ありへ持って行きたいという気持ちがまだあります…。 しばらく時間置いて、この前行ってた◯◯公園行きたいんだーとメールしてじっくり時間をかけて判断するのが良いのか? 余計な事はせず、脈なしとさっさと諦めるべきか。 ネットで出会った人と会ってデートしたのは初めてでよくわかりません。 婚活していてもなかなかいい人と巡り合えないので、せっかくのご縁を大切にしたいです。 長文で申し訳ありません。 皆さんはどう思いますか?いろんな意見をお聞かせください。
- ベストアンサー
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- yuko231980yf
- 回答数7