a_hona の回答履歴
- どうやったら偉くなれる?
意志が因果の必然に縛られているなら、道徳の命令は無意味であり、 行為の責任も問うことが出来なくなる。(非決定論) カントは因果の系列を、自分から始める自発性な現象の影響での能力を認め、 これを「先見的自由」と名づけた。 因果関係が支配する世界とは別な高次の実在(英知:感覚的に与えられていないものを 主観的に表象しうる能力)に自由を求めようとしている。 ※偉い人とはどんな人かと思案しております。 辞書で「偉い」を引くと (1)優れている、尊敬される立場にある (2)普通あるべき状態より程度が甚だしい、ひどい (3)思いがけない、とんでもない (4)苦しい、痛い、辛い 人気者だったり、幸運の持ち主であったり、 何か色んな意味で立派なものを持ってる人なのではなく、 苦境、逆境に強い人。 またそれを誰からも同情もされないのに平然としてる(ある意味尊敬される)人となりますか? 「自発的な自虐ネタの多い人が偉い人」と哲学的に定義して宜しいのか助言をお願いします。
- 悩み続けています
私は小学生の頃から抱えている問題があります。 それは過ごすなかで次々に生まれる疑問に自身の知識と解決するために必要な時間が足りていないということです。 時間があれば解決できるという内容だともあまり思えないのですが、私は考えたいのです。 しかし、先ず自分を生かす必要があり、その為には働いてお金を稼がなくてはなりません。 生きていれば人間関係によって割かれる時間もあります。 小学生の頃など、まだ幼く学校に通うだけで働く必要のない立場ではありましたが人間関係で悩みました。 冗談を言い合い他愛ない話をする相手がそれなりには居ましたが、私が欲しているのは疑問の答えでそれが得られない為に虚無感に襲われていました。 現在の私にもそのような相手が居ますが、やはり満たされません。 解決されない疑問のせいで苦痛を感じない日はありません。 理解され難い希望かとは思いますが、私は疑問が消えないのなら考える時間が欲しいです。 つまり、働くということ、人と接するということをやめたいのです。 全てを絶てば疑問は今のように次々に生まれないと思うのです。 そうすれば今自分が得ている情報から生まれる疑問についてのみ考えることが出来ます。 馬鹿げてると言う人がきっと居るでしょう。 ですが、本当に苦しいのです。 問題の疑問というのは、一部を挙げると ・何故人は言葉を意味(何かを表すもの)として認識出来るのか。 ・現実とは何か。 ・皆がいう「赤」は全て同じもの(色)なのか。 ・善悪を説いたのは誰か、それにならう者はどういった考えでそれを受け入れているのか。 ・今見ているものは真か。 ・恥とは何か、どのような意義があるのか。 ・共感って?そもそも感情とは何か。 ・美味、悪臭、それらは何なのか。 このようなものです。 死を考えることもありましたが、痛みが怖くて出来ません。 ここまで書いたものの、私は働かなくてはいけないのも人間関係を絶つことが出来ないのも分かっております。 吐き出したかったのです。 こういう疑問を抱く人は大勢居るかもしれません。 ただそれを重大な問題と捉え、苦痛を感じ悩む人は多数派ではないのだろうと思っております。 この頃は自分に対する怒りや焦りのようなものを感じます。 何故ここまで気になるのだろう。 気持ちを楽にしたいです。 ですが、放りたくても放れません。 …助言をいただけたら幸いです。 文章におかしな点がありましたらどうかお許し下さい。 自分でも上手くまとめきれないのです。
- 鯨や海豚を食べなくても何も問題ないのでは?
日本は昔から食べてきたし 食べない国の人が 勝手に反対しているだけだと考えていましたが 食べる国のほうが少ないのと 食べることによって日本の印象が悪くなるのだから。 以下のような記事を読んでそう思いました。 知れば知るほど恐ろしく、近寄れなくなる日本人―中国ネット <極端に抑圧された生活環境は日本人を残忍にする。太地湾では毎年大規模なイルカ漁が行われる。血で真っ赤に染まった海が、日本人の残忍さを訴えている。 > 一人でも 記事を読んだ人が 日本人はこのようなことを 容認していると思われるとしたら 気分よくありません。
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- 国際問題
- siawase2013
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- 流行(時代)に乗るメリット・デメリット
流行(時代)に乗るメリット・デメリットはなんでしょうか。 私はポケモンがヒットし出した頃にポケモンを遊びました。 流行っているときに遊ぶと話が合いやすいのが良いところでしょうか? 昔ヒットしたが今は少数の愛好者だけがいる物はブログに書いてもレビューに書いてもあまり反応が無さそうですね。 逆に、時代遅れであっても自分の道を行く良さとはなんでしょうか。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#194651
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- 原発の功罪 循環リサイクルエネルギーがいい?
そもそも生命や人間を存在させるエネルギーは太陽からの核融合時に出るエネルギーによる そのエネルギーの一部を植物が炭素固定してCHINOPS系と呼ばれる生命体の要素を作ると同時に ATPに生物の活動エネルギーを蓄える 勿論糖や脂肪としても蓄える。 ところで そもそもエネルギーの在り方として安定するのは循環である 原子も外殻電子の電子雲によって体積を持ち物質として安定する 電子雲は電子の循環であると考えられる これが生物でも体液の循環 自然でも水などの循環によって保たれている 循環は安定的であり存続するアイデンティティをもたらす エネルギー問題でもそうで 水力は水の循環 風量は風の循環 太陽光発電は太陽光のリサイクルで エネルギーを取り出すものです だが火力発電や原子力発電は違う。自然の循環ではなく危険なエネルギーの取り出し方をする 太陽が核エネルギーを送ってくるのは自然界に浸透していて せいぜい微弱な紫外線をもたらすだけだが 原発がひとつ間違えれば人間にとって如何に危険なものであるかは今回の福島の事故で思い知ったはず それに循環もしなければリサイクルもできない破壊的なエネルギーであることを見せ付けられる。 全てのものに存在性はあるが その存在性を失い破壊性となるものがある それが原発である 火力発電も爆発すれば破壊的だが原発はそれどころではない 生命体に危険な放射能や物質が死ぬほど出てくるのである。けして安定した存在では在り得ない 放射能が半減するのに二万年以上かかったり何千年もかかったりする手に負えない代物である 将来この廃棄物が再利用できるかも知れないと思っているだろうが 出来なかったらどうするのか 人類の存在性においても酷く乱暴で危険なエネルギーの取り出し方である リサイクルと循環と言う安定性のない発電方式でこれだけ危険なら テロを食らっても酷いことになる アメリカの原発は大丈夫か? 存在を追求し存在性を追求するなら循環型リサイクルエネルギーを開発すべきで 核エネルギーの研究はまだまだ実用段階ではなかったのだ と思います。 エネルギーの供給より人間の命の方が大切である。 一度壊れて殺人的な汚染を始めたら 半減期が来る前に人間が滅んでしまうかもしれない 人類の長い未来の存続のためにも 原発は止めたほうがいい。狙われる危険性もある。 人間の存在を考えても 原発の存在性はそれ以上の破壊性を含む 今は集団的自衛権などといっているが 原発を攻撃されたら と考えると尚更である。 私は原発問題をこの様な人間の存在を守る存在性という視点から見るがどうだろうか? 意見のある方は是非コメント頂きたい。
- 哲学で人間や社会に貢献できるでしょうか?
私が高3の頃 大学を受験するのに「哲学科に行きたい」と言ったら 父からあっさり却下さrました。お金を出すのは父ですからやむを得ず理学部を受けました。 しかし哲学への思いは捨てきれず ついに大学を辞めて家を出ました 私は大学の哲学という勉強ができなくても 自分で考え抜けば結論は出ると思ったのです その結論は存在性思想で検索して頂ければあるのですが 思ったほど いや思いもしないほど広がりませんでした 僕は現代社会で哲学が果たす役割は大きいと見ているのですが 皆さんはどう思われますか? 情報量ばかり多くて それを使う方針がない すぐ武力に頼ってしまう。 マザーテレサやガンジーのような人物もいないような気がします 在来の哲学も含めて哲学の果たす役割は何でしょう?何が出来るでしょうか?
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 超越する者と破壊する者
超越こそが哲学。 現在の自身の位置では答えを見出すことのできない命題に、 どれだけあがいても答えを出すことはできない。 人間を超越し、高次元に立ったときにはじめてかつての命題に 対する回答をいともたやすく導くことができる。 人間のままでは自分の抱える問題に立ち向かうことができない。 人間を超え、人間が神や悪魔と呼ぶ存在に近いもの 超越する者となることによって、 その者は人間と呼ばれていた時に抱えていた問題に対していともたやすく結論を 出すことができる。 それこそが哲学の真価。 人間を超えるには、精神が肉体を超えること。 自ら苦難と苦痛と絶望に身を置き、限界まで脳と肉体を酷使し、 それを乗り超える修練を積むことでしか肉体の楔を断ち切ることはできない。 従って怠惰こそが哲学の宿敵であり、全ての禍の元凶である。 超越する者になるためには、己を破壊する者の存在が不可欠である。 破壊する者によって初めて人間は危機感を覚え心の底からの昇華願望を持つ。 怠惰を捨てて、神や悪魔に近い存在へと生まれかわることができる。 そう思いませんか?
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》
これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか? ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~ 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)) http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか? ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~ △ 12章 45節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 △ 5章 19節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html そこで、イエスは彼らに言われた。 「はっきり言っておく。 子は、父のなさることを見なければ、 自分からは何事もできない。 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 △ 10章 30節 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html わたしと父とは一つである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。 ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ 聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス すなわち △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか? その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか? ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1074 師《ゴータマ)が答えた、 「ウバシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は 滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、 (生存するものとしては)数えられないのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- この世は私が創っている幻想だ
この世は私が創っている幻想。 私の創るこの世と他人の創るこの世は全く違うものだ。 他人のこの世と重なる所など一つもない。 だから相手から見える私は本当の私じゃない。 誰も本当の私を知る事ことはできない。 本当の私を知ってるのは私の意識だけだ。 なので人との繋がりなど必要ない。 愛も友情もただの幻想にすぎない。 何故なら私に見えてる相手は本当の相手でなければ、相手に見える私も本当の私ではないのだから。 俺正論過ぎてヤバいw だってほらっ、誰も言い返せないだろ? なんなら論破出来る奴がいるか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#196602
- 回答数19
- 恋とは苦しいものですか?
彼女が出来ます 好きになればなるほど彼女の過去の男遍歴などが気になり苦しくなり楽しめなくなり別れてしまいます それをもう何度も色んな人と繰り返しています 今も彼女がいますが、過去違う男に抱かれていたことや楽しく一緒に時間を過ごしていたことを考えると辛くなります きっと自己中で自分のことしか考えていないのだと思います そうして自分を責めるとまた違った苦しさに捉われていきます 好きになればなるほど執着が増します 女性の過去にこだわらない人間のほうがうまくいくし幸せになることは分かっています 頭では分かっているのですがどうしても、心底からそう思い切ることが出来ません 皆さんは一体そのことについてはどうやって対処しているのでしょうか? またその原因はどこから来ていると思いますか? お願いします