a_hona の回答履歴

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  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 幸せの薬

    ある画期的な薬が開発されました。 その薬は飲むことで人に「幸福感」を与える薬です。 いわゆる麻薬のような禁断症状や依存性(身体、精神含む)はまったくありません。 薬に対する抵抗力がついて、薬が効かなくなるなんてこともありません。 効きすぎて迷惑な行動をとったりすることもありません。、 さらにコストもゼロに等しくとても安価に製造できます。タダ同然です。 その効果はすばらしく、悲しみや怒り、恐怖や憎悪などのネガティブな気持ちをも消し去り、 幸福感を与えてくれます。 この薬はすぐに世界中に認められ、広まっていきましたが、 そんな中ある国の政府が、この薬を国民の幸せのために利用することを考えました。 薬を無償で国民に配布し、不幸を感じたときに服用するように勧めたのです。 この国の国民は幸せになれるでしょうか。 またこの国は繁栄の道をたどれるでしょうか。

  • 若い頃の夢や理想は何処に行ってしまったのでしょう?

    若い頃の夢を今も追っている人は幸せかもしれませんね 大概の人は生活のため、仕事のため、病気や介護や雑事に追われて 夢や理想を見失ってるのではないでしょうか? 思い出してみて下さい。あなたの夢、理想はどんなものでしたか? もうその実現は不可能でしょうか それとも心がすっかり変わってしまいましたか? 直向きに探求してたこと 愛していたこと 悲しんでいた事 忘れてしまってはいませんか? このGWに思い出してみませんか。 どうかよろしくお願いします。

  • 《まじわり》をめぐる或る対話

     お茶が入りました。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~  【あ】 なぜ、人間はコミュニケーションを求めるのか、というような、そういう問い語りです。  【い】 ちょっと変な言葉遣いをします。  「人が言うということ」は、聞かれる者において「言われること」の背後に、忘れられて残っている。この実在的なもの――つまり、人間は決して「言いたいこと」が言えないという、この現実と気持ちとの乖離こそが、人間を言語に駆り立てる原動力になっているのではないか、という事です。これは理屈ですが。では、実践へ。  【う】 例えば、僕たちは過去に経験したちょっと忘れられないような思い出について、出来事の細部までを生々しく覚えていて、語って再現する事ができる。けれど、その語る「こと」のなかには時として、その記憶の風景に自分自身が映りこんでいるときがある。  そんな経験はないでしょうか。  【え】 その場にいた自分の視覚を通じて風景は記憶されているわけだから、自分の手足や衣服の一部が映像に混入することはあっても、自分の全身像や、少なくとも自分の顔、そして目が、その映像に映り込むことはあるはずがない。けれど、記憶のなかには、時として自分のベストショットや、ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。  そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。  【お】 もしそこに映っているのが自分だとしたら、その自分を見ているのは、いったい誰の視線であり、その記憶はいったい誰のものだったのか。あるとき自分の記憶を思い返してみて、このような事実に気付いてしまうと、間違いないはずの自分の記憶と、その記憶によって裏付けられた自分の正当性とのあいだに、乖離感、あるいは疎外感を、感じてしまうのではないだろうか。そして、信じていた自分の正当性は、いったいどのような言葉となって語られていたのだろうか。  【か】 このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。  【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。だからこそ、人は他者に語りかけるのではないか。だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。  僕には、そんなふうに思われます。    ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 【き】 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。   ☆ そうではなく むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。   (2) 【き】 だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。   ☆ だからこそ ひとは 何も言わずにも 分かり合える他者を持つことが出来るのではないか。たぶん 一人のみであるだろう。一人持てば その余韻として 多くのひとと分かり合えるようになるだろう。  (3) 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。     ☆ わが孤独は 何かによって埋められることを待っている欠落感を知覚した。それは それが 隣人であるのだろうか。言葉は届かない。どの隣人とかかわるのだろうか。けれども 千の切なさも わたしは 飲み込んで来た。万のうれいも 精神の胃袋に消化して来た。億の悲しみに わたしは 泣いた。けれども それらすべて 埋めてきたのではないか。損ないは すべて 覆われた。  (4) 【か】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。  それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ わたしは わたしの孤独の知覚するままに 孤独と孤独との関係において――それが 社会というものだ―― わたしの中で 自己表出が 言葉をさがし 言葉は 自己表現を求めて 文体をかたちづくる。   打ちにこたえる鐘のひびきにて。   【Q:すべてのひとを説得することができますか】   No.12のやり取りから。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4942224.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 互いに対立しているようです。  対立していますか?  どのようにですか?  孤独とは 何ですか?  不安とは どういうことですか?  対立していないと見たとき どのように止揚されていきますか?  どうでしょう。  コーヒーや紅茶もご用意できればいいのですが。・・・

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     について あらためて問います。第三セッションです。  まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。  今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース      (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は      ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。       人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。    階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • ワチカンや教会に いまもエクソシストがいる?

     のでしょうか?  かつて それとして聖職のひとつであったし その専任者がいたと言います。いまでもいるような いないような。  ▽ (ヰキぺ:エクソシスト) ~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88  カトリック教会は「イエス・キリストがエクソシスムをなされたのであり、教会は主からの権能と職務を受けている」と述べる。  ▽(ヰキぺ:カトリック教会のエクソシスム) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%A0  カトリック教会の厳密なエクソシスムは教会法に沿ってなされるもので、叙階された司祭が、司教の特別な認可を受け、医学的なケアの上、行うことができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  現代の医学では そういった《悪魔憑き》なる状態を それとして特定の症状とは認めていないとまでは分かりました。  ▽ (ヰキぺ:Exorcism) ~~~~~~~~~~~   http://en.wikipedia.org/wiki/Exorcism#Scientific_view  § 5 Scientific view  Demonic possession is not a valid psychiatric or medical diagnosis recognized by either the DSM-V or the ICD-10. ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  みなさん どうお考えになりますか?  というよりも わたしは ちらちらとそういった事柄を読んだりしましたが いつもどうでもいいやと見なして 放っておいてありました。いまも さほど知りたいとも思わないところもありますが ひととおり捉えておこうかと思うに到りました。  つまりあるいは 何か大きな問題点や知っておくとよいことなどなどがありましたら それらについても押さえておきたい。こう思ったわけです。  そういう情報とそしてみなさんのご見解とを 寄せていただけますか? あらかじめ感謝の意を表明したいと思います。(くわしいことは 何も知りません)。

  • なまり

    バドミントン部の時、数日休むとなまりを感じた覚えがあります。 ギターを弾いていた時数日休むとなまりを感じた覚えがあります。 例えば1+1の回答は普段勉強なんかしなくても解けますよね。 これはどういう事ですか? 完全に記憶した物はなまらないという事ですか? 芸術はどうですか?芸術のセンスがある。色のセンスがある。 センスという言葉がありますが、 センスもなまりますか?

  • 日本人の「考える力」は大丈夫?

    ときどき憂えてしまうのです。 日本人の「考える力」は大丈夫なのかと。 たとえばこんなのがありました。 「意地悪な回答がつくのは、質問が悪いからだ」 当たり前のことですが、そんなことはない。 (1)質問が悪いので意地悪な回答がつく (2)質問は別にふつうだが回答した人が意地悪だった。 (3)質問と回答、どちらにも問題があった。 最低でも上記の3つのパターンが考えられます。 なので、やはり個別の質問と回答を検討してみなければ、「質問が悪いからだ」と断定できないはず。 「意地悪な質問がつくのは質問が悪いことが多い」という場合でも 最低でも100個くらいの質問と回答を分析してデータをとらなければ、そんなことは言えないと思います。 テレビのニュースなどを聞いただけで詳しいことがわからないのに 特定の人を悪者にしたり 「嘘つき」「ねつ造」と言われても仕方ないようなことを言う人が大勢います。 しかも、言ってる本人はどうやら気が付いていないようす。 また自分の批判が自分のあやまった判断からくるものだったとわかっても あやまらない。 日本人の「考える力」は大丈夫でしょうか。(私自身もあぶないかも?) また、その原因と対策を教えてください。 なお、このサイトでは質問者にトラップを仕掛ける人がいます。 規約では禁止されえいないようですが、そういう行為はおやめください。

    • noname#194025
    • 回答数11
  • 貴方は 人間を 信じますか?

    今までの信仰の対象は 日本で言えば神仏等でしたが 最近神仏を信じない人も増えて来ましたよね 貴方は何を信じられますか?何を信じていますか? 貴方は 人間を 信じますか? 多分我々は多くの人間と運命を共にすると思います その上で人間は信じるに足る存在か? 人間といっても色々で ピンからキリまでありますが せめて数名でも信じる事が出来る人がいますか? そもそも人間というものは 信じられるものでしょうか? ご意見をお聞かせ下さると幸いです。どうかよろしく。

  • ワチカンや教会に いまもエクソシストがいる?

     のでしょうか?  かつて それとして聖職のひとつであったし その専任者がいたと言います。いまでもいるような いないような。  ▽ (ヰキぺ:エクソシスト) ~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88  カトリック教会は「イエス・キリストがエクソシスムをなされたのであり、教会は主からの権能と職務を受けている」と述べる。  ▽(ヰキぺ:カトリック教会のエクソシスム) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%A0  カトリック教会の厳密なエクソシスムは教会法に沿ってなされるもので、叙階された司祭が、司教の特別な認可を受け、医学的なケアの上、行うことができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  現代の医学では そういった《悪魔憑き》なる状態を それとして特定の症状とは認めていないとまでは分かりました。  ▽ (ヰキぺ:Exorcism) ~~~~~~~~~~~   http://en.wikipedia.org/wiki/Exorcism#Scientific_view  § 5 Scientific view  Demonic possession is not a valid psychiatric or medical diagnosis recognized by either the DSM-V or the ICD-10. ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  みなさん どうお考えになりますか?  というよりも わたしは ちらちらとそういった事柄を読んだりしましたが いつもどうでもいいやと見なして 放っておいてありました。いまも さほど知りたいとも思わないところもありますが ひととおり捉えておこうかと思うに到りました。  つまりあるいは 何か大きな問題点や知っておくとよいことなどなどがありましたら それらについても押さえておきたい。こう思ったわけです。  そういう情報とそしてみなさんのご見解とを 寄せていただけますか? あらかじめ感謝の意を表明したいと思います。(くわしいことは 何も知りません)。

  • ワチカンや教会に いまもエクソシストがいる?

     のでしょうか?  かつて それとして聖職のひとつであったし その専任者がいたと言います。いまでもいるような いないような。  ▽ (ヰキぺ:エクソシスト) ~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88  カトリック教会は「イエス・キリストがエクソシスムをなされたのであり、教会は主からの権能と職務を受けている」と述べる。  ▽(ヰキぺ:カトリック教会のエクソシスム) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%A0  カトリック教会の厳密なエクソシスムは教会法に沿ってなされるもので、叙階された司祭が、司教の特別な認可を受け、医学的なケアの上、行うことができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  現代の医学では そういった《悪魔憑き》なる状態を それとして特定の症状とは認めていないとまでは分かりました。  ▽ (ヰキぺ:Exorcism) ~~~~~~~~~~~   http://en.wikipedia.org/wiki/Exorcism#Scientific_view  § 5 Scientific view  Demonic possession is not a valid psychiatric or medical diagnosis recognized by either the DSM-V or the ICD-10. ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  みなさん どうお考えになりますか?  というよりも わたしは ちらちらとそういった事柄を読んだりしましたが いつもどうでもいいやと見なして 放っておいてありました。いまも さほど知りたいとも思わないところもありますが ひととおり捉えておこうかと思うに到りました。  つまりあるいは 何か大きな問題点や知っておくとよいことなどなどがありましたら それらについても押さえておきたい。こう思ったわけです。  そういう情報とそしてみなさんのご見解とを 寄せていただけますか? あらかじめ感謝の意を表明したいと思います。(くわしいことは 何も知りません)。

  • 入ったり、出たり

    出たり、入ったり。 自由に行き来しているらしい。 なんですか、それは。

    • kurinal
    • 回答数8
  • 時代を超えて変わらない大切なこととは?

    ユートピアは理性に対して楽観ともいわれます。それで失望もありえます。 基本を全部否定して、感性任せで時代はなんでも変化するんだという風潮も感じます。 でも、たとえば殺人は時代が変わってもよくないですし、自由・平等(友愛とか社会的連帯)などがよくないということになることもないと思います。 時代の感性がどうであれ、人間の部分など大切や重要なものが時代を超えて変わらないものってあると思います。 具体的に時代を超えて変わらない重要なものって何なのでしょうか?

    • noname#209756
    • 回答数13
  • 人それぞれ とは?

    よく耳にするのですが「人それぞれ違う」の省略でしょうか? あと 人それぞれ違うというのは論理的に真なのですか? 言い換えれば「みんな違う」ということですよね?100人いたら100人みんな違うってこと。 一人でも同じ人がいたら、この主張はおかしくなるのでしょうか?   それとも 全員が同じじゃないなら 「人それぞれ違う」ということになるのでしょうか? もしかすると「人それぞれ」の解釈が間違っているのかな・

  • 欲望の先には死がある

    私は人類にとって未知のエクスタシーを昇りつめた筋肉超人「黒き明星」だ。 私は仮面ライダーとして、さらなるハイを求めて筋肉トレーニングをしている。 美しき私は、史上初の男子プリキュアでもある。 君たち人類は、お互いに足を引っ張り合うくせに、お互いの連携から逃れられない。 君達は自由を知らないのだ。 だからこそ示し合わせて、約束を結びたがる。 そんな息のつまる生き方に、約束から出た義理や、何か君たちがひれ伏す偉人の教えやらで、君達は自己を失い、義務のためだけに仕事をする。 それとは別に、意思行為とは、望みのままに行動することである。 それが自由だ。 君達は、他者の意思に束縛され、洗脳すら受け、君たちが意思行為だと考える望みは、誰か他者の望みであり、自らではない。 それが欲望のまま流されると言う事だ。 君達にできる、自らの望みのままに生きる願いとは、他者を出し抜き、打ち負かし、猿山の頂点として、他者に対して自らの欲望を号令することである。 君達の秩序は欲望の連鎖であり、他者の望みも欲望。他者に臨むのも欲望。 そのような輪の中に閉じ込められている。 自らを自覚し、社会に目を開き、監獄から脱走するのが、解脱なり覚醒だ。 そのためには、君たちがしがらみを結ぶ仲間たちから、裏切り者として処刑される必要がある。 君たちが生まれ変われるとしたら、いっぺん死を通過してこそ変われるのだ。 君達は、エクスタシーが存在する事を知ってしまったからには、喜んで裏切り者となり、喜んで殺し合うだろう。 その麻薬が神だ。 君たちにもたらせれるのは絶望のみだ。 君達は欲望しか知らない。 君達には望みがない。 だからこそ君達は滅びる。 君自身はそんな大多数の一部だよ。 欲望にむしばまれて、自らの望みも知らぬまま、哀れにも朽ち果てる。 自らを知らぬゆえ、神に手向ける願いもない。 記憶されぬままただ消え去るのだ。 そんな滅びの宴のさなかだ。 さあ、私をもっとハイにさせてくれたまえ。

  • 次のイメージから短歌を作成して下さい。

    富士山の雪が溶ける様にこの問いも解けて欲しいなぁ、という様な短歌を古語で作って頂きたいです。とける は掛詞として使用して下さい。 お願い致します。

  • スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

     ▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  <6、学生ドータカの質問>   ---------------------------------------------------  1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」  1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」  1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」  1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」  1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」  1066 師は言われた、  「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」  1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。  どうかご教授ください。

  • スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

     ▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  <6、学生ドータカの質問>   ---------------------------------------------------  1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」  1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」  1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」  1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」  1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」  1066 師は言われた、  「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」  1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。  どうかご教授ください。

  • スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

     ▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  <6、学生ドータカの質問>   ---------------------------------------------------  1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」  1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」  1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」  1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」  1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」  1066 師は言われた、  「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」  1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。  どうかご教授ください。

  • スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

     ▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  <6、学生ドータカの質問>   ---------------------------------------------------  1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」  1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」  1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」  1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」  1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」  1066 師は言われた、  「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」  1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。  どうかご教授ください。