a_hona の回答履歴
- 「神とは、定義できないものである」と定義する。
「神とは、定義できないものである」と定義する。 ただし、ちょっとまってね。神だとやっかいそうなので、 「Gとは、定義できないものである」と定義する。 Gはもともと意義を持たない、単なるラベル。この定義によって、「定義できないもの」という属性概念の名称になる。そして意義が生成する。 Gの性質は、本質的に「定義できないもの」という属性と言うことになり、 「AはG」ということで、「Aは定義できないもの」ということをさす。 そして、定義以外の「GはB」という形式の概念思考はできないとする。 というのは、Gの定義から考えられることは、この定義以外の属性を分析判断することができないと思うから。 それとも、たとえば、「Gは創造主である」とか、「Gは絶対者である」とかでてきますか? ちなみにこれは、真面目な問いです。
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- 哲学・倫理・宗教学
- atomonados
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- 聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。
(1) 《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。 (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。 (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。 (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。 (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。 ▲ (創世記1:1) http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃ ( Be-resit bara’ Elohim et-ha-samaim wa-et ha-’arec.) ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.) ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth. ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。 (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。 ○ bara' http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV (8) だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。 (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。 (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。 (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。 (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。 (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。 (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~ はじめに ことば(ロゴス)があった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。 (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。 (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?
- 「神とは、定義できないものである」と定義する。
「神とは、定義できないものである」と定義する。 ただし、ちょっとまってね。神だとやっかいそうなので、 「Gとは、定義できないものである」と定義する。 Gはもともと意義を持たない、単なるラベル。この定義によって、「定義できないもの」という属性概念の名称になる。そして意義が生成する。 Gの性質は、本質的に「定義できないもの」という属性と言うことになり、 「AはG」ということで、「Aは定義できないもの」ということをさす。 そして、定義以外の「GはB」という形式の概念思考はできないとする。 というのは、Gの定義から考えられることは、この定義以外の属性を分析判断することができないと思うから。 それとも、たとえば、「Gは創造主である」とか、「Gは絶対者である」とかでてきますか? ちなみにこれは、真面目な問いです。
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- atomonados
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- 宇宙の法則は創造されたものなのか
神=創造主と考える人は多いようです。 しかし果たして宇宙の法則、つまり世界の全てを支配する法則は創造し得るものかと考えてみました。 宇宙の法則は創造されたものではなく、また創造し得るものでもないと考えますが皆さんはどう考えますか。 やはり創造主がいて、この創造主によってあるとき突然宇宙の法則は誕生したと考えるのでしょうか。
- 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。
私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。
- 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。
私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。
- 自由意志は錯覚か?
脳科学者の間では、自由意志(自分の行動を自分自身が決定しているという感覚)は錯覚であるという考えが広まりつつあるようです。 私は、次のような実験が将来技術的に可能になるだろうと予想しています。 被験者の脳に機械を取り付け、外部から「右足を上げろ」という信号を送り、その通りに右足を上げさせる。しかも被験者に自分の自由意志でそれを行ったと錯覚させる。 もし本当にこのような実験が実現したとしたら、皆さんは自由意志が錯覚だということを認めますか? それとも飽くまで「いや、今のは機械で操作されて騙されたが、普段はこんな機械つけていない。普段俺が感じているのは本物の自由意志だ」と主張されますか?
- 人間と動物はどう違うか?鯨は?
人間は動物を殺して食べます しかし人間を殺して食べることは滅多にありません 動物はゴキブリでも牛でも殺してよくて、人間なら赤ちゃんでも犯罪者でも殺しません (戦争は異常事態です) これは人間と動物のどこかに決定的違いがあると思います。 それは精神が在るかないかではないでしょうか? では精神がある人間を殺してはいけない理由 精神のない動物を殺していい理由 鯨には精神は在るのか 在れば殺してはいけないのか? その理由を短めにさっくり説明して頂けないでしょうか? もし人間を殺して食べてもいいと言う事になると これは事ですぞ。 どうかよろしくお願いしますm(_ _)m
- 何の為に生きているのか?
人間は何のために生きているのでしょうか。 最も人間が目指し努力すべきは何でしょうか? 人それぞれでしょうか?それともみんなで目指すものがあるでしょうか? ご高説をコンパクトに教えていただければ幸いです 私、病人の為 短文で何とぞ。
- 哲学に人生を賭けるのは愚かか?
私は思春期に色々と考えて 哲学を極めないと世界は良くならないと思いました。 それで大学も中退して、家を出てアルバイトをしながら 自分で考えました。 能率は悪かったですが 仏門に入ったようなつもりでした。 永平寺などでは東大での人が修行を積んで仏教を極め悟りを目指すようですし 京大や東大や九大にも優秀な人が哲学科の大学院まで行って 教授になったりして 哲学をしています。しかし答えがでない。 私はそんなに優秀ではありませんので 違う方法を取った訳です。 哲学的に哲学してみました?その結果「存在性思想」にたどり着きましたが これもまだ ?マークが付きます。 哲学に人生をかけ 病気をして無意味な一生を終えようとする私はバカだったのでしょうか? 病人の為短文でご感想などお聞かせください。
- 《永遠》とは人間に分かるか分からないかは分からない
《永遠》とは 何か? が問いです。 《非知》であるというのが たたき台です。 思いっきり自由にご見解を述べてください。 1. そもそも永遠に生きたひとはいない。生物も無生物もいない。と経験則からのように推し測られる。 2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに? 3. かなり昔にどこかの野球チームは 永久に不滅ですということでした。これは むろん言葉のアヤであり文学的修辞です。ですが 永久・不滅そして永遠とは どういうことですか? 4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。 5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?
- 《永遠》とは人間に分かるか分からないかは分からない
《永遠》とは 何か? が問いです。 《非知》であるというのが たたき台です。 思いっきり自由にご見解を述べてください。 1. そもそも永遠に生きたひとはいない。生物も無生物もいない。と経験則からのように推し測られる。 2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに? 3. かなり昔にどこかの野球チームは 永久に不滅ですということでした。これは むろん言葉のアヤであり文学的修辞です。ですが 永久・不滅そして永遠とは どういうことですか? 4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。 5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?
- われらがあたらしい哲学へ
たたき台としては論点をひとつに絞ります。 近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。 《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。 もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。 科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。 言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。 かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。 もう少し別様の説明としてのべます。: ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。 そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。 すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。 これを名づけるとすれば: あやまちうるスサノヲ( S )人間語 あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語) となると思います。 ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は: 《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合 が ふさわしい。こうなると考えられます。 このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。 西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。 あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。 忌憚なきご見解をどうぞ。
- われらがあたらしい哲学へ
たたき台としては論点をひとつに絞ります。 近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。 《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。 もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。 科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。 言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。 かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。 もう少し別様の説明としてのべます。: ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。 そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。 すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。 これを名づけるとすれば: あやまちうるスサノヲ( S )人間語 あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語) となると思います。 ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は: 《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合 が ふさわしい。こうなると考えられます。 このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。 西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。 あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。 忌憚なきご見解をどうぞ。
- だうして蜜柑は蜜柑なのでさう
だうして蜜柑は蜜柑なのでさう だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく 中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう だうして蜜柑は葡萄でなく 葡萄は蜜柑でないのでさう だうして目の前に蜜柑が有るのでさう だうして林檎ではなく蜜柑なのでさう だうして蜜柑は甘いのでさう だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう だうして私は私なのでさう だうして心臓が音を立て休むことなく 私の胸の中で動いているのでさう だうして私は他人ではなく 他人は私でないのでさう この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです この世に有るものは現に有るのであり 禅問答など無や空について考えても無駄だからではないでしょうか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数15
- われらがあたらしい哲学へ
たたき台としては論点をひとつに絞ります。 近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。 《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。 もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。 科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。 言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。 かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。 もう少し別様の説明としてのべます。: ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。 そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。 すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。 これを名づけるとすれば: あやまちうるスサノヲ( S )人間語 あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語) となると思います。 ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は: 《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合 が ふさわしい。こうなると考えられます。 このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。 西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。 あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。 忌憚なきご見解をどうぞ。
- 人間にとって一番大事なものは何か?
人間にとって大事なものはたくさんありますよねえ 命とか 魂とか お金とか 時間とか 愛とか 未来とか 王より飛車を大事にし とか言って金さえあれば命はいらないなんて漫才もあるほどです。 人間にとって最も大事なものとはなんでしょう 子供でしょうか?妻でしょうか? 私にとっては 書かぬが花でしょうね(^^ゞ できれば病中につき短文でお教え願えれば助かります よろしくお願いしますm(_ _)m
- 人間にとって一番大事なものは何か?
人間にとって大事なものはたくさんありますよねえ 命とか 魂とか お金とか 時間とか 愛とか 未来とか 王より飛車を大事にし とか言って金さえあれば命はいらないなんて漫才もあるほどです。 人間にとって最も大事なものとはなんでしょう 子供でしょうか?妻でしょうか? 私にとっては 書かぬが花でしょうね(^^ゞ できれば病中につき短文でお教え願えれば助かります よろしくお願いしますm(_ _)m