a_hona の回答履歴
- あなたは精神ですか?
私は人間です 人間の体を持っています 五体満足です(病気してますが) でも人間の体と人間の精神は別ものだと思うんです TVの受信映像機とテレビの番組の内容が別ものの様に。ハードとソフトですね。 で改めて私はどちらかと聞かれたら 私は精神だ と思います。 肉を食って糞をまってるのは命を持つ生々しい体で 精神はそれと関係はあるけれど 体ではなく 性質で出来た自我から意識と成り精神となった私であると思うんです。 だから肉体の食物連鎖と精神の競争は全く別だと思うんです。真似ることはありますが。 私は精神です。あなたはどうですか? あなたも精神ですか? 病気なんで短めに要点をお願いしますm(_ _)m
- 《非在》なる神をどうして理解できないか
§ 1 不在と非在 たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。 けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。 すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。 ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか? § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる 在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。 さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。 では 《非在》とは 何のことか? 感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか? § 3 《非在》とは 想定である 《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。 世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。 この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。 あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。 《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。 § 4 《非在》という想定が 神のことである 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか? ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。 ここにもあれば 同時にあそこにもある。 という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。 § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。 この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。 それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。 § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。 この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。 ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。 だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。 すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。 § 7 信仰とシュウキョウ 《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。 § 8 この神をどうして理解できないのか?
- 《これは俺のものだ》は 自己意識のあらぬ拡大か?
【Q:所有とは 何ぞや?――職務発明の所有にちなんで】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8799388.html 上の質問で得られた回答内容から 問いを立てました。 その回答者にあっては 《自我の肥大》といった表現を用いておられます。要するに《所有》とは それだという意味合いです。 次の議論をたたき台として あらためて《所有とは何ぞや?》を問いたいと思います。 ▲ (私的所有権の発生について) ~~~~~~~~ http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5151/link_2001.html (5) 日本的「富」の観念 これに対して日本では、そのようなキリスト教の精神(*)はもともとなかったのであるから、 * そのようなキリスト教の精神: ~~~~~~~~~~~~~ 勤労はあくまでも神への奉仕という形をとって行われるものであり、そこに本来的な形があるものであった。そこではまだ勤労の結果としての私的所有権の意識はあいまいであったのだが、これがカルビニズムによって勤労の結果が得られた富そのものに、価値が与えられるようになると、勤労の結果得られた報酬に対する私的所有権の意識がはっきりとした形をとって現れてくるようになる。 しかしその場合でも、信仰がある限り、結果としての富だけが重視されるわけではなく、その過程としての勤労の精神そのものにも、十分な価値が与えられていた。そのような意味で、道徳的な根拠はまだ失われていなかったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 勤労は富を得るためであるという目的意識はかなりはっきりしたものであった。ただその結果としての富が価値あるものであるためには、その富をどのように使うかということが問題であった。 その富が誰のものであるかということに対しては、そこではヨーロッパほどの私的所有権の意識は明確にされず、自分の得た富そのものが社会全体の役に立っているという意識が重視されたのである。 日本の場合には、神による自己の承認という意識はなかったのであるから、自己の承認はどこまでも社会の他の人々から与えられるものであった。正当な自分の労働によって得た富は、必ず社会に還元されなければならないという意識があった。 例えば農民が額に汗して働いてコメを作ることは、そしてそのコメを年貢として上納することは、それを食べる町方の人たちの役に立っているのであった。また、箪笥職人が一生懸命働いて、見事な箪笥を作ることは、その箪笥を必要とする人の役にたっていることであった。 そしてまた、自分が箪笥職人でいられることは、そのような箪笥を必要とする人がいてくれるからこそであった。そのような意味で自分が働いて得た富は、他の人から与えてもらったものであるから、いずれそれは他の人々にも還元しなければならないという意識もあった。 そのような認識は、自分の力で生きているということを戒め、他人の力によって生かされているということを説いた鎌倉時代の浄土宗系の仏教思想によって深められ、徐々に社会に浸透していったものと思われる。 つまりそれは、自分が働いて得た富、つまり私的所有権は必ずしも自分の私的な都合で使うことを許されない富なのである。 この点がヨーロッパ的な私的所有権の考え方と大きく違うところである。 そしてそのような富の使い方をすることによって、「神の承認」ならぬ「人の承認」を得ることが日本人にとっては人生の最終目標であった。 そしてこのことは日本だけの例外的なことではなく、キリスト教のような一神教が誕生する以前の社会では、多くの人々がこのような他人からの承認によって自らの人生の価値を納得していたのである。 一神教というものは人間の歴史のある段階で発生した歴史的な産物であるから、それが発生する以前の圧倒的な長い時間においては、人間は自己の社会性を他者からの承認という形で得ていたのである。そこに日本人の勤勉さの道徳的根拠があった。 つまり一言で言うと、ヨーロッパ社会は「神からの承認」を必要とする社会であったのに対して、日本の社会は「人からの承認」を必要とする社会であったのである。 そうだとすれば、最も恐ろしいことは、ヨーロッパ社会が「神からの承認」を必要としなくなることであり、日本の社会が「人からの承認」を必要としなくなることである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《これは俺のものだ》は 自己意識のあらぬ拡大か? 自我のまぼろしなる肥大によるものか?
- 宗教の正しさは信者数では計れません
実際キリスト教は過去2000年の歴史を持ち、今日約20億の信者に支えられているが、奇跡を説くカルトに過ぎないことは変わっていない。 イスラム教は全世界に11億の信者をもつ巨大宗教であるが、その信者は世界中でテロとジハードを繰り返す救いようのないカルト宗教である。 またヒンズー教は10億の信者を抱えるがその中身はカーストであり、それ故インド国内ではレイプ事件ばかり繰り返す畜生の教えである。 それゆえ哲学が宗教について考えるとき、宗教の正しさはその信者数とかその歴史や年数では決して計れないものであることをまず第一に認識すべきでないか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数15
- 戦争による殺人に罪はないのか?
戦争で撃ち合って死ぬのならまだわかるが 日本も経験したように絨毯爆撃や原爆で市民を殺傷した その殺人に罪はないのか? 普通に人が人を殺したら人間じゃない様に非難されますが 戦争で殺す分には文句を言っても無視です 戦争なら人を殺しても罪はないのでしょうか? 甚だ疑問です。どう思いますか? 当方病人の為 短文でお答え頂けるとありがたいです。m(_ _)m
- 戦争による殺人に罪はないのか?
戦争で撃ち合って死ぬのならまだわかるが 日本も経験したように絨毯爆撃や原爆で市民を殺傷した その殺人に罪はないのか? 普通に人が人を殺したら人間じゃない様に非難されますが 戦争で殺す分には文句を言っても無視です 戦争なら人を殺しても罪はないのでしょうか? 甚だ疑問です。どう思いますか? 当方病人の為 短文でお答え頂けるとありがたいです。m(_ _)m
- ひとは何故生きないかと問うべきではないか?
1. ひとはなぜ生きるか? ではなく なぜ生きないのか? と問うのが自然である。 2. 生きないという前提は あり得ない。 3. まして ひとを――他人をも自分をも――ころしてもよいという前提は 成り立たない。 4. なぜ生きないかの問いに答えられないからである。答え得たときに ひょっとして考えることが出て来るだろうか。 5. いのちあっての物種ということわざは 生きていないのだろうか? 6. ほかの命をたすけるためにどうしても必要なときなど 例外の場合のみ 大前提が見直される。のではないのか? 7. ひとは何故生きるのか? と問うことは いのちに対して・また自分に対して 失礼ではないか? 授かったものを。 8. たとえ自死をえらぶとしても それは失礼を承知の上でなのではないか?
- 人生の意味、を考えることでの利点
当然ある程度考えるというのは人生を見つめなおしよりよく生活していくために良い部分もあるのだと思いますが、それ以上に突き詰めて考えるコトに利点はありますか?
- 戦争による殺人に罪はないのか?
戦争で撃ち合って死ぬのならまだわかるが 日本も経験したように絨毯爆撃や原爆で市民を殺傷した その殺人に罪はないのか? 普通に人が人を殺したら人間じゃない様に非難されますが 戦争で殺す分には文句を言っても無視です 戦争なら人を殺しても罪はないのでしょうか? 甚だ疑問です。どう思いますか? 当方病人の為 短文でお答え頂けるとありがたいです。m(_ _)m
- 戦争による殺人に罪はないのか?
戦争で撃ち合って死ぬのならまだわかるが 日本も経験したように絨毯爆撃や原爆で市民を殺傷した その殺人に罪はないのか? 普通に人が人を殺したら人間じゃない様に非難されますが 戦争で殺す分には文句を言っても無視です 戦争なら人を殺しても罪はないのでしょうか? 甚だ疑問です。どう思いますか? 当方病人の為 短文でお答え頂けるとありがたいです。m(_ _)m
- 戦争による殺人に罪はないのか?
戦争で撃ち合って死ぬのならまだわかるが 日本も経験したように絨毯爆撃や原爆で市民を殺傷した その殺人に罪はないのか? 普通に人が人を殺したら人間じゃない様に非難されますが 戦争で殺す分には文句を言っても無視です 戦争なら人を殺しても罪はないのでしょうか? 甚だ疑問です。どう思いますか? 当方病人の為 短文でお答え頂けるとありがたいです。m(_ _)m
- 世界平和は実現するか?
私は子供の頃から40年以上 世界平和が実現するといいのに 世界を平和にしようと言って来ました ところが最近「世界平和」と言うだけで 何か危険な事の様に思われ 実際に世界平和は実現せず イスラム国にアメリカ等が爆撃し イスラエルとパレスチナも 今だに 終戦協定を結びません そうしてるうちに戦争はなくならない それが人間の本性だという人が出るし 戦争で儲けようという機運まで起こってきました どうすれば この人名を奪う人殺し行為を止めることができるのでしょうか? そうでなくとも世界は問題山積なのに 酷いもんです マララさんの様な若い命を奪ってまで戦争は拡大してゆくのでしょうか? そんな事をしてたら本当に人類は自滅するのではないでしょうか? どう思います? 当方病気のため なるだけ短文で希望の持てる答えを期待します。 どうかよろしくお願いしますm(_ _)m
- 《ファイル人間》は哲学屋であっても哲学していない
ファイルは 必要に応じて抽斗から(ポケットから)出してくるものであって いかに知識と情報がいっぱい詰まったものであっても《ファイルや抽斗やポケット》が街を歩いていてはおかしいぢゃないですか。 日本人はもともと そのような《理屈人間》を嫌っていて そこから基本的に(生活態度として)自由であった。 このところ その免疫性が弱まって来たのでしょうか? といった疑問を覚えるのですが みなさんはいかがでしょう?
- 《ファイル人間》は哲学屋であっても哲学していない
ファイルは 必要に応じて抽斗から(ポケットから)出してくるものであって いかに知識と情報がいっぱい詰まったものであっても《ファイルや抽斗やポケット》が街を歩いていてはおかしいぢゃないですか。 日本人はもともと そのような《理屈人間》を嫌っていて そこから基本的に(生活態度として)自由であった。 このところ その免疫性が弱まって来たのでしょうか? といった疑問を覚えるのですが みなさんはいかがでしょう?
- 人間は機械なのではないか?
私は昔から哲学的なことに興味が有り、よく考えていました。 そして最近は、人間はとても精巧な機械で、全ての思考や反応、感情でさえも諸条件から機械的に算出されるのではないかと思うようになりました。(また、それと同じように世の中の全てが機械的に成り立っているのではないかとも思っています) 諸条件と言うのは、目に見える物見えない物、今の科学では分からない物も含めた全てです。 要するに、人間に自由意思はなくて、人間が自分の思考や選択だと思っている物も、順を追った機械的な反応のようなものではないかと思っているのです。 また、そう考えるとその機械的な人間だったり機械的な世界を作った創生主もいるのではないかと思えてしまいます。 創生主といっても、宗教の中での神様ではなくて、作られた立場の人間では知ることのできない、意思を持った何かということですが・・・。 以上のようなことを考えているのですが、科学的な知識や哲学的な知識がないため、この考えがどれだけもっともらしいかも分かりません。 科学的にこの考えは間違っているのでしょうか? また、哲学の中では今まで同じようなことを考えた人もいると思うのですが、その考えがどう扱われてきたのか、またそういったことについて書いてある本など教えて頂けるとありがたいです。 さらに、回答者様がこのことについてどう思うかも教えて頂きたいです。 お願いします<(_ _)>
- 見た目が9割? 人間は精神?
ボロは着てても 心の錦 どんな色より綺麗だぜ♪ という私もふる~い人間なんでしょうかねえ? 最近人間は見た目が9割と聞きます 昔はそうは言いませんでした 心なんてよく付き合ってみないと分からないものです 馬には乗ってみよ 人には添うてみよ と言いますが 僕は人間は精神だと思います。精神のことを人間というのです。 みなさんはどう思いますか 見た目と精神 何割でしょうか?
- 老子は 何が言いたいのか?
次のくだりを 取りあえず取り上げます。 ▼ (老子 18章) ~~~~~~~~~~ 大道廃(すた)れて仁義あり。 智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。 六親和せずして孝慈あり。 国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ はっきり言って何が言いたいのでしょう? 仁義や慈悲や愛やの倫理的な理念を言うようになってしまったら それは すでに世の中が廃れているシルシである。――ということは だから何を言おうとしているのか? さとりを主張するようになったなら もう世界の倫理や共同自治は 終わりにちかづいている。ということでしょうか? かんたんですが このあたりに絞って問います。おおしえください。 あと もし余裕があれば その思想を日本人はどのように受け容れて来たか。どう取り扱ったのか。このあたりについても問い求めたいと考えています。