amenhotep2000 の回答履歴
- 大いなるものに包まれて
大いなるものに包まれて 大いなるものの愛に包まれて生かされている この辺に落ち着くと、信仰を得た、或いは悟りを得た、言えると思ったりもするのですが。 中々言葉で言うのは難しいと思いますが、言葉にして頂けないですか。
- なぜ外道に毎回丁寧に回答するのですか
済みませんが直球勝負で質問します。 時々某サイトの哲学カテをみていますが、中には非常識な利用者もいます。 毎回、お礼もしなければBAを選出することもありません。 それでも図々しく質問を繰り返しています。 他のカテでそんな真似をすれば回答がつかなくなります。 誰も外道の相手などしたくないからです。 しかし、何故か哲学カテでは毎回丁寧な回答がついていて驚きます。 なぜ、そこまでして外道に丁寧に回答するのですか。
- 神学は哲学の部類なのか
宗教家の皆さんには水を差すようで悪いが、一つはっきりさせておきたい事があります。 神学は哲学の部類なのか。 もし神学が哲学の部類なのであれば、哲学はただの宗教と変わらないのではないか。 哲学の中に神学なるものが入り込んでよいものなのか。 哲学の中に聖書や神が入り込んでよいものなのか。 哲学と神学は明確に区別すべきではないのか。 哲学から神学なるものを完全に分離排除すべきではないのか。 さもなければ哲学はただの亜宗教の域を出ないのではないのか。 どうであろうか。
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 暇なときにでも。
24男です。 私が性格が悪いなぁと感じたのが小学校も卒業を迎える頃で、その頃から一心不乱に良い人を演じようとしていました。一方で元来のプライドの高さと、コンプレクスなどが邪魔したのか、最近我ながら性格がひん曲がってきているのを感じます。 一時期、知的障碍者支援サークルと言うサークルに入っていました。ご飯も一人で食べれない、車椅子も自分でひくことができない、喋れない、身体も自由に動かせない、そんな障碍を抱える人達を相手にレクリエイションを催し、幼児に聞かせるような歌を歌ったり、ほとんど当事者が参加できないような軽いゲームを催したりしていました。多く薄っぺらい笑顔を貼り付けて、楽しそうにしていました。私がそのサークルにいる本質が差別であると感じて、結局やめてしまいました。 私が狂っているだけなんでしょうか? どんなに『いいひと』を見ても「あぁ、無理しているな」と感じます。 子供の無邪気さに嫉妬を覚え、障碍者のおぼつかなさに優越感を覚えて、老人の昔話にうんうんとうなづいたり、精神病を抱える人間に対してわかったように口を開いて頼られることが嬉しく、そして私が綺麗であり得たことが嬉しいのです。 私は狂っていますか? 普通の人は普通に利他的な行動が出来るのですか? 一方でチョンだ在日だと言う人間がいじめは良くないと言います。気持ち悪いと言うだけで虫を殺す人間が猫を殺しちゃおえんと言います。 いい人になることは、他人にとっていい人になることで、自分を一つずつ殺していくことだと感じています、それは間違っていますか? 結局無理していい人を演じる人間しかいないのですか? 人と接すると感じます。私の正義感が人とずれていると。 私は弱い人間が好きです。それは私を映す鏡としてです、異常でしょうか? 本音をつらつらと書きました。気分を害された方、多いかと存じます。個々にお詫び申し上げ、閉めさせていただきます。ご意見いただけたら幸いです。
- 暇なときにでも。
24男です。 私が性格が悪いなぁと感じたのが小学校も卒業を迎える頃で、その頃から一心不乱に良い人を演じようとしていました。一方で元来のプライドの高さと、コンプレクスなどが邪魔したのか、最近我ながら性格がひん曲がってきているのを感じます。 一時期、知的障碍者支援サークルと言うサークルに入っていました。ご飯も一人で食べれない、車椅子も自分でひくことができない、喋れない、身体も自由に動かせない、そんな障碍を抱える人達を相手にレクリエイションを催し、幼児に聞かせるような歌を歌ったり、ほとんど当事者が参加できないような軽いゲームを催したりしていました。多く薄っぺらい笑顔を貼り付けて、楽しそうにしていました。私がそのサークルにいる本質が差別であると感じて、結局やめてしまいました。 私が狂っているだけなんでしょうか? どんなに『いいひと』を見ても「あぁ、無理しているな」と感じます。 子供の無邪気さに嫉妬を覚え、障碍者のおぼつかなさに優越感を覚えて、老人の昔話にうんうんとうなづいたり、精神病を抱える人間に対してわかったように口を開いて頼られることが嬉しく、そして私が綺麗であり得たことが嬉しいのです。 私は狂っていますか? 普通の人は普通に利他的な行動が出来るのですか? 一方でチョンだ在日だと言う人間がいじめは良くないと言います。気持ち悪いと言うだけで虫を殺す人間が猫を殺しちゃおえんと言います。 いい人になることは、他人にとっていい人になることで、自分を一つずつ殺していくことだと感じています、それは間違っていますか? 結局無理していい人を演じる人間しかいないのですか? 人と接すると感じます。私の正義感が人とずれていると。 私は弱い人間が好きです。それは私を映す鏡としてです、異常でしょうか? 本音をつらつらと書きました。気分を害された方、多いかと存じます。個々にお詫び申し上げ、閉めさせていただきます。ご意見いただけたら幸いです。
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 神はいるのか?
昔は教会に通っており私の名前もキリスト教の聖書から貰いました。信心深いからというよりも"神"という存在に畏れを抱いていたから日曜学校にも飽きずに欠かさず通っていたのだと思います。謂わば監視している相手に対し私は"ちゃんと"してますよと誇示するように… ただ高校生の時に異端審問などを調べている途中で宗教というものが本気で気持ち悪くなり今では寄り付かなくなりました。あんなに酷いことを教会の者がしているのに何故お救いにならないのかと。 畏れる対象がいなくなったことで不安よりも束縛感が消えて昔よりも自由な気がします。 私にとって今の段階では"神"は不必要な存在となってしまいましたが、そこに至るまでの過程は重要だったのでしょうか?また神は何処かにおられるのでしょうか? まとまりのない文章で非常に申し訳ないのですが回答でなくても構いませんのでご意見いただけると嬉しいです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#172652
- 回答数26
- 関ヶ原の戦い 手柄一番多かったのは?
関ヶ原で攻めまくってすみません…反省してます 関ヶ原の戦いで最も勲功をあげたのって誰ですか? やはり17の首級すべてに笹を立てて目印として「笹の才蔵」の異名がある可児長吉でしょうかね? 宮本武蔵も関ヶ原に参戦してたのはびっくりしました☆
- 朝鮮の歴史
こんばんは 気になることがあるので教えて下さい 日韓併合で韓国はかなり近代化を進めました その当時 女性に名前が無く 胸を放出して生活しいたり トイレが全然機能してなかったり ダムが無かったり 言語が複数あったのを1つにまとめたり等々…様々な事を日本がしてきた 記録があります それは李子朝鮮時代が長く両班が支配していたからだと 習いました しかし 日本の教科書では 高句麗や百済がかなり日本に影響を与え 更に 何かの番組で 測量や前方後円墳や壁画の技術は 百済や高句麗の朝鮮半島から伝わったものだと見聞きしました かなり 質の良い技術だと なぜ そんな最先端技術を持ち合わせて 底辺に落ちたのでしょうか? そもそもそんな技術なかったのでしょうか? それとも日本が与えた日帝時代の事が嘘なのでしょうか?? 高句麗時代からの朝鮮半島の流れを教えて下さい 長くなっても 出来るだけ詳しく教えていただけるとありがたいです よろしくお願いします
- この時代の人たちの性的なことについて
ふざけているわけではありません。 この時代の人たちはオナニーやセックスはどうしていたんでしょうか? こんな家じゃ何もできなくないですか? おそらく夜は静まり返っているでしょうから、セックス時の声が一緒に住む家族や他の家にまる聞こえでしょう? それとも聞こえるのが普通のことだったのでしょうか? オナニーは? 家でするのでしょうか? どこか茂みの陰とかに隠れてしていた? セックスも草むらで? ティッシュなんてないでしょうから、どうしていたの? 布きれで拭いていた?
- ベストアンサー
- 歴史
- noname#161161
- 回答数4
- 廃仏毀釈と歴史教育
現在、高校日本史ベース(検定教科書全て)において、廃仏毀釈は全てに記述されている しかし、筆致そのものは、廃仏毀釈について事実のみを伝えるに留まり、主観的表現は少ないと言えるだろう 問題は、教科書ベースではなく、教師レベルで廃仏毀釈の歴史事実を主観的に展開する場合である。 廃仏毀釈そのものは、好意的に評論することは不健全であろう (日本社会に跋扈する皇国史観の人間は、八百万の神々が破壊されたようとも、天皇陛下だけが尊崇されれば良いだろうから、否定的には言説しないだろうが) 問題は、廃仏毀釈の事実と天皇神道以外の宗教から見て、排他的な政策として表現する場合である 文化史・宗教史からすれば、廃仏毀釈は文化破壊であり、文化大革命であろう。 しかし、既得権益・特権階級という意味での宗教家の退廃を顧慮するに「政策的に理解されうるもの」という表現も可能であろう つまり、政府レベルの問題ではなく、民衆レベルでも廃仏毀釈には好意的だった、という問題提起である 本件については、歴史学的なアプローチはあまりされず、皇国史観・講座派などには評論・研究の対象としては重視されなかったと言えるだろう 今後、廃仏毀釈の歴史事実を教科書レベルで記述するに、現在のように「歴史事実を粛然として記述する」に留めるのが適切だろうが 事態が教師レベルになれば、上記した文化破壊の側面・日本の近代化のための必要悪などの複眼的表現も可能だろう 果たして、歴史教師は廃仏毀釈をどう教える(伝える)べきか?というのが本件の質問である これは、一定の主観性を求められる授業展開を前提にしているので、廃仏毀釈について掘り下げることを想定した話である なお。本件の回答は、”こうあるべきだ”という主張ではなく、その理由が重要であり、主張だけの回答はご遠慮いただきたい
- 中国共産党は何を目指しているの?
孫文の下に育てられた、共産党(毛沢東)と国民党(蒋介石)。 中国本土を追われるように出て行った蒋介石は台湾でリーダーとなり、日本との貿易を盛んに行い台湾を豊かにした。 一方、毛沢東率いる共産党は戦争ばかり繰り返し、多大な中国国民の犠牲を払ってきた。 チベット問題、モンゴル問題など未だに国内情勢が安定していない。 香港、マカオのように他国から返還された地域は特別行政区と称している。 外国の文化が浸透した香港・マカオと低能民族の中国本土人を同じように扱うことはできないだろう。 中国人の中でも富裕層、高学歴者は反日感情をあまり表に出さない。 情報操作された低民族が日本に反感を持っている。 日本にとっても中国政府にとっても、面倒くさい連中だ。 中国政府は本気で情報公開し、低民族にも何が正しいかを教育すべきだと思う。 中国国内の騒動に付きあわせられている日本政府も優し過ぎるのでは? 中国共産党は中国国内にペレストロイカを導入すべきでは??
- 領土問題の歴史的背景について中立的に教えたい
北方領土、尖閣諸島、竹島という現在日本の抱える3つの領土問題について、 それぞれにおける日本の主張とその根拠については概ね理解しているつもりです。 また、それに対する各国の主張も、やや不十分ではありますが勉強いたしました。 勉強すればするほど、私には難しい…というのが正直な感想です。 ただそれらを他人に、特に児童生徒たちに教える場合、自分の能力不足もあり、 また知識面のバランス上からもいきおい日本政府の立場寄りの説明をしてしまいがちです。 一人の日本人としてはそれで問題ないのかもしれませんが、 教導の場ではこういったデリケートな問題については簡潔に、 かつできる限り中立的に教えたいと考えております。どのような方法がありますでしょうか。 このような思いを踏まえて、歴史問題にお詳しい方々にご指導を仰ぎたいと考えました。