amenhotep2000 の回答履歴
- 利他って何ですか?
1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか? 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか? 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか? 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか? 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか? 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか? 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか? 広く自由なご見解をお寄せください。
- 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう? ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13 ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends. ・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。 (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか? (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか? (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか? (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか? (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?) (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか? (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。 すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。 これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。 (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。 ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11 ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep. ・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων ~~~~~~~~ ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。 よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか? (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。 ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~ 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。 ~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか? (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか? ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~ イエスは答えられた。 「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか? ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~ わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 ▲(同上 10:18) ~~~~ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか? (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか? (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか? 以上よろしくご教授ください。
- 人間は知恵を得てから暗闇が更に深くなった
うろ覚えで申し訳ないのですが、どこかのカレンダーに書かれた箴言で「人間は知恵を得てから暗闇が更に深くなった」というような意味の言葉あって気になっています。大体、知性というものは人間にとって世界の闇を払うためのものではなかったでしょうか。単純に考えてこれは反語的な、ひねくれたアフォリズムのような気がします。 もっとも、人間は善悪を考え出したりして、却って混乱してしまったという部分もあるかもしれませんが、ちゃんと整理する知恵ももっているはずです。どう思われますか。それとも私が単純すぎて何かを見ていないのか、何か間違っているのでしょうか。出来れば易しい言葉でご指導ください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#194996
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- 利他って何ですか?
1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか? 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか? 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか? 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか? 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか? 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか? 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか? 広く自由なご見解をお寄せください。
- 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう? ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13 ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends. ・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。 (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか? (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか? (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか? (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか? (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?) (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか? (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。 すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。 これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。 (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。 ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11 ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep. ・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων ~~~~~~~~ ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。 よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか? (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。 ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~ 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。 ~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか? (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか? ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~ イエスは答えられた。 「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか? ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~ わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 ▲(同上 10:18) ~~~~ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか? (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか? (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか? 以上よろしくご教授ください。
- 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう? ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13 ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends. ・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。 (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか? (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか? (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか? (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか? (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?) (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか? (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。 すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。 これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。 (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。 ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11 ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep. ・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων ~~~~~~~~ ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。 よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか? (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。 ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~ 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。 ~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか? (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか? ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~ イエスは答えられた。 「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか? ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~ わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 ▲(同上 10:18) ~~~~ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか? (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか? (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか? 以上よろしくご教授ください。
- 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう? ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13 ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends. ・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。 (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか? (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか? (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか? (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか? (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?) (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか? (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。 すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。 これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。 (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。 ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11 ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep. ・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων ~~~~~~~~ ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。 よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか? (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。 ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~ 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。 ~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか? (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか? ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~ イエスは答えられた。 「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか? ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~ わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 ▲(同上 10:18) ~~~~ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか? (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか? (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか? 以上よろしくご教授ください。
- 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう? ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13 ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends. ・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。 (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか? (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか? (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか? (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか? (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?) (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか? (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。 すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。 これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。 (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。 ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11 ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep. ・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων ~~~~~~~~ ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。 よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか? (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。 ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~ 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。 ~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか? (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか? ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~ イエスは答えられた。 「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか? ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~ わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 ▲(同上 10:18) ~~~~ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか? (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか? (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか? 以上よろしくご教授ください。
- 利他って何ですか?
1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか? 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか? 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか? 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか? 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか? 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか? 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか? 広く自由なご見解をお寄せください。
- 利他って何ですか?
1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか? 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか? 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか? 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか? 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか? 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか? 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか? 広く自由なご見解をお寄せください。
- 利他って何ですか?
1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか? 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか? 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか? 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか? 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか? 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか? 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか? 広く自由なご見解をお寄せください。
- 利他って何ですか?
1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか? 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか? 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか? 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか? 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか? 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか? 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか? 広く自由なご見解をお寄せください。
- カトリック 「愛」ってなんですか?
根本的なことですが「愛」ってどう説明したらいいですか? 具体的に、できれば参考になるサイトを教えてください。 お願いします。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- ustak_trueno
- 回答数13
- 神は信じるものではなく、感じるものである
古来より神は信じるためのものとして人間によって作られた。 しかしいつの頃からか、人はこの神を信じさせようとするようになった。 信じるための神はこれを信じさせるために多くの人の命を要求した。 そのため世界各地で争いが起き、戦争が起き、多くの命が失われた。 それは今現在も同じである。 日本などはキリスト教国家によって2度も原爆を投下された。 ベトナムではこのキリスト教国家によって大量の枯葉剤が撒かれ多くの奇形児が生まれた。 また信じるための神イエス・キリストは多くの奇跡を用いた。 その結果この奇跡を求めて数限りないカルトが生まれた。 このようなカルトによって地下鉄でサリンが撒かれたりもした。 さらに聖書とキリスト教など信じるための神は終末思想を説いた。 この終末思想によって世界の倫理観は大きく傷つけられた。 結局のところ、信じるための神は多くの災いをもたらし、何一つ良いことはもたらさなかった。 信じるための神とこれを支える聖書とキリスト教および神学は偽りであることが分かってきた。 今や信じるための神は信じる必要はなくなった。 神は我々人間から隔たっているものではなく、常に接しているもの、信じる必要はないもの、感じることが出来るものでなければならない。 そしてその神が完全無欠であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限であるならば、それは唯一絶対なるもの宇宙の法則以外には有り得ない。 宇宙の法則を除いて如何なる神も存在しない。 これで良いのではないか。
- 幸福は人それぞれですか?
それとも人それぞれではない? それぞれかそれぞれではないかを回答して下さる方はその理由も詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- ehrthrthtyhj
- 回答数11
- ソクラテスの幸福主義
ソクラテスは理性に伴った道徳に従って善く生きることこそが最高の幸福であると言いましたがこれは現在でも通じることでしょうか? 通じているのであれば幸福に生きるには?の答えは、理性に伴った道徳に従って善く生きることと言うことになるのでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- ehrthrthtyhj
- 回答数6
- 零戦最強伝説について
開戦劈頭の無敵零戦(零式艦上戦闘機)伝説は、おそらくポートダーウィン上空の航空戦で当時世界屈指の高性能機と謳われたスーパーマリン スピットファイアに圧勝したと伝聞されたからだと思います。英国のスピットファイアはヨーロッパ上空でドイツのメッサーシュミットBf109に勝った、そのスピットファイアに勝った零戦が世界最強という図式です。 でも果たして本当にそうなんでしょうか?零戦がオーストラリアで勝利したスピットファイアは当時は既に旧式となっていたMk. V型でしかも北アフリカから配備された砂漠仕様の機体をオーバーホールしたもの、南太平洋の環境に決して適していなかった。搭乗員は未経験なオージーパイロット、対する零戦隊側は歴戦の熟練パイロットで編成しています。これで勝ったと言っても機体性能云々を語れるデータとしては不十分だと思います。 もし零戦がヨーロッパ戦線で戦っていたら、開戦当初あれ程の連戦連勝を続けられたでしょうか?
- 締切済み
- 歴史
- sindengen9
- 回答数15
- 零戦最強伝説について
開戦劈頭の無敵零戦(零式艦上戦闘機)伝説は、おそらくポートダーウィン上空の航空戦で当時世界屈指の高性能機と謳われたスーパーマリン スピットファイアに圧勝したと伝聞されたからだと思います。英国のスピットファイアはヨーロッパ上空でドイツのメッサーシュミットBf109に勝った、そのスピットファイアに勝った零戦が世界最強という図式です。 でも果たして本当にそうなんでしょうか?零戦がオーストラリアで勝利したスピットファイアは当時は既に旧式となっていたMk. V型でしかも北アフリカから配備された砂漠仕様の機体をオーバーホールしたもの、南太平洋の環境に決して適していなかった。搭乗員は未経験なオージーパイロット、対する零戦隊側は歴戦の熟練パイロットで編成しています。これで勝ったと言っても機体性能云々を語れるデータとしては不十分だと思います。 もし零戦がヨーロッパ戦線で戦っていたら、開戦当初あれ程の連戦連勝を続けられたでしょうか?
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