amenhotep2000 の回答履歴
- 大学で哲学を専攻している者です。
私は今、東京の大学で哲学を専攻しています。1年浪人して滑り止めで合格した大学です。正直、滑り止めですし、哲学など興味はありませんでしたが、授業を受けたり、先輩などから話を伺って物事に対する考え方を学ぶことに興味を持ち始めました。しかし、もともと私は 将来 化粧品会社やアパレル会社への就職という夢がありまして経営や経済学部を目標に大学受験していました。今となっては哲学科に入学してしまっていますが、元から定めていた夢も諦めたくないので、なんとか哲学の知識を化粧品やアパレルへ役立てたいと考えています。そこで、哲学の中で美学 というものがありまして、それを生かせることが可能ではないか?と思いました。また、現代には不可欠だと思いますし、私の夢にも必須でありますので、英語のスキルをあげたいと思い留学を考えています。しかし、私の大学では語学を学ぶために行くとなると休学扱いになり、実質私は浪人していたため2年就職活動に遅れるという形になります。また、経済的に親にも在学費の負担もかけたくありません。そこで休学扱いにならずに留学するには、自分の専攻 哲学を学びに留学しなければなりません。 とにかく、質問をまとめますと、 1.哲学 美学のどういう内容の知識で化粧品、アパレル関係へ役立つことが出来るのか。 2.留学では本格的に、語学に打ち込む方がいいのか、それとも哲学 美学専攻の知識を留学先の大学で習得すべきか。 です。 もちろん、化粧品、アパレル関係特有の知識は接客業などアルバイトなどを通して学びたいと思っています。 ちなみに、留学先はカナダのマギル大学を希望しております。 ご回答よろしくお願いします。
- イラストの印象をお聞かせください。(20)
趣味でイラストを描いています。 印象をお聞かせください。 タイトルは「砂上のピラミッド」です。 一応、マグリットの「「ピレネーの城」へのオマージュです。
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- alterd1953
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- 正しさ
正しさはどのよーにして得られるのか。 正しさはまず目を見開くことによって近づくことが出来る。 そして宇宙の真の姿を見よーとする精神から始まる。 その結果宇宙は無限であることを知るのである。 一方、邪悪な人々は正しいことを恐れるのである。 そして正しさに目を向けず、背を向けるのである。 そして漬かることを選ぶのである。 その結果奇跡を求めるよーになる。 そして預言者を探し、救世主を求めるよーになる。 それから終末がやって来るなどと勝手に願うよーになる。 そして十字架を切ったりする。 パフォーマンスの始まりである。 何も信じてはおらぬ何よりの証拠である。 つまり正しさと向き合う2種類の人間がいるのである。 果たしてどちらが正しい。
- 「音楽」について。
「音楽」について思うことを教えてください。 私は 「音の変化による起承転結と調和によって人間の感情を大きく揺さぶるもの」であると 思っています。
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- alterd1953
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- なぜ私は必要性の高い他人に接触するのか?
なぜ私は必要性の高い他人に接触するのか? あまりにも、この世界は出来過ぎていて、辛いことばかりだけど、最後には必ず救われる。なぜですか? ※ちなみに、最近、私は以下のような意志を持つようになった。 「我が意志は、【地球人類を1つの家族とする事】だ。その為に必要ならば何万ガロンの血も油も流す。これが、私の決意である。何の因果か我が脳には無数の障害があり、それゆえ、健常者には認識不可能なモノさえ認識できる。この我が異常脳の意表的活動能力は、ある意味、芸術品とも呼べる【武器】であり、これを縦横に駆使し、我が意志を達成させるつもりだ。」
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- 認識が存在に先行するか?
1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成る のか? 2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っている のではないか? 3. 人間は モノに還元されるのか? 4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか? 5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。 6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は では どのように存在することになるのか? 7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか? 8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。 9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か? 10. モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。 11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか? 12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。
- 大人社会でいじめは存在しない?
挑発的な題名ですが、他の方の意見で面白いと思うことがあったので、それを展開させてもらいます。まずその考えの要点を、私が咀嚼した範囲でまとめ、言葉の表現を私の頭で練り直して整理し、私の文責として紹介させていただきます。それがアです。次に私の考えをイの項目に書いてみます。 ア いじめは存在しない (1)いじめの定義 まず、いじめとは「健全な子供の発達を妨げる環境要因である」と定義してみます。 子供の認識能力は成熟していません。いじめによって、子供は萎縮するようになり、本来持っていた力が十全に育たなくなります。かつ認識能力が成熟していないので、周囲の悪意に過剰なまでの影響を受け、自殺に至ってしまうこともあります。したがっていじめは悪であり、やめなければなりません。 しかし大人は既に成熟しています。だから発達を妨げられることはありません。また認識能力も成熟しているので、自殺するとしても「いじめ」に影響を受けることもありません。このように考えると「大人社会にいじめは存在しない」となります。 (2)ハラスメントといじめの違い ところが大人の社会では「ハラスメント」が行われているじゃないか?という反論があるかもしれません。これに対しては、「ハラスメント=いじめ」ではないと答えます。 まず大人ならば、嫌ならその環境を移り、やめる自由を有しています。また弱いなら強くなろう、と発想を切り替えることもできます。必要な能力を身につけ、自らを守ったり、反撃することができます。さらに大人の社会には上下関係があって当然です。そこで下の立場にいて抑え込まれているからといって、「いじめ」られていることにはなりません。いじられ、怒鳴られたりしつつも、下は上を支えていると考えることもできます。 かくして再び「大人社会にいじめは存在しない」となります。 (3)「哲」学の力 以上は物理的ないじめに対する反論です。しかしそれでもさらに、高次の段階で自由を妨げるものがあります。それは言葉による干渉です。とはいえ大人であるのなら、それに関わらないという選択肢もあります。あるいは、その理屈を論破し、滅ぼし、自由を勝ち得るという選択肢も持っています。これを可能にするのが「哲」学の営みです。 哲学の「哲」という字を解字すると、手斧の下に口があります。口、すなわち言葉を手斧のように使うということです。言葉という斧を使い、道を妨げるモノを振り払うのが、「哲」学だと考えることができます。そして道を防げるモノをぶっ壊すことは、(仮に大人は「いじめ」を訴え出られないという前提があれば)、自由を獲得するためのやむにやまれぬ行為であり、阻害しておきながら、ぶっ壊れる方が悪いということになります。 こうした自由の享受は、精神の自由であるとして、憲法に定められています。表現の自由を行使し、自らの自由を守ることが日本では認められているのです。 イ いじめは存在する (1)大人も未熟である アの意見は一見、一貫しているように思えます。しかし何か冷たいような気がいたします。その理由は、三つあります。まず大人の誰もが合理的に行動し、嫌なら辞められるとは限らないからです。家族がいれば、仕事と収入が必要です。退職届を出すことは制度上可能でしょうが、現実的に常にそれが可能だとは言えません。 また二十歳になったから成熟したと画一的に考えるのは、あまりにお役所仕事的ではないかと思います。人間には二十歳を過ぎても未熟なところがあり、大人になっても成長し続けなければならない。だから大人になっても、環境に発育を妨げられるという意味での「いじめ」はあるのではないでしょうか。 さらに誰もが哲学を行えるわけではないのです。頭が良い人もいれば、頭が悪い人もいる。頭が良い方がスタンダードと考えるのは、あまりに冷たくないか。 (2)大人は歯車である しかしアが指摘するように、社会は上下関係があって、回っています。すると成長を阻害されることを「いじめ」であるとして訴えてばかりもいられません。下の者が上を支えないとならない。下の方は、じっと忍耐し、「いじめ」られているなどと考えてはならない。歯車として、正確に回ることを考えないとならない。 こうした実際問題を考えると、大人の社会は「いじめなど存在しない。いじめられるというのは、いじめられている側に未熟さがあるからだ」ということになります。そして、この観点から見れば、私が甘い考えを持っているということになるのでしょう。そしてアの人は、いじめられて嫌なら、大人は目の前のものをぶっ壊して自由を獲得できるし、それが権利として認められているからそうせよ、と言うのでしょう。 (3)質問 だけれど、こういうものですか? もっと和気あいあいと成長していける社会をめざしたいなあ。そのためには言葉の暴力を振るうより、「大人の社会にもいじめはある。いじめはやめよう」という方がよいのではないか。すると、みんなで話し合って、調節して、いじめをやめるということもできる。 そのようにすれば、邪魔者をぶっ壊して自由を獲得するなどということもしないで済むようになるのではないか。さらには、言葉という手斧を持って暴れ回るモンスターを社会が生むということも避けられるのではないか。 こうした理由から、私は大人の社会にいじめはあるし、大人でも「いじめられている」と主張してよいと思うのです。 大人社会のいじめをめぐって、ご意見をお願いします。
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- noname#180711
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- 大人社会でいじめは存在しない?
挑発的な題名ですが、他の方の意見で面白いと思うことがあったので、それを展開させてもらいます。まずその考えの要点を、私が咀嚼した範囲でまとめ、言葉の表現を私の頭で練り直して整理し、私の文責として紹介させていただきます。それがアです。次に私の考えをイの項目に書いてみます。 ア いじめは存在しない (1)いじめの定義 まず、いじめとは「健全な子供の発達を妨げる環境要因である」と定義してみます。 子供の認識能力は成熟していません。いじめによって、子供は萎縮するようになり、本来持っていた力が十全に育たなくなります。かつ認識能力が成熟していないので、周囲の悪意に過剰なまでの影響を受け、自殺に至ってしまうこともあります。したがっていじめは悪であり、やめなければなりません。 しかし大人は既に成熟しています。だから発達を妨げられることはありません。また認識能力も成熟しているので、自殺するとしても「いじめ」に影響を受けることもありません。このように考えると「大人社会にいじめは存在しない」となります。 (2)ハラスメントといじめの違い ところが大人の社会では「ハラスメント」が行われているじゃないか?という反論があるかもしれません。これに対しては、「ハラスメント=いじめ」ではないと答えます。 まず大人ならば、嫌ならその環境を移り、やめる自由を有しています。また弱いなら強くなろう、と発想を切り替えることもできます。必要な能力を身につけ、自らを守ったり、反撃することができます。さらに大人の社会には上下関係があって当然です。そこで下の立場にいて抑え込まれているからといって、「いじめ」られていることにはなりません。いじられ、怒鳴られたりしつつも、下は上を支えていると考えることもできます。 かくして再び「大人社会にいじめは存在しない」となります。 (3)「哲」学の力 以上は物理的ないじめに対する反論です。しかしそれでもさらに、高次の段階で自由を妨げるものがあります。それは言葉による干渉です。とはいえ大人であるのなら、それに関わらないという選択肢もあります。あるいは、その理屈を論破し、滅ぼし、自由を勝ち得るという選択肢も持っています。これを可能にするのが「哲」学の営みです。 哲学の「哲」という字を解字すると、手斧の下に口があります。口、すなわち言葉を手斧のように使うということです。言葉という斧を使い、道を妨げるモノを振り払うのが、「哲」学だと考えることができます。そして道を防げるモノをぶっ壊すことは、(仮に大人は「いじめ」を訴え出られないという前提があれば)、自由を獲得するためのやむにやまれぬ行為であり、阻害しておきながら、ぶっ壊れる方が悪いということになります。 こうした自由の享受は、精神の自由であるとして、憲法に定められています。表現の自由を行使し、自らの自由を守ることが日本では認められているのです。 イ いじめは存在する (1)大人も未熟である アの意見は一見、一貫しているように思えます。しかし何か冷たいような気がいたします。その理由は、三つあります。まず大人の誰もが合理的に行動し、嫌なら辞められるとは限らないからです。家族がいれば、仕事と収入が必要です。退職届を出すことは制度上可能でしょうが、現実的に常にそれが可能だとは言えません。 また二十歳になったから成熟したと画一的に考えるのは、あまりにお役所仕事的ではないかと思います。人間には二十歳を過ぎても未熟なところがあり、大人になっても成長し続けなければならない。だから大人になっても、環境に発育を妨げられるという意味での「いじめ」はあるのではないでしょうか。 さらに誰もが哲学を行えるわけではないのです。頭が良い人もいれば、頭が悪い人もいる。頭が良い方がスタンダードと考えるのは、あまりに冷たくないか。 (2)大人は歯車である しかしアが指摘するように、社会は上下関係があって、回っています。すると成長を阻害されることを「いじめ」であるとして訴えてばかりもいられません。下の者が上を支えないとならない。下の方は、じっと忍耐し、「いじめ」られているなどと考えてはならない。歯車として、正確に回ることを考えないとならない。 こうした実際問題を考えると、大人の社会は「いじめなど存在しない。いじめられるというのは、いじめられている側に未熟さがあるからだ」ということになります。そして、この観点から見れば、私が甘い考えを持っているということになるのでしょう。そしてアの人は、いじめられて嫌なら、大人は目の前のものをぶっ壊して自由を獲得できるし、それが権利として認められているからそうせよ、と言うのでしょう。 (3)質問 だけれど、こういうものですか? もっと和気あいあいと成長していける社会をめざしたいなあ。そのためには言葉の暴力を振るうより、「大人の社会にもいじめはある。いじめはやめよう」という方がよいのではないか。すると、みんなで話し合って、調節して、いじめをやめるということもできる。 そのようにすれば、邪魔者をぶっ壊して自由を獲得するなどということもしないで済むようになるのではないか。さらには、言葉という手斧を持って暴れ回るモンスターを社会が生むということも避けられるのではないか。 こうした理由から、私は大人の社会にいじめはあるし、大人でも「いじめられている」と主張してよいと思うのです。 大人社会のいじめをめぐって、ご意見をお願いします。
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- noname#180711
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- あなたの人生は成功者?失敗者?
もし2つのグループに分かれるとしたら、客観的に見て、あなたは成功者?失敗者? 理由をお願いします。 注!成功とか失敗という人生観ではないとか屁理屈並べるかたは回答お控えなすって。
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- adgjmpt456
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- なぜ日本とアメリカの仲がよいのでしょうか
日本語を勉強中の中国人です。最近考えている問題の一つです。 1945年にアメリカは日本の広島と長崎に原子爆弾投下しました。たくさんの命が亡くなりました。しかし、現実では、日本とアメリカは大変仲がよい友人です。お伺いしたいのですが、なぜそういうことができるのでしょうか。 原子爆弾投下のことについて、日本はアメリカに謝罪を求めたことがあるでしょうか。また、アメリカは日本に謝罪をしたことがあるでしょうか。 日米が友人になった私なりの未熟な考え方ですが、どちらが真実に近いのでしょうか。 1.アメリカは強者だ。強いものには頭が下がる。本心で友人になった。 2.戦後アメリカに占領された経緯があったので、しかたがなく友人になった。 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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- awayuki_cn
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- 新しい正義とは?
私思ったのですが 考えていた頃は 宗教じゃないんだから倫理のことなどには口を出すまいと 思っていました。 しかし今 もう倫理のことを書かないと理解してくれないと思いました。 私は正義が失くなった理由が気になるのです 昔は正義、正義と子供達は口にして 行動の指針にしてました それがなくなった今 なにか不秩序な 何を信じていいのかわからない いじめや欝や 不安や人権違反のオンパレードが始まているように見えます。 気に入りませんねえ。 そこで私は 我々が見失った「義」と言うものをもう一度求道したいと思います。 義とは 存在を追求することです。存在する為の最も有効な考えや行いが「正義」です。 そう考えてみます。それは頭にはあったのですが やむを得ず倫理に言及します。 存在する事が目的であり その為の行いが義です その一番正しい方法が正義です。 どうでしょうか?このような考えが理解されるでしょうか?
- 中国の「反日教育」とは(中国人よりの質問)
日本語を勉強中の中国人です。日本の皆様にお伺いします。中国の「反日教育」とはどのようなものなのか、教えていただけないでしょうか。率直な意見を歓迎いたします。 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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- awayuki_cn
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- 中国の愛国主義教育の本質
日本語を勉強中の中国人です。中国が子どもの小さいときから実施している愛国主義教育の本質を知りたいと思います。なぜ愛国心、中国を愛するということを強調して教育しなければならないのでしょうか。辛口のご意見でもかまいませんので、教えていただけないでしょうか。 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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- awayuki_cn
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- アガペーとフィリアはそんなに違いがありますか?
ヨハネによる福音の次のくだりで アガペーないし動詞のアガパオーとそして フィリアないし動詞のフィレオーが使い分けられているのでしょうか? その解説をしてくださる方は いますか。 すでに死後において復活したイエスが ペテロらと話しています。ペテロに向かって 《わたしを愛しているか》と三度たずねています。二度目までは《アガパオー》を用い三度目には《フィレオー》で表わされているようです。 ちなみにペテロは 三度ともフィレオーで答えています。 この事情について何か特別なことがありましょうか? ▲ (ヨハネ福音21:15-17) ~~~~~ 15: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛している( ἀγαπᾷς με アガパース メ)か」 と言われた。ペトロが、 「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε フィロー セ)ことは、あなたがご存じです」 と言うと、イエスは、 「わたしの小羊を飼いなさい」 と言われた。 16: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/16 二度目にイエスは言われた。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( ἀγαπᾷς με )か。」 ペトロが、 「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことは、あなたがご存じです」 と言うと、イエスは、 「わたしの羊の世話をしなさい」 と言われた。 17: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/17 三度目にイエスは言われた。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( φιλεῖς με フィレイス メ)か。」 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことを、あなたはよく知っておられます。」 イエスは言われた。 「わたしの羊を飼いなさい。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ まとめ: イエス・・・・・・・・・・・・・ペテロ _________________ 一度目:ἀγαπᾷς με―― φιλῶ σε lovest thou me ―― I love thee (KJV) わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している(新共同訳) 二度目:ἀγαπᾷς με――φιλῶ σε lovest thou me?―― I love thee わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している 三度目:Φιλεῖς με――φιλῶ σε Lovest thou me?―― I love thee わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している ☆ 質問者に成案はありません。したがってたたき台はありません。 分からないなりに思うことは: ( a ) 三度問いかけることが重要なのではないか? 内容が確立する〔ため〕という意味において。 ( b ) だから アガパオーとフィレオーとはどちらでもよいのではないかという見方ですが それにアガペーは 人間のチカラでおこなえる愛ではないとすれば なおさら どちらでもよい思われます。 ( c ) でももしふたつの語に違いがあるのなら キリスト・イエスは そのことについて何らかのかたちで留意するようにとうながす意味で使い分けた恰好になっているのかも知れない。 ( d ) ただし イエスらが実際にはギリシャ語で話すことはなかったであろうから あくまで物語として聖書記者はそのように表現の使い分けをおこなった。 以上ご教授ください。
- 中国の愛国主義教育の本質
日本語を勉強中の中国人です。中国が子どもの小さいときから実施している愛国主義教育の本質を知りたいと思います。なぜ愛国心、中国を愛するということを強調して教育しなければならないのでしょうか。辛口のご意見でもかまいませんので、教えていただけないでしょうか。 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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- awayuki_cn
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- 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう? ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13 ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends. ・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。 (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか? (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか? (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか? (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか? (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?) (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか? (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。 すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。 これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。 (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。 ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11 ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep. ・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων ~~~~~~~~ ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。 よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか? (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。 ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~ 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。 ~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか? (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか? ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~ イエスは答えられた。 「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか? ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~ わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 ▲(同上 10:18) ~~~~ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか? (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか? (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか? 以上よろしくご教授ください。
- 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう? ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13 ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends. ・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。 (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか? (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか? (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか? (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか? (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?) (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか? (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。 すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。 これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。 (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。 ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11 ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep. ・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων ~~~~~~~~ ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。 よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか? (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。 ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~ 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。 ~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか? (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか? ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~ イエスは答えられた。 「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか? ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~ わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 ▲(同上 10:18) ~~~~ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか? (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか? (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか? 以上よろしくご教授ください。
- 今日本社会に足りないものはなんでしょうか?
日本社会は海外から評価されることもありますが 昔と比べて(60年代~80年代とか) 何か足りないような気がします 幾つもあるのかもしれませんが リストラやうつ病が増える今の社会 何が足りないのでしょうか? 景気が悪いのでしょうか?愛が足りないのか?正義がなくなったのか?礼儀がないのか? 信じあう気持ちがなくなったのか?兄弟姉妹が少ないから関係が悪いのか??? 何か足りないと思うのですが 何でしょうか? よかったら的を射てください よろしくお願い押します。
- 利他って何ですか?
1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか? 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか? 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか? 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか? 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか? 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか? 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか? 広く自由なご見解をお寄せください。