amenhotep2000 の回答履歴
- 信仰とは?
私はクリスチャンではないのですが 高校の時に四福音書を読みました 日本ギデオン協会?が新約聖書を高校で配ったからです。 しかしイエスの復活が信じられなかったので他は黙示録とか創世記とかを読みました しかし此処に至り 読めるうちに使徒行伝も読んでみようと思って読んでいますが メシアでもないのに奇跡が続出 死人は蘇り 病気は治り こりゃなんだと思いました。 しかしクリスチャンはこの信じ難き事を信じるほどの信仰を持たねばなりません 私も解釈改憲じゃないですが こういう意味だろうかああ言う事だろうかと 首を捻り捻り読んでいますが、どうにも信仰がないため分かりません。 世界には数億のいや十数億のクリスチャンがいるでしょうけど その人たちはこれを信じているのでしょうか? バスが土砂に埋まったとき 遭難や地震(阪神淡路、東日本等)後藤さん湯川さんの時も 及ばずながら祈りましたが 祈りは一度も通じません 私だけが祈ったのでしょうか? 多くのクリスチャンも祈ったはずです。しかし結果は何時も祈り虚しく・・・ そしてたまに祈りと現実が一致したら「奇跡的に」「奇跡だ」と言って喜びます。 果たしてこの様な信仰 クリスチャンに限らず 神頼みの信仰は何のためにあるのか? それは己の心を強く持ついために在るのではないでしょうか? しかしその反面 祈るばかりで現実に出来ることを諦めて 今は皆で祈りましょう と 言うこともよくあります。 これは思考停止にもつながります。行動しながら祈るのが一番なのです 「天(神)は自らを助くるものを助く」と言います ところがその結果 突出したのがアメリカです。USAです。 それはクリスチャンが投票してるとはとても思えないような軍事力と資本主義 格差社会と大国のエゴ そして権利の主張と裁判の数です。 他にも宗教は仏教系、神道系、イスラム系、新興宗教も日本でも見られますが 信仰とは一体何でしょうか?死人が蘇ると信じる事?祈るより他無い時に頼るもの? 皆で一つの教えを信じて仲間になること? しかし宗教内部でもそうそう仲が良いばかりではありません。 かと言ってマルクスのように信仰を否定すると 信仰と共に在った道徳・倫理や教えまで 一緒にかなぐり捨ててしまいます。 その結果が粛清だったりしますし。 一体現代、現在に生きる我々は 何を信じるべきでしょうか? 科学? 人間? 愛? お金? 神? 家族? 自分の心?・・・ 人は全く何も信じないでは行動できません。足元に大地があるだろうと信じて 足場が壊れないことを信じて歩き、生きているのです。 哲学として皆さんが考えた結果 これは信じられるというものはなんですか 信仰の対象とできるのはなんでしょう? 皆さんの日頃思うところを教えていただけると有難いです。 我々は何を信じればいいのでしょう? コギトでもイデアでも 真心でも愛でも 言葉でも理性でも何でも来いです。 どうか教えて頂きたいm(_ _)m
- 神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか?
聖書ですか? 聖書にもとづき人が言ったんですか? だとしても どうしてその見解にわれわれ一般の人間が従わなくてはならないのですか? 全知全能というのは そうだとしても ただの属性でしょう。 創造主だというのは そのように物語を描いて表現したに過ぎないことでしょう。 何で調子を合わさなければならないのですか? 神は 神でしょう。
- イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある。
(あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。 言いかえると (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。 (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。 (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は 《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。 (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。 どうでしょう?
- イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある。
(あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。 言いかえると (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。 (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。 (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は 《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。 (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。 どうでしょう?
- 絶対有と絶対無とは同じである。
一口メモによる情報交換です。 相対と絶対。 経験世界と非経験の場。 変わりゆくものごとと変わり得べからざること。 経験事象としての有ると無い。 これを超えるものとしての絶対は 有ると言っても無いと言っても どちらも当てはまる。 自由なご見解をお示しください。
- 精神は 神ではない。
一口メモによる情報交換です。 精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。 しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。 よって 精神は 神ではない。 自由なお考えをお寄せください。
- 精神は 神ではない。
一口メモによる情報交換です。 精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。 しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。 よって 精神は 神ではない。 自由なお考えをお寄せください。
- コインキデンチア・オッポシトールム
・ coincidentia oppositorum ・ coincidence( unity ) of opposites ・ 対立物の一致(合一・統一) これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。 この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。 中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。 ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~ ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。 ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。 ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。 ただし ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。 ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。 ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは ▲ 無限の中では ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。 * たとえば (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。 といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。 (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。 と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。 * あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?) これは 一般に (γ‐1) 矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。 とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか? またもしその (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。 といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。 * この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで (δ) 絶対矛盾的自己同一 という表現として打ち出されたそうです。 このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。 (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。 とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。
- コインキデンチア・オッポシトールム
・ coincidentia oppositorum ・ coincidence( unity ) of opposites ・ 対立物の一致(合一・統一) これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。 この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。 中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。 ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~ ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。 ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。 ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。 ただし ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。 ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。 ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは ▲ 無限の中では ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。 * たとえば (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。 といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。 (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。 と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。 * あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?) これは 一般に (γ‐1) 矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。 とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか? またもしその (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。 といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。 * この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで (δ) 絶対矛盾的自己同一 という表現として打ち出されたそうです。 このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。 (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。 とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。
- コインキデンチア・オッポシトールム
・ coincidentia oppositorum ・ coincidence( unity ) of opposites ・ 対立物の一致(合一・統一) これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。 この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。 中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。 ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~ ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。 ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。 ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。 ただし ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。 ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。 ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは ▲ 無限の中では ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。 * たとえば (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。 といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。 (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。 と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。 * あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?) これは 一般に (γ‐1) 矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。 とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか? またもしその (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。 といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。 * この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで (δ) 絶対矛盾的自己同一 という表現として打ち出されたそうです。 このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。 (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。 とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。
- 倫理を勉強することの意味
たとえば、センター試験などもしくは現在は高校などに教科書があるのかもしれないですけど。 あるその内訳みたいなものを見ると ・大きな宗教 ・西洋哲学 ・日本の価値観 ・現代の問題 などで編集されてました。 他にも宗教系の大学や哲学科などで勉強するということは、物事の善悪や真善美(主に真理など)判断を他律ではなく、自律で一定の判断力があるということになるのでしょうか?過去に考えられた道徳、倫理を一通り最低限ではあるものの知っていることにはなると思うのですけど、これってどの程度善悪判断には有効なのでしょう。 もし、あくまで善悪の基準は相対的であって他律的にムードや空気で多数決で善悪など決めていくと、ヒトラーの演説といっていいのか?刺激を与えてその場の人など支持を多数得て、悪が正しいということにもなりうるものなのかとも思えます。流されている陪審員のみで決めている裁判のようにも思えます。 マーケティングのゴールデンアロー戦略のブラックアロー版ではないですけど、刺激で周囲の陶酔を誘うのがうまい人っていると思います。 上記のポピュリズムの傾向が悪いとすると社会的に一定数勉強している人が必要なのかもしくは全員やはり勉強すべきものなのか。どうなのでしょう?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#209756
- 回答数8
- 歴史的事実 先大戦について
特に先大戦の時のことが詳しくわかりません。大日本帝国の所業、戦勝国側の所業、どの国を責めるというわけではなく、ただあった事実を明らかにしてほしいと思っています。そういう知識があって、現代とこれからのことを考えたいと思うのですが、各国見解の相違が大きく、思惑を含ませて歴史を語るので、どれが本当にあったことなのかが私には見えません。 何かアドバイスや知識を教えていただけたらと思います。
- 歴史的事実 先大戦について
特に先大戦の時のことが詳しくわかりません。大日本帝国の所業、戦勝国側の所業、どの国を責めるというわけではなく、ただあった事実を明らかにしてほしいと思っています。そういう知識があって、現代とこれからのことを考えたいと思うのですが、各国見解の相違が大きく、思惑を含ませて歴史を語るので、どれが本当にあったことなのかが私には見えません。 何かアドバイスや知識を教えていただけたらと思います。
- 魂に含まれるものは何ですか?
魂は存在しないんじゃないかなと思っています。 しかし、もし魂が存在したらそれに含まれるものは何でしょうか? もし、自分が死んで、来世があるなら魂が転生するのでしょう。あるいは天国に行くのかもしれません。あるいは極楽浄土か? 転生するにせよ、天国に行くにせよ、それが自分でなかったら意味がないですよね。 そこで魂を構成していて、これが自分固有のものであって他人と違うものは何なのか知りたくなりました。 記憶は脳に蓄えられているようです。そうしてみると死んで脳がなくなれば失われるでしょう。 性格も脳によるものみたいです。脳手術をすると性格が変わることがあるとか。 思考能力も脳に依存しているでしょう。 魂はおそらく目が見えないと思います。魂はみえない。見えないということは光が透過するということで、光をキャッチしてとらえることができない。光の情報を受けることができない。 そうするとおそらく他の感覚も持たないのでしょう。 まとめると、記憶、思考、性格、知覚は魂に含まれないと思われます。 魂を構成するもので「これが自分だ!」というものは何なのでしょうか?
- 若者の哲学離れは良い事なのか?否か?
最近の若者は思想がないようです。 哲学とか言うとなんか気持ちの悪い話の様に思う人が多いようです 我々の頃は倫理社会という教科で哲学の話も勉強しましたが 今は現代社会にほんの一部紹介されてる程度で 根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。 情報だけは溢れるように在る様で PCどころかタブレットやスマホで 色んな情報が手に入ります。 このような状態では 政治がまた戦争もやると言えば それに反論する思想はないかもしれません。 公明党まで自民党の路線に反対できません。 もう哲学は不要なのでしょうか? 理想などいらないのでしょうか?
- マ(間合い)の理論⇒マを取る⇒芸術といういとなみ
マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。 そして マをうまく取ると ひとは我れに還る。我れに還った状態というのは たましひがやすらかで 身と心とがすこやかであることだ。 では マをうまく取るというのは どういうおこないか? 一般に 《たましづめ(魂鎮め)》だと考えられる。しかもこれには 魂振りと狭義の魂鎮めとがあるはずだ。 静かなたましひを保つために 人は互いにまづ先に魂振り・すなわちツッコミをおこなう。ここからマの取り戻しが始まる。 ちなみに このツッコミをいくらおこなっても相手が反応してくれないときには こちらは手に負えなくなる。交通渋滞が起きる。現代人の悩みは これである。 この交通渋滞としてのマのチガイや抜けを 元に戻す魂鎮めなる行為は 一般に芸術がになうのである。 芸術とは たとえてみれば尺八や法螺貝のひと吹きによって 世界が その今の舞台としてどんでん返しに遭ったごとく 変わるそのきっかけのことである。 この仮説にもとづき 芸術のになう《癒し》の具体的なあり方を哲学してください。 また この仮説じたいについてのご批判をも寄せてください。 芸術の担う癒しないし魂鎮めのキッカケは 一般に美である。この美については それが人それぞれの美学のもとにあることを 次の質問で尋ねました。 【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8918609.html そして 音楽の美については 次の質問で問い求めています。 【Q:音楽って何のためにあるの?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8902931.html 芸術の全体をまとめて述べてくださってもよいですし 個別に音楽や絵画等の具体的なコトゴトについて明らかにして行く作業も 歓迎します。 要するに あなたの美学をご披露ください。 ○ よろしかったら 次の マの理論を参考にしてください。 (α) ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。 (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。 (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。 (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。 (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか? (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。 (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。 人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。 (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか? (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか? (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか? (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか? (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか? (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか? (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか? (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか? (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか? (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。 ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~ 鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。 (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味 のようです)。 〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。 間はただのうつろなる時間と空間ではない。 実は生命の蓄積されるおりめなのだ。 (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してくださっても 歓迎です。感想だけでも よろしいです。
- 音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?