amenhotep2000 の回答履歴
- 学問は唯物論と観念論で構成されていますか?
すべての学問は唯物論か観念論か、その両方にまたがってると考えてよいですか? もし、唯物論でもなく、観念論でもなく、またその両方から構成されるわけでもない学問があれば教えてほしいとおもいます。 質問1:学問をA、唯物論をM、観念論をIとした場合、命題「A=M∪I」は真ですか? 質問2:上記の命題が真でない場合、どの学問がM∪Iではないのですか?
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- 哲学・倫理・宗教学
- Mokuzo100nenn
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- 「我」と「気」の違い
我が強い人は気が強いのでしょうか? 私の知り合いの多くの我が強いなと思う人の特徴は以下です。 ・とにかく(人の話を遮ってまで)自分の話ばかりする ・知識量が豊富 ・初対面でも仕切りたがる ・(これらのことから)自分は肯定されたい、そうされるべき、だと思っているようだが他人に対しては否定の方が多い。 こんな感じですが、これらは「自分に自信がある」ことや「気の強さ」からくることなのでしょうか? エネルギーの弱い我が強い人もいると思いますし、逆にエネルギーが強くとも我が弱い人もいるかと思います。 自分(我)を押し通すのはエネルギー(気)なのでしょうか。 それとも別のものなのでしょうか?
- 【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは
【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?
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- 哲学・倫理・宗教学
- sonicmaster
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- 自分を愛せない人は他人も愛せない って本当?
何時頃か「自分を責めて、嫌いになっては行けない 自分を愛せない人が、他人を愛せる筈がない」 と言う様な事が言われ始めました。 これは本当でしょうか? 自分を責めすぎて自殺してしまう人もいます これはちょっと責め過ぎですが 我々の世代は 命を懸けるほど平和を願ったり 愛を信じたりする人もいました。 命懸けで、人生を賭して人を愛し、真実を求めていました。 自分を責め過ぎて 自分が嫌いになった人に救いの手を伸べる様なこの言葉 キリスト教的には 自分を愛するように、他人も愛しなさい。 とあります。隣人愛です。 しかし最も強い愛の一つ 母性愛は 自分は犠牲になっても子供たちを守りたい という、これには当てはまらないような愛です。 愛って何でしょうか? 自分を愛せない人は 他人を愛する資格がないのでしょうか?
- 今の若者に(現代に)哲学は必要か?
最近の若い人はと ローマ時代から?言われてたそうですが 30代の人に聞いたら 自民党と共産党の違いもわからないと言う 哲学の言葉を使うと「〇〇さんは学生運動の世代なんでしょ?」と これまた見当違いな事を言う人達 若い人達がこれで 将来はどうなるのだろうか? 政治や宗教の話も 否定や批判ばかりで 結論らしきものが出ないし まず話が劣化しています。 これからの若い世代が倫社も学ばない人も多く 哲学もしないとすれば 理想とか夢はみな、お花畑として否定され 現実はちっとも良くならないのではと危惧します それとももう哲学は必要ないのでしょうか? 私も「哲学」という学問は何だか柔軟性がなく 融通が利かない気がします。 この難しいばかりで役に立たない哲学は、もう要らないものとして 消え去ろうとしているのでしょうか? 哲学が結論を出していかない事が役に立たない理由でしょうけど 方便でもいいから今の時代を救う結論を出していくべきなのではないでしょうか? 皆さんどう思われますか?
- 今の若者に(現代に)哲学は必要か?
最近の若い人はと ローマ時代から?言われてたそうですが 30代の人に聞いたら 自民党と共産党の違いもわからないと言う 哲学の言葉を使うと「〇〇さんは学生運動の世代なんでしょ?」と これまた見当違いな事を言う人達 若い人達がこれで 将来はどうなるのだろうか? 政治や宗教の話も 否定や批判ばかりで 結論らしきものが出ないし まず話が劣化しています。 これからの若い世代が倫社も学ばない人も多く 哲学もしないとすれば 理想とか夢はみな、お花畑として否定され 現実はちっとも良くならないのではと危惧します それとももう哲学は必要ないのでしょうか? 私も「哲学」という学問は何だか柔軟性がなく 融通が利かない気がします。 この難しいばかりで役に立たない哲学は、もう要らないものとして 消え去ろうとしているのでしょうか? 哲学が結論を出していかない事が役に立たない理由でしょうけど 方便でもいいから今の時代を救う結論を出していくべきなのではないでしょうか? 皆さんどう思われますか?
- 男と女(その三)
聖書でパウロがいわゆる男尊女卑にあたる性関係論を展開したかのように受け留められているくだりを取り上げて アウグスティヌスが《男と女》を論じている文章をまづ掲げます。 問いは 単純に言えば これを批判またはさらに展開 してくださいです。 ▼ (アウグスティヌス:性差について) ~~~~~~~~ 使徒(パウロ)は 男は神の似像(にすがた)であり 栄光であるから 頭に蔽いを被ってはならない。 しかし女は男の栄光である。 (コリント前書11:7) と 男は神の似像であり したがって女には被るように勧めるその蔽いを頭から取り去るように語っている[・・・]。 しかし[・・・]『創世記』で 神は人間を創られた。神の似像によって人間を創られた。 彼らを男と女に創られ そして彼らを祝福された。 (創世記1:27-28) と書かれていることに どうして矛盾しないのか[・・・]。 [・・・]思うに[・・・]次の理由による。 女はその男と共に人間のこの実体全体が一つの似像となるように神の似像である。 しかし女はかのじょ自身だけの場合 男の助け手として考えられるから 神の似像ではない。 ところが男は自分自身だけで 女と結合して一つのものになったときと同じように 十全かつ完全な神の似像である。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論 12・7 中澤宣夫訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 名誉のために 平等を説いているところも 載せます。 ▲ (パウロ:両性の平等) ~~~~~~~~~~~~~ あなたがたはみなキリストに在る信仰をとおして神の子らである。 [・・・]もはや 男も女もない。 あなたがたはすべてキリスト・イエスにおいて一つのものである。 (パウロ:ガラテア書 3:26-28) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 逆に言えば 《信仰において 共に一つのものであるときにこそ 男と女は 差異はなく 平等である》が そうでないときには(=女がひとりでいるときには) 女は神の栄光であるところの男の栄光であって いわば霊的に一つになる必要があるとなるのでしょうか。 ちなみに 共産主義も 《婦人の共有》といったことを打ち出していたようですが これも 《婦人の〈霊的な〉共有》といったところでしょうか。 ところで このパウロ≒アウグスティヌスの命題について あたらしい解釈を得ましたので これを問います。 つまり次のように読み直すなら 現代人も――したがっていつの時代の人間も――納得が行くのではないか。 (α) ひとは神の似像(にすがた)であり 栄光であるから 頭に蔽いを被ってはならない。 しかし男とそして女とは――それぞれその性差から 来る現象面におけるちがいがあることには何らかかわら ず―― ともに人間の栄光である。 ☆ 《あたまにベールをかぶる》というのは ひとつに《真実を伏せて公表しないこと》だと捉えます。 《権威と権力にさからってはいけないと思うこと》であり 《たとえ学問じょう重要でありじっさいにも公益があっても自分のをふくめた面子にこだわりその真実が相手に失礼になると思えば 明らかにすることを控えること》だと捉えます。
- 私たちの世界に永遠は存在するか?
天文学によると私たちの住んでいる宇宙は約138億年前に誕生したそうです。 その前には私たちの住んでいるこの宇宙は存在しなかった。 そうすると、どんなに長く存在しているものであっても138億年しか経過していないことになります。138億年は長い時間ですけど永遠ではないですよね。 そうすると、現時点では永遠なものは存在しないことになります。 では、将来に永遠なものが誕生するかというと、それもないでしょう。 どんなに将来になっても、今から何年後というどこまでも有限な時間しか存在しないと思います。 私たちとは別次元の宇宙が存在して、そこには永遠があるということはあるかもしれませんが、私たちが住んでいるこの宇宙には、現在まで永遠は存在しないし、将来にも存在することは無いと言えるのではないでしょうか? 皆様はどのようにお考えになりますか?
- もし 人間に考える能力がなかったら
キリスト教では 考えることは罪であるとされている。神のみが全知全能であり、人間は限られた知性を持っているとされています。そこで人間に思考力がないとしたら、みなさんが普段考えていることは何なのでしょうか。どのように人間が自信を持つことができるでしょうか。
- デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?
コギトする《われ》というのは あたかも《霊我=アートマン》であったか? という問いです。その問いの内容についての確認です。 すなわち デカルトみづからが その《考えるわれ》は 《非物質的な実体(英訳ですが an immaterial substance / incorporeal )》と書いたと言います。 これについて詳しい情報をお持ちの方がいらしたら おしえてください。 またこれだけの情報についてでも ご見解がありましたらお寄せください。けっきょく 《物自体》のようなものだと考えられるようではないですか? と問いたいといった意味合いになります。つまり アートマンです。神の霊です。 ▼ (デカルトは 《考えるわれ》は 非物質的なものだと書いた) ~~~~ Bruce W. Hauptli (2012):Appendices to Lecture Supplements on Descartes' Meditations http://www2.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDescartes%27Meditations.html On November 14, 1640 Descartes writes to Andres Covius, a Dutch Minister who brought Augustine’s argument to his attention: (あ) you have obliged me by bringing to my notice the passage of Saint Augustine which bears some relation to my “I think, therefore I am.” (い) Today I have been to read it at the library of this city [Leiden], and I do indeed find that he makes use of it to prove the certainty of our being, and then to show that there is in us a kind of image of the Trinity, in that we exist, we know that we exist, and we love this being and the knowledge that is in us. (う) On the other hand, I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal. These are two very different things…. (13a ) * 13a : From Rene Descartes: Philosophical Essays and Correspondence, ed. Roger Ariew, trans. Roger Ariew and Marjorie Grene (Indianapolis: Hackett, 2002), pp. 90-91. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (1) この(い)でデカルトが確認しているアウグスティヌスの議論については お手数ですが 次の質問の趣旨説明欄をご覧ください。 【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html (2) 問いは 具体的に次の発言をめぐってになります。 (う) 《考えている〈われ〉は 〔ひとつの(?)〕非物質的な実体( an immaterial substance )である。つまり 〈形体が無い・霊的 incorporeal 〉という意味合いである。》 (3) なお細かいことですが 論者として挙げられているR.ソレンセンによると: (大意) デカルトは前掲の(あ)で コギトをめぐるアウグスティヌスの関連する議論を知らなかったという態度を見せているが それは デカルトがカトリック系イエズス会のラフレーシュ学院を出ているからには 考えられない。 ( Descartes claimed that he had never heard of Augustine’s cogito. Descartes’s Catholic education at La Flèche makes this unlikely. ――Roy Sorensen, A Brief History of the Paradox (Oxford: Oxford U.P., 2003), pp. 170-171) のだと言います。 以上 実りの多い情報交換ができればさいわいに存じます。
- 聖のイメージについて
聖は、例えば仏画、仏像、イコン、聖画、その他偶像においては、若い男女の像を、金銀、宝石などによって豪奢に飾りつけているのが多く見られます。教会や寺院もまた巨大で種々の彫刻で飾られています。また、イスラム教のように、文字そのものをイコンとして様々な書体で飾る習慣もあります。 一方で、それらに対するアンチテーゼのように、質素な身なりをした壮年や老年の僧侶を模した彫像も、比率としては少ないですが存在します。 さて、前者よりは後者の方が現実的であると私は思いますが、それはそうとして。。 これら聖に対するイメージの源泉は一体なんであるでしょうか?また、これらのイメージは、有益なものでしょうか? これらのイメージに導かれて、聖に向かうということがあるでしょうか? 以上を質問内容とし、皆様のご見解を募ります。
- 絵画の名前と作者名を教えてください
雲をつかむような話ですみません。 一度目にしただけなんですが、たぶん有名な絵画だと思うのです。 それは、(暗い)大海原を小舟に一人で必死に漕いでいる(または、脱出しようとしている)場面の描写です。タイトルも何かから脱出しようとしてる感じのものだったと思います。 視点は、後部斜め上空からで、荒れた広い海面8,9割の割合と小舟が描かれている。とても印象深い絵画なのですが、もしお分かりなっている方または、調べ方の知っている人がいましたら、お手数でもぜひ教えてください。 よろしくお願いいたします。
- 締切済み
- 絵画・イラスト・デザイン
- kengujin07
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- デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?
コギトする《われ》というのは あたかも《霊我=アートマン》であったか? という問いです。その問いの内容についての確認です。 すなわち デカルトみづからが その《考えるわれ》は 《非物質的な実体(英訳ですが an immaterial substance / incorporeal )》と書いたと言います。 これについて詳しい情報をお持ちの方がいらしたら おしえてください。 またこれだけの情報についてでも ご見解がありましたらお寄せください。けっきょく 《物自体》のようなものだと考えられるようではないですか? と問いたいといった意味合いになります。つまり アートマンです。神の霊です。 ▼ (デカルトは 《考えるわれ》は 非物質的なものだと書いた) ~~~~ Bruce W. Hauptli (2012):Appendices to Lecture Supplements on Descartes' Meditations http://www2.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDescartes%27Meditations.html On November 14, 1640 Descartes writes to Andres Covius, a Dutch Minister who brought Augustine’s argument to his attention: (あ) you have obliged me by bringing to my notice the passage of Saint Augustine which bears some relation to my “I think, therefore I am.” (い) Today I have been to read it at the library of this city [Leiden], and I do indeed find that he makes use of it to prove the certainty of our being, and then to show that there is in us a kind of image of the Trinity, in that we exist, we know that we exist, and we love this being and the knowledge that is in us. (う) On the other hand, I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal. These are two very different things…. (13a ) * 13a : From Rene Descartes: Philosophical Essays and Correspondence, ed. Roger Ariew, trans. Roger Ariew and Marjorie Grene (Indianapolis: Hackett, 2002), pp. 90-91. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (1) この(い)でデカルトが確認しているアウグスティヌスの議論については お手数ですが 次の質問の趣旨説明欄をご覧ください。 【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html (2) 問いは 具体的に次の発言をめぐってになります。 (う) 《考えている〈われ〉は 〔ひとつの(?)〕非物質的な実体( an immaterial substance )である。つまり 〈形体が無い・霊的 incorporeal 〉という意味合いである。》 (3) なお細かいことですが 論者として挙げられているR.ソレンセンによると: (大意) デカルトは前掲の(あ)で コギトをめぐるアウグスティヌスの関連する議論を知らなかったという態度を見せているが それは デカルトがカトリック系イエズス会のラフレーシュ学院を出ているからには 考えられない。 ( Descartes claimed that he had never heard of Augustine’s cogito. Descartes’s Catholic education at La Flèche makes this unlikely. ――Roy Sorensen, A Brief History of the Paradox (Oxford: Oxford U.P., 2003), pp. 170-171) のだと言います。 以上 実りの多い情報交換ができればさいわいに存じます。
- ヒラメキとは 天使のことかなぁ。
この質問は 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html の余滴です。 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。 どうでしょう?
- ヒラメキとは 天使のことかなぁ。
この質問は 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html の余滴です。 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。 どうでしょう?
- ヒラメキとは 天使のことかなぁ。
この質問は 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html の余滴です。 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。 どうでしょう?