kanto-i の回答履歴
- 一生懸命に生きて、死ぬこと。
こんにちは。 哲学と言うよりは、人生哲学の質問です。 私は、一生懸命生きることの勇気が持てないでいます。 しかしながら、日々を過ごす中で、或いはここで皆さんと話す内に、自分の消極性に気付き、このままではならないと思うようになりました。 単刀直入にお尋ねしますが、人生とは、如何に生くるべきでしょうか。 どうぞよろしくお願いします。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#181644
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- 私が取り組みたい課題の参考になるものを探してます
はじめて質問を投稿します。 大学のゼミで私が日頃考えている問題について発表するのですが、なにか参考になる書籍や論文、もしくは私の考えと類似した問題意識を持つ人などなんでも結構なので教えていただきたいと思い質問しました。尚カテゴリ選択に悩んだのですが私の所属するゼミは人文科学系で教授は哲学の専門家なのでこちらで質問させていただきます。カテゴリ違いだと思われた場合はその旨ご了承ください。 それで肝心の私の問題意識についてですが、テーマは「インターネットによる効率的な情報収集と未知との縁の喪失について」というものです。 例えば学校教育(特に義務教育課程など)では教養や知識や情報は一方的に与えられる、言わば学ぶ者は受動的な姿勢であるということになります。対してインターネットなどの検索技術を用いた情報収集では学ぶ者はあらかじめ検索対象への興味関心を持っている、つまり調べたい事柄の「なにか」をもともと知っていることになりその上学ぶ者は能動的な姿勢である、ということが言えます。 これらの何が問題かというと後者は興味関心を「深める」役割を担っている一方で興味関心そのものを「広げる」ことが(不可能とは断言できないまでも)困難であり、もしもインターネットへ過剰に傾倒する者がいたならば彼は自身の関心事については驚異的な知識量を有するがそれ以外は何も知らないという「象牙の塔」的状況が生まれ、彼は自分が全く知らない未知との縁を喪失していることになります。(極端な例を出せば、仮に彼がチェスを好む傾向を持っていたとしてもチェスというゲームの存在を知る機会【縁】が無ければ彼はチェスに興じることはない。) 多少オーバーに書いてしまいましたが能動的な学びの姿勢を持っているがゆえに招きかねない上記の事例、未知との縁の喪失というものに私は問題があるのではないかと感じています。 もっといろいろな例え方(SNSや動画サイトやネット記事など)がありますが長くなりすぎるのも問題だと思うのでこれ以上は自重します。 上記の私の問題意識に近いことが書かれているような書籍や論文、もしくはこのような問題に言及している人物など、なにか参考になりそうなものを教えてください。尚ゼミの教授に相談したところ「多くの人と議論を交わして自分の考えを濃密にすることも重要だ」と言われたので、私の問題意識についての意見もくださると幸いです。
- 《壁にぶつかるからムリ・・・》
●投稿15回目・・・・《5000時間仮説》と呼ばれる《仮説》があります・・・誰でも《5000時間》ひとつのことを練習すれば、そのことに《熟達する》考えです・・・けれど、この考えには疑問があります。例えば《ピアノ》・《スポーツ》・《英会話》を続けている人でも途中でやめてしまう人が多いからです。何故やめるのか、一概には言えないのですが・・・《壁》にぶつかる、《壁》にぶつかってしまうからやらなくなる、やらなくなるから《続けられない》・《5000時間仮説》は、難易度高くないですか?
- 疑う事と信じる事 どちらが大事?
勿論一概には言えないと思います 哲学や科学などの学問には疑う事は何より大切な事かもしれません 疑うことによって真実に近づけるのだと思います しかし現実を生きる時 人を疑い 運命を疑い 自分を疑っていたら生きていけません ある事は疑い哲学となり ある事は信じて宗教となり 信念となり。 荀子の性悪説や孟子のの性善説も疑うか信じるかと言うことでしょう? あまり大きく考えると分からなくなるので この性悪説と性善説を含めて 人間とは疑うべきものか 信じるべきものか? を中心に全体に疑うことと信じる事 未来を開く為にはどちらがカギとなるか 疑い疑い抜いて真理に近づくべきか 信じて信じ抜いて平和な未来を実現すべきか 意見を聞かせてください よろしくお願いします。
- 欧米人の感覚を味わいたい
欧米人の多くは基本自分主体で物事を考えると聞きます 日本人は「他人の目」が気になるので、それがほぼ無信仰に近い日本人にとっては宗教の変わりだよ と、例えているのをよく耳にします 反対に言えば「欧米人は他人なんてどうでもいいから宗教でマナーや道徳心を守らせるしかないんだよ。」と、いう意味でもあると思います 私も大多数の日本人と同じく無信仰で、他人の目が気になるタイプです そんな私が他人の目が気にならない欧米人の感覚を理解するには、どのような例えがありますか? さきほどの「他人の目」はあくまでも道徳やマナーの時の意味だと思います そうではなくて「神」を意識していない普段の時の感覚です 街で自分のしたい服装で歩いたり、人目をはばからず笑ったり、そういった感覚です 犬や猫が回りにいるのと同じ感じなのでしょうか? どなたか分かり易い例えを持っている方、よろしくおねがいします
- 人に危害を加えてはいけない理由
あるグループにて、人が人に危害を加えてはならない理由について掘り下げています。 広くご意見募りたくよろしくお願いします。 なお現段階では下記の理由については形がついています。 ・人が悲しむから →悲しむ人がいてもいなくても危害を加えることはしてはならないとされている。 ・人間は知的な生物だから →動物の間では戦ったり傷つけたり殺しあったり共食いしたりしているが、人はそれを「自然の摂理」と呼んで尊重している。 ではなぜ人間はだめなのか、それは人間に知性があるからだというが、人間も動物である以上「自然の摂理」があるのであり、なくならない犯罪はそれを証明しているのではないか。つまり危害を加えることも尊重されるべきではないのか。 ・人間が減ってしまうから(種の存続にかかわるから) →過去沢山の動物が絶滅してきたが自らが原因で絶滅したものは記憶になく、自然の変化、外来種による駆逐、人間による乱獲など、外的要因によっている。 つまり人間がお互いに自由に危害を加えて良いことになったとしても絶滅まで減ることはないので理由にはならないと思われる。 ・文明がそれを許さないように作られてきたから →過去振り返れば「目には目を」の法典のみならず、マヤにおいても古代エジプトなどにおいても理由があれば危害を加えても良いとされてきた。現代でも理由があれば殺人すら認められる社会もある(イスラムなど)。 また逆に言えば人間の本来の姿は動物そのものであり、それを集団としてまとめるために制御する必要があり、それが文明となってルールが出来たともいえる つまり、「人が人に危害を加えてはならない理由」は、人間が集団生活をする生き物であるから? 集団生活するためには互いに憎しみや恨みが募らないようにしなければならないので、原点となる危害を加える行為を制限しているのではないか? 集団を守る必要性は、人間が単独では生存出来ないためであり、それは今も昔も変わっていない。 今のところこのような意見がまとまっています。 お暇なときにでもぜひご意見お聞かせください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- tamasakura111
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- 生命+精神+40億年の魂vsエントロピー増大則
太陽の恵みを受けた地球に生まれた生命 そして人間精神 それらの40億年の魂は 熱力学の第二法則の例外なく エントロピー増大によって滅び去るか? それとも宇宙の中に何か意識を持ったシステムが生まれるか?そして何処までも続いていくか? 永遠vs無? 創造対破壊? 最後はどっち?
- 評価が上がったと感じると下げたくなります
33歳。既婚女性です。 最近気づいたのですが、今まで33年生きてきた中で自分のとった行動を思い返すとある一定のパターンが見えてきました。それは、会社や学校などで長い間努力して、目標とするポジションや仕事ぶりが評価されるように頑張るのですが、評価されたと思った瞬間自らそれを壊したくなります。今まで血のにじむような日々をしてきたのに、自分でも何故だか分かりません。 具体的には、 4年間身を弧にして働いてきて、ようやく目指していた地位を確立し、周りにも信頼されてきたと思ったら転職したくてしょうがなくなったり、 海外出張で頑張った後、先輩に「いや~見直したよ、良く頑張ったね」と言われた翌日に会社に遅刻して行きあえて評価を下げたり、 学生時代から5年半付き合った彼と2年半の遠距離の末、ようやく結ばれそうな時にすべてを壊したくなったり。今までの人生、そうやって沢山の頑張っては自爆のパターンをを繰り返してきた気がしています。 頑張った事をちゃんと評価されて、そこから前に進める人になりたいです。いつも努力はするのですが、評価されたと思った瞬間、全てをオールクリアしたい衝動に駆られるのです。 生粋の天邪鬼なのか、単なるドM気質なのか、それとも、小さい頃母親からあまり褒められる事なく怒られてばかりで育った事と関係しているのでしょうか。 何か心療内科にでも行けば改善されるのか、自分がなにかおかしいのかわかりません。 でも、このままでは一生何か頑張っても報われない人間のままで、そんな人生は絶対にイヤなのです。誰か良いアドバイスがありましたらお願いします。
- 大麻・宗教依存者が良い家庭を築けるようになりますか
私は対極の人間で心理カウンセラーの資格を持ってますが、 臨床に立ち会った経験がありません。 愛情を与えるより求める気持ちが強く、その依存心から大麻 ・宗教依存者などが、認知療法や芸術療法などで心の傷を治 せば良い家庭を築ける可能性はありますか?個人差はもちろ んあるでしょうが。 はちゃめちゃやってた人にアドバイスするとしたら、治療すれば そうゆう人でも家庭的になれると言って良いものかどうか分かり ません。無理なら無理と言った方が良いのでしょうか?
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- 心理学・社会学
- junsuke327
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- 美意識が人類を救う・・・?
投稿12回目・芸能界の重鎮「美輪明宏さん」は「美意識が不況を救うのよ!」とおっしゃっています。 本当でしょうか?日本が美しくなると本当に不況は、なくなるのでしょうか?
- 口だけ英雄(ヒーロー)・・・?
投稿11回目 世の中のほとんどの人は自分では行動も起こさず、文句しか言わない、だから「幸福」になれないのだろうか?(それとも他に、理由があるのかな?)・・・
- 真剣にカウンセラーになりたい
現在サラリーマンの職業人です。 真剣に心理学を学び、カウンセラーになりたいのですが、これkら大学に通って心理学を学ぶことは 現実的に無理がありますし、臨床心理士になるために大学院に通うにも、臨床実習が必要なので、 会社を休むこともできません。 民間団体のカウンセラー資格を調べるものの、どれがいいのか情報があまりに多すぎて不透明に なっています。 そこで、社会人がカウンセラーとして心理学を学ぶにあたって、ここの職能団体の資格なら カウンセラーとしてしっかりしてる教育をしている団体(あるいは資格)を教えてください。 よろしくお願いします。
- カウンセリングの技術取得
考えています。 家族を支えるのが目的なので、大学などは考えていません。 簡単に技術は取得出来ないでしょうか? 出来れば通信教育がいいかなと思っています。 ご存知の方、いらっしゃれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- 心理学・社会学
- noname#208455
- 回答数3
- 自己言及のパラドックス
よく「この文は間違っている」という表現は、自己言及のパラドックスを生み出す、と言われますが、私はこれに異議を唱えたいです。 もし、この文章は深刻なパラドックスを生みだすため、適切な表現ではないというなら、我々はこの文章を使うことはできませんが、実際にはそんなことはありませんよね。 なぜなら、「この文は間違っている」の「この文」とは、まさにその文のことではなく、その次の文やそれ以前の文を指しているに決まっているからです。でなければ、まったく意味のない文章となってしまいます。 「この文は間違っている」の「この文」をまさにその文のことだと理解することは、まったく理に適っておらず、クレイジーだと思います。 そんな不合理な解釈をすればパラドックスでも何でも生じても何の不思議もなく、実際のところ、そこに深刻な問題(パラドックス)などまったくないと思います。 また、有名な「クレタ人はウソつきだ、とクレタ人は言った」も、世の中には、「常に嘘をつく人」と「常に正直な人」の二種類しかいないという、不合理・クレイジーな前提に立つから、パラドックスが生じるのであって、実際にいるのは、「たまに嘘をつく人」や「頻繁に嘘をつく人」などであり、「常に嘘をつく人」も「常に正直な人」もまず考えられません。 このように、不合理な前提に立つからこそ、パラドックスが生じるのであり、合理的に解釈すれば、そこにパラドックスなど生じようもないと思うのですが、いかがでしょうか。 合理的な解釈をしてもなおパラドックスが生じる例としては、「ソクラテスはいる、かつ、いない」などでしょう。
- 自己言及のパラドックス
よく「この文は間違っている」という表現は、自己言及のパラドックスを生み出す、と言われますが、私はこれに異議を唱えたいです。 もし、この文章は深刻なパラドックスを生みだすため、適切な表現ではないというなら、我々はこの文章を使うことはできませんが、実際にはそんなことはありませんよね。 なぜなら、「この文は間違っている」の「この文」とは、まさにその文のことではなく、その次の文やそれ以前の文を指しているに決まっているからです。でなければ、まったく意味のない文章となってしまいます。 「この文は間違っている」の「この文」をまさにその文のことだと理解することは、まったく理に適っておらず、クレイジーだと思います。 そんな不合理な解釈をすればパラドックスでも何でも生じても何の不思議もなく、実際のところ、そこに深刻な問題(パラドックス)などまったくないと思います。 また、有名な「クレタ人はウソつきだ、とクレタ人は言った」も、世の中には、「常に嘘をつく人」と「常に正直な人」の二種類しかいないという、不合理・クレイジーな前提に立つから、パラドックスが生じるのであって、実際にいるのは、「たまに嘘をつく人」や「頻繁に嘘をつく人」などであり、「常に嘘をつく人」も「常に正直な人」もまず考えられません。 このように、不合理な前提に立つからこそ、パラドックスが生じるのであり、合理的に解釈すれば、そこにパラドックスなど生じようもないと思うのですが、いかがでしょうか。 合理的な解釈をしてもなおパラドックスが生じる例としては、「ソクラテスはいる、かつ、いない」などでしょう。