JidousyaGaisya の回答履歴

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  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 顔にコンプレックスがあります

    初めまして。自分は、高2(男)なんですが、顔にコンプレックスがあります。僕は自分でいうのもなんなんですけど、顔は世間では結構、いいほうだと思います。多分、中の上ぐらい。しかし、たまに、凄くイケメンを見るともっとイケメンだったら人生楽しいはずな…と思い顔にコンプレックスを感じて困っています。贅沢な悩みに聞こえてしまうかもしれませんがコンプレックスを無くす方法教えて下さい。

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 主観と客観

    学校の課題で、知のプロセスにおける主観と客観との関係を説明しなくてはいけないのですが、いまいち主観と客観の意味が判りません。自分で何かテキストを1つ、もしくは2つ読んでそれを分析しながら主観客観の関係を明らかにしていく、というのがこの課題の趣旨なんですが、その取っ掛かりさえ掴めていない状況です。曖昧な質問で申し訳ないのですがどうか助けてください。

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 人間とは何か

    動物を例にして、人間とは何か考えたいと思います 猿>欲深い、えさを独占して嘲笑う 犬>暴力に弱く、集団におもねる 猫>小動物を弄ぶ残忍性を持つ 鼠>恐怖心が強く、突発的な攻撃性を持ち、周りの様子をうかがうずるさ 爬虫類>原始的な本能によって動き、感情は一切なく、人の言葉を理解しない さて 人間とは何でしょう

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • インターネットがつながらない

    帰宅しPCを起動したとろインターネットにつながりません。朝はつながっていたのに。2台PC(XP)がありインターネットのケーブルをもう一台につなげるとインターネットは起動します。またいろいろやってみたのですがインターネットのケーブルを抜き差しするととりあえずつながる事に気づきました。しかし次のページには進まず、その度抜き差しすること1ページづつつながります。どういう事なのでしょうか教えて頂きたいです。

  • はやくPCを立ち上げたい。

    DELL Dimension C521  XP SP3です。PCをはやく立ち上げるために 起動用に外つけSSDをUSB接続すればいいのでしょうか?ただつければいいとは思いませんので、そ のための方法等お教えいただきたいのですが、初心者です。よろしくご指導下さい。

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • Windows7でOffice2003が不安定

    Windows7 レッツノートでOffice2003を使用しています ある時から、WebでPDFファイルを開き、テキストをWordに貼り付けたところ、HDDインジケーターが点滅しづつけ、矢印のポインタは、作業中のくるくる廻るものに変わり、Wordの表示画面が揺れているような点滅しているような状況が続くようになりました また、エクセルは印刷プレビューを開くと「印刷」「設定」「余白」の部分がグレー表示となり、押せなくなりました。 また、Word同様、HDDインジケーターが点滅しづつけ、表示画面が揺れているような点滅しているような状況が続くようになりました どなたか、このような現象と解決策をご存知の方はご教示ください

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • PTBの拡張子をちゃんと開きたいのですが、

    PTBの拡張子を操作を誤ってメモ帳で開くようにしてしまい、TAB譜として開くことができなくなりました。 まだパソコンの知識が浅いのでよくわかりません・・・ このファイルをちゃんと開く方法をどうか教えてください

  • アルケーの神は偉大なり

      宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は偉大である これを否定できる者などおるまい。  

  • 印刷について

    印刷していたら、途中から印刷できなりプリンタ印刷待ち状態だけ増えていきます。なぜでしょうか?

  • Outlookで送信したメールが送信済みアイテムに入ったのにもかかわらず、メールが送信出来ていませんでした。

    スペック、OS等は、 Windows2000 SP4、Office XP、Outlook 2002 SP3、 Endevor MT7000、Celeron 1700Hz、256MBです。 通常通り、メールを送信すると、送信済みメールにメールは 入るのですが、実際は届いていないことが数回ありました。 本日は、17件送って1件送れていませんでした。 最近、変化したこととは、Officeを97からXPに変えました。 送れなかったメールの容量は5,9,10,71KBでした。 あるメールで、1回目は送られずに、2日目送ると送れたりする 時もありました。 検索でいろいろ調べましたが、見つけられませんでしたので、 投稿させて頂きました。 お手数ですが、誰かお助け下さい。

    • kano_sr
    • 回答数3
  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 本気で未来のために語り合いたいと思うテーマです。

    世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか? 皆さまのご意見をお聞かせ下さいませ。

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?