sheep67 の回答履歴

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  • 思考が現実化するなら、思考とメルヘンの違いは?

    思考は現実化する ザ・シークレット 7つの習慣 成功の9ステップ ユダヤ人大富豪の教え etc... この質問を読まれている方は、自己啓発に興味がおありかと思います。 また、上記の有名な自己啓発系の本を全部読んでいるかもしれませんし、読まれていないものもあるかもしれません。 私がこれらの本を読んでどうしてもわからないことがあったので、質問させて頂きたいのです。理解力のなさを申し訳なく思います。 自己啓発の本には、大体下のようなことが書かれているかと思います。 『成りたい自分をイメージすれば、その通りの自分になれる』 思ったとおりのことが現実となりうるのであれば、メルヘンと思考の違いはどこにあるのでしょうか? 私は今「今すぐに空を飛びたい!!」という思考をしても空を飛べません、今やってみました。 この場合思考は現実化していませんが、ライト兄弟は飛行機を作って見事空を飛ぶことができました。 現実化する思考と現実化しない思考、この違いは一体何なのでしょうか? あるいは区別がつかないから信念を持ってできるまで努力をすべきということですか?

  • 与えられることと、勝ち取る(獲る)こと

    いつもお世話になっております。 「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか? 要求の有無、期待の有無等に関わらず、誰かから「与えられる」事と物。 与えられた、行為そのものに気付くか否か?、や 与えられた事と物の内容や質も問題になるかと思いますが。。。 勝ち取る(獲る)に関しては、自分の意志と意識の上での結果ですので「気付き」については問題無し。 「事と物の内容や質」が問題となる場合は責任感の問題?とも思います^^ さて、何かと「勝ち取る(獲る)」行為に関しては意識が高く、価値も高いと考えがちな気がします。 片や、「与えられる」行為については何となく軽視しがちに思います。 私はこのように感じているのですが、これについてどう思われますでしょうか? やはり二つは同等/同価値ではないのでしょうか? *「与える」と「勝ち取る(獲る)」ではありません。  今現在自分の手中に有るものを入手する過程についての話です。 前提となる「与えられる」「勝ち取る(獲る)」と言う行為についての問題点/設定の甘さのご指摘でも構いません。 よろしくお願いします!

    • noname#122427
    • 回答数25
  • 意識においての再帰性とは

    意識においての再帰性について、先に(又は特に)触れてた学者・書物をご存知の方は教えてください。

  • ノスタルジーについて(所属空間の優劣でどうかわるか?)

    ホームシック、あるいはノスタルジー(郷愁)という感覚についてなのですが、これはもしかすると、高所属空間から低所属空間へと井戸異した場合起こるのでしょうか。 私なりの体験なのですが、小学校のとき転校しました。そのとき前の小学校のほうが明らかに、すべてにおいてよかったのです。生徒の質、人数(学習環境にはよい生徒数クラス人数)給食の味、設備、地域の雰囲気、その他諸々、いいところばかりでした。 転校先はそのすべてで劣りました。いいところがひとつもなかったです。 そこで、当然郷愁のようなものがおきました。 でも、もしこれが逆(転校先→元の所)だったらどうなるのでしょうか。前の学校はアレはなんだったんだ?ということになりますよね。ぜんぜん郷愁などというものはおきないのではないでしょうか? これを一般化して、結局世に言うホームシックというもの、それは前いたところが今よりもいい、好きであったということに由来するものではないでしょうか。 そのように考えるのですが、どういう感じでしょうか?

  • ノスタルジーについて(所属空間の優劣でどうかわるか?)

    ホームシック、あるいはノスタルジー(郷愁)という感覚についてなのですが、これはもしかすると、高所属空間から低所属空間へと井戸異した場合起こるのでしょうか。 私なりの体験なのですが、小学校のとき転校しました。そのとき前の小学校のほうが明らかに、すべてにおいてよかったのです。生徒の質、人数(学習環境にはよい生徒数クラス人数)給食の味、設備、地域の雰囲気、その他諸々、いいところばかりでした。 転校先はそのすべてで劣りました。いいところがひとつもなかったです。 そこで、当然郷愁のようなものがおきました。 でも、もしこれが逆(転校先→元の所)だったらどうなるのでしょうか。前の学校はアレはなんだったんだ?ということになりますよね。ぜんぜん郷愁などというものはおきないのではないでしょうか? これを一般化して、結局世に言うホームシックというもの、それは前いたところが今よりもいい、好きであったということに由来するものではないでしょうか。 そのように考えるのですが、どういう感じでしょうか?

  • 罰せられないのが一番苦しい罰?

    こんばんは。 「罰せられないのが一番苦しい罰」みたいな言葉がありますが、 それは誰にでも、どのような状況にでも当てはまるのでしょうか? 過去の経験を思い出してみると、 たしかに当てはまるケースも多いと思うのですが、 中には「苦しそうに見えない人」も居ます。 たとえば、他者から無礼なことをされた場合、 「相手にするのも馬鹿らしい」等の理由から、 無礼なことをした人に罰を与えないケースは多いと思います。 そのような状況において、無礼なことをした人の多くは「苦しい」と感じると思います。 しかし、中には「苦しい」どころか、勝ち誇ったような態度を示す人も居ます。 (「相手にされていない」等という状況を理解できていない?) そのような人であっても、「罰せられないのが一番苦しい罰」なのでしょうか? また「罰せられないのが一番苦しい罰」は無条件で成立するのでしょうか? 宜しくお願い致します。

    • noname#92412
    • 回答数10
  • 愛情、は喜怒哀楽のどれ?

     人の心に愛情と表現する心情があります。  心には意志、理性、感情という働きがあります。  そのなかの‘感情’には、喜怒哀楽とありますが、愛情という人の心情は、このどれに当たるのでしょうか。  あるいはどれにも当たらないのでしょうか。  ちょっと気になったので質問してみました。  回答よろしくお願いいたします。

    • Y  Y
    • 回答数17
  • 劣化の良い面とは

    「劣化」と聞くと悪い、良くないイメージがまず出てきます。物事には良い面と悪い面があるものと私は思っています。それでは逆に、劣化の「良い面」を考えてみようと思い考えてみたのですが、なかなか浮かびません。 僅かですが、私の思いついた「劣化の良い面」の例 ・和らぐ(激しかったものが和らいで心地よくなる) ・味が出る(その人なりの傷の付け方でものに個性が生まれる) あなたの考えを教えてください。「劣化の良い面」とは?

    • e271828
    • 回答数10
  • 与えられることと、勝ち取る(獲る)こと

    いつもお世話になっております。 「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか? 要求の有無、期待の有無等に関わらず、誰かから「与えられる」事と物。 与えられた、行為そのものに気付くか否か?、や 与えられた事と物の内容や質も問題になるかと思いますが。。。 勝ち取る(獲る)に関しては、自分の意志と意識の上での結果ですので「気付き」については問題無し。 「事と物の内容や質」が問題となる場合は責任感の問題?とも思います^^ さて、何かと「勝ち取る(獲る)」行為に関しては意識が高く、価値も高いと考えがちな気がします。 片や、「与えられる」行為については何となく軽視しがちに思います。 私はこのように感じているのですが、これについてどう思われますでしょうか? やはり二つは同等/同価値ではないのでしょうか? *「与える」と「勝ち取る(獲る)」ではありません。  今現在自分の手中に有るものを入手する過程についての話です。 前提となる「与えられる」「勝ち取る(獲る)」と言う行為についての問題点/設定の甘さのご指摘でも構いません。 よろしくお願いします!

    • noname#122427
    • 回答数25
  • 個性化(自己実現)とは?

    ある本を読んでますと、心理臨床に関して、 個性化(自己実現)とは、人が自分自身になっていくことである。 自己実現とは「なりたいと思う自分になる」のではない。 と書かれており、???がたってしまいました。 これを踏まえて、個性化(自己実現)とは何か?  について皆様のご回答を御願いする次第です。

    • mmky
    • 回答数3
  • [幸せ下手]の処世の分かれ道をお教えください。

    [幸せ下手]というか、そういう人がおられますけど、 [幸せ上手]との考え方の分岐点、あるいは不幸への道を 繰り返しチョイスしてしまう運命・価値観の分かれ道は何でしょう。 ※ものの本からの知識ではなしに体験から得たご認識を お教えください。

  • キリスト教が現代に貢献していることは?

    キリスト教が現代に貢献していることはありますか?

    • noname#165672
    • 回答数4
  • 哲学するうえで大事なこと

    哲学するうえで自分のポジションを決めてしまうのはあまりよろしくないのではないでしょうか。 ・神はいる、いない ・死後の世界はある、ない ・輪廻転生はある、ない ・運命はある、ない 一時的なディベートならいいのですが、自分のポジションを決めることは結果的にそれに縛られることになります。 もちろんどのポジションからみても間違いではないのですが局所的なものの見方となるのではないでしょうか。

  • 哲学するうえで大事なこと

    哲学するうえで自分のポジションを決めてしまうのはあまりよろしくないのではないでしょうか。 ・神はいる、いない ・死後の世界はある、ない ・輪廻転生はある、ない ・運命はある、ない 一時的なディベートならいいのですが、自分のポジションを決めることは結果的にそれに縛られることになります。 もちろんどのポジションからみても間違いではないのですが局所的なものの見方となるのではないでしょうか。

  • 『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』

    質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。  ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何者か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います  なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。  以上、よろしくお願い致します。

  • 脳髄損傷が精神活動に与える機能障害と死後の生に関する心霊学的解釈

     怪我や病気で脳髄が物理的に損傷した時、精神活動(記憶、知覚、認識、思考、性格、etc.)に機能的障害が発生する場合がある事が知られています。  脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響するのであれば、脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。  (何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません)  脳髄損傷と精神の機能障害との因果関係や、死後の生の存在を可能とする方法に関して、霊魂の存在を肯定する心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。  尚、私は理数系の人間ですが、超自然的なものを無闇に否定するつもりはありません。  特に、死後の生に関しては、存在して欲しいと思っております。  ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。  この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。

  • アイデンティティについて

    先日『アイデンティティ』という言葉の意味と使い方について質問しました。 たくさんの回答をいただいて答えを読んで、わたしなりに理解したいと考え アイデンティティという言葉にも、すこしは近くなったように思っていますが、 わたしの努力の足りなさもあって まだひとつの答えにはなっていません。 今回の質問は 「アイデンティティという言葉」についてどう思っているか アイデンティティという言葉を使うのか?使わないのか 使う時は、どんな時にどんなことを表すために使うのか  という質問です。 良く考えると前回の質問と同じことかもしれませんが… アイデンティティについて をどう書いているのかを読みたい という気持ちなのです。どうぞよろしくお願いいたします。

  • 脳髄損傷が精神活動に与える機能障害と死後の生に関する心霊学的解釈

     怪我や病気で脳髄が物理的に損傷した時、精神活動(記憶、知覚、認識、思考、性格、etc.)に機能的障害が発生する場合がある事が知られています。  脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響するのであれば、脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。  (何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません)  脳髄損傷と精神の機能障害との因果関係や、死後の生の存在を可能とする方法に関して、霊魂の存在を肯定する心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。  尚、私は理数系の人間ですが、超自然的なものを無闇に否定するつもりはありません。  特に、死後の生に関しては、存在して欲しいと思っております。  ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。  この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。

  • 脳髄損傷が精神活動に与える機能障害と死後の生に関する心霊学的解釈

     怪我や病気で脳髄が物理的に損傷した時、精神活動(記憶、知覚、認識、思考、性格、etc.)に機能的障害が発生する場合がある事が知られています。  脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響するのであれば、脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。  (何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません)  脳髄損傷と精神の機能障害との因果関係や、死後の生の存在を可能とする方法に関して、霊魂の存在を肯定する心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。  尚、私は理数系の人間ですが、超自然的なものを無闇に否定するつもりはありません。  特に、死後の生に関しては、存在して欲しいと思っております。  ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。  この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。

  • 脳髄損傷が精神活動に与える機能障害と死後の生に関する心霊学的解釈

     怪我や病気で脳髄が物理的に損傷した時、精神活動(記憶、知覚、認識、思考、性格、etc.)に機能的障害が発生する場合がある事が知られています。  脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響するのであれば、脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。  (何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません)  脳髄損傷と精神の機能障害との因果関係や、死後の生の存在を可能とする方法に関して、霊魂の存在を肯定する心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。  尚、私は理数系の人間ですが、超自然的なものを無闇に否定するつもりはありません。  特に、死後の生に関しては、存在して欲しいと思っております。  ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。  この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。