sheep67 の回答履歴

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  • 魂は存在するか!!

    いままで何度も議論されてきただろうし いまさらこんなことを伺っても詮無きことですが。 これも感情論抜きでお願いします。 人間から、言葉を抜きます。 論理的思考が難しくなり、ただ感情に流されるままになりそう。 視覚を抜きます 聴覚を抜きます。 触覚を抜きます。 感情を抜きます。 しかし、それでも残っているものがある気がします。 自分は結構そういうオカルトは信じないのですが、 薬なんかで感情とかならある程度変えることも出来る都思います、 それでもそこに、自分はあるっていう何かがあるような気がします。 どうでしょう?

  • 自分を許すってどういうこと?

    自分を許すってどういうことですか? だめな自分を認めるってどういうことですか? もし、 自分がどうしようもなく意地悪な人間で、 「人を傷つける事に快感を覚えている自分」 を発見し、許して認めたとします。 さらに、 「そんな自分のままでいいじゃん!と思っている自分」 を発見して許して認めたら、自分はずっと意地悪な人間です。 許すことと妥協や堕落の区別ってなんですか?

  • やらない偽善よりやる偽善を論破できますでしょうか?

    こんにちは。 論理的思考ができる賢者の皆さんにお尋ねしたいのです。 知人が「やらない偽善よりやる偽善」といってるやつがムカツク そしてそれに対しうまい言い返しができない自分が悔しい と嘆いておりました。 その知人は、日テレの24時間テレビをやっている時に上のように申しておりましたので、この場合の「偽善」とは日テレの24時間テレビなどの障害者をダシにした視聴率稼ぎや、口先だけで実りのない奇麗事の事を指すと思っております。 私一個としては、たとえその行為の思惑が八方美人な性格のためだったり、他人との交流を深めるためだったりなのだとしても「やらない募金よりやる募金」だと心得ておりますので、あまり知人の力になれないのですが、もし、「やらない善よりやる偽善」を論破できるという方は、どうか、私の知人にお力を差し伸べてやってください。 よろしくお願いします。

  • 何で人間(全体)っていうのはできが悪いのか

    人間っていうのは、総体的には、たいして上等な生物とはいえないようです。自分さえよければというマナー違反は横行し、このサイトでもQ&Aという原則などどうでもいいといわんばかりの主張の押し付けやら、質問さえ理解しようとしない傲慢さやらで、せっかくの疑問解決の趣旨が風前の灯のようです。2ちゃんねるだって便利なツールであるはずなのに、荒れまくりでろくな議論はほとんどない。 それらの現象は、つまり、少数のまともで理解力包容力ある人物が、大多数のろくでもない心根や理解力の不足しているものたちに圧倒されている、と言うことであるように思えます。つまり、まともな品質の個体が少ない。 そういう、人間のろくでもなさ、傲慢さ、理解力のなさというのが社会的総体の姿になっているように思われ失望感が襲ってくるわけですが、こういうのはやはり、人間の限界性(いい個体は少ない)から来るのでしょうか。それとも、なにかがうまく行きだせば、今度は多数が品質のよいものに変化し、居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会が実現するのでしょうか?

  • やらない偽善よりやる偽善を論破できますでしょうか?

    こんにちは。 論理的思考ができる賢者の皆さんにお尋ねしたいのです。 知人が「やらない偽善よりやる偽善」といってるやつがムカツク そしてそれに対しうまい言い返しができない自分が悔しい と嘆いておりました。 その知人は、日テレの24時間テレビをやっている時に上のように申しておりましたので、この場合の「偽善」とは日テレの24時間テレビなどの障害者をダシにした視聴率稼ぎや、口先だけで実りのない奇麗事の事を指すと思っております。 私一個としては、たとえその行為の思惑が八方美人な性格のためだったり、他人との交流を深めるためだったりなのだとしても「やらない募金よりやる募金」だと心得ておりますので、あまり知人の力になれないのですが、もし、「やらない善よりやる偽善」を論破できるという方は、どうか、私の知人にお力を差し伸べてやってください。 よろしくお願いします。

  • 「1」は、存在していますか?

    「1」は、存在しているに決まっていると誰もが思うでしょう。 子供でも、1個のリンゴや1匹の犬などから、「1」を理解していますと言うことができます。 しかし、「1」を理解していることと、「1」が存在していることとは、厳密には違います。 「1」の存在は、証明されていますか? それとも、「1」の不存在が証明できるのでしょうか? たとえば、この世には、完全な円形や球形の模型がありません。 すべて近似表現型に過ぎません。 円や球は、概念であって、実在の有無を問わないようです。 「1」も概念であって、実在している必要はないように思います。 「存在」の定義が、違っているために、混乱しているだけでしょうか? 実在していなくても、我々の頭脳・知能において、概念として存在しているということでしょうか? すると、実数1も純虚数iも、存在という点では、大差無いように思います。如何でしょうか?

  • 愛についての問題

    目新しいことではないのですが、例として、 1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。 2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。 これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。 さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。 イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福とはまるで違うものであれば、どのように愛を説明すればよいのかとの問いです。 あるいはマズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。 そのような問いですがどのような回答、ご意見でも歓迎いたします。 尚、例として羊飼いの話を持ち出しましたが、 直近の物資援助か直近を見捨てても井戸掘り技術教育かの問題と置き換えてもかまいません。

    • mmky
    • 回答数23
  • 自分を許すってどういうこと?

    自分を許すってどういうことですか? だめな自分を認めるってどういうことですか? もし、 自分がどうしようもなく意地悪な人間で、 「人を傷つける事に快感を覚えている自分」 を発見し、許して認めたとします。 さらに、 「そんな自分のままでいいじゃん!と思っている自分」 を発見して許して認めたら、自分はずっと意地悪な人間です。 許すことと妥協や堕落の区別ってなんですか?

  • 鶏と卵

    鶏と卵、どちらが先に存在したのでしょうか? 鶏→卵→ヒヨコだと、1巡のみで循環しません。 卵→ヒヨコ→鶏だと、親なしの卵からということになります。 皆様は、どうお考えになりますか? ご意見よろしくお願いします。

    • naoagu
    • 回答数8
  • 愛についての問題

    目新しいことではないのですが、例として、 1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。 2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。 これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。 さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。 イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福とはまるで違うものであれば、どのように愛を説明すればよいのかとの問いです。 あるいはマズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。 そのような問いですがどのような回答、ご意見でも歓迎いたします。 尚、例として羊飼いの話を持ち出しましたが、 直近の物資援助か直近を見捨てても井戸掘り技術教育かの問題と置き換えてもかまいません。

    • mmky
    • 回答数23
  • 愛についての問題

    目新しいことではないのですが、例として、 1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。 2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。 これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。 さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。 イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福とはまるで違うものであれば、どのように愛を説明すればよいのかとの問いです。 あるいはマズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。 そのような問いですがどのような回答、ご意見でも歓迎いたします。 尚、例として羊飼いの話を持ち出しましたが、 直近の物資援助か直近を見捨てても井戸掘り技術教育かの問題と置き換えてもかまいません。

    • mmky
    • 回答数23
  • 《オタク》は 他者性を避けているか

     次の文章の説く実態について 解説やら批判やらをおしえてください。具体的な感覚や実態が分からないのです。  ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~  オタクに関する相反するイメージに遭遇する。一方で われわれは オタクは 対人関係が苦手で 他者との接触を回避する傾向がある ということを知っている。だが  他方で オタクには 明らかに他者を求める欲求がある。オタクの多くがインターネットの熱心なユーザーである。彼らは しばしば同人誌を作り さらにはコミケのような同人誌の即売会を組織したり それに参加したりする。・・・  このような二重性を どのように統一的に解釈すればよいのか? だが この点に関しては 解釈は容易であるように思える。・・・  オタクが交際を求める他者は 一般に 同じ《趣味》を共有するオタク仲間である。つまり それは 類似性――それぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性――を 本質とする他者である。ところで 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。そうであるとすれば オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。  (III オタクという謎 pp.109-110)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一点 論点のようなものも示します。  ▲ 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。  ☆ のは まったく真実だと考えますが そもそも ひとは 他者の内に 自分とのその差異を捉えることが出来るでしょうか? 捉えられるのは 自分の中にも かすかにでもある性格などに限られませんか?  差異としての他者を捉えることが出来れば このような《オタク》の交際における片寄りは 批判すべきだということになりますが 出来なければ オタクでなくても そのような交際における片寄りは ひとにとって 一般的だとも考えられます。  この点についても よかったら ご回答の筆を伸ばしてみてください。

  • 《オタク》は 他者性を避けているか

     次の文章の説く実態について 解説やら批判やらをおしえてください。具体的な感覚や実態が分からないのです。  ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~  オタクに関する相反するイメージに遭遇する。一方で われわれは オタクは 対人関係が苦手で 他者との接触を回避する傾向がある ということを知っている。だが  他方で オタクには 明らかに他者を求める欲求がある。オタクの多くがインターネットの熱心なユーザーである。彼らは しばしば同人誌を作り さらにはコミケのような同人誌の即売会を組織したり それに参加したりする。・・・  このような二重性を どのように統一的に解釈すればよいのか? だが この点に関しては 解釈は容易であるように思える。・・・  オタクが交際を求める他者は 一般に 同じ《趣味》を共有するオタク仲間である。つまり それは 類似性――それぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性――を 本質とする他者である。ところで 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。そうであるとすれば オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。  (III オタクという謎 pp.109-110)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一点 論点のようなものも示します。  ▲ 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。  ☆ のは まったく真実だと考えますが そもそも ひとは 他者の内に 自分とのその差異を捉えることが出来るでしょうか? 捉えられるのは 自分の中にも かすかにでもある性格などに限られませんか?  差異としての他者を捉えることが出来れば このような《オタク》の交際における片寄りは 批判すべきだということになりますが 出来なければ オタクでなくても そのような交際における片寄りは ひとにとって 一般的だとも考えられます。  この点についても よかったら ご回答の筆を伸ばしてみてください。

  • 《オタク》は 他者性を避けているか

     次の文章の説く実態について 解説やら批判やらをおしえてください。具体的な感覚や実態が分からないのです。  ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~  オタクに関する相反するイメージに遭遇する。一方で われわれは オタクは 対人関係が苦手で 他者との接触を回避する傾向がある ということを知っている。だが  他方で オタクには 明らかに他者を求める欲求がある。オタクの多くがインターネットの熱心なユーザーである。彼らは しばしば同人誌を作り さらにはコミケのような同人誌の即売会を組織したり それに参加したりする。・・・  このような二重性を どのように統一的に解釈すればよいのか? だが この点に関しては 解釈は容易であるように思える。・・・  オタクが交際を求める他者は 一般に 同じ《趣味》を共有するオタク仲間である。つまり それは 類似性――それぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性――を 本質とする他者である。ところで 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。そうであるとすれば オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。  (III オタクという謎 pp.109-110)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一点 論点のようなものも示します。  ▲ 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。  ☆ のは まったく真実だと考えますが そもそも ひとは 他者の内に 自分とのその差異を捉えることが出来るでしょうか? 捉えられるのは 自分の中にも かすかにでもある性格などに限られませんか?  差異としての他者を捉えることが出来れば このような《オタク》の交際における片寄りは 批判すべきだということになりますが 出来なければ オタクでなくても そのような交際における片寄りは ひとにとって 一般的だとも考えられます。  この点についても よかったら ご回答の筆を伸ばしてみてください。

  • 滝沢克己の思想

    滝沢克己さんの思想を理解したいと思っているのですが、 『インマヌエルの神』が何を指しているのか、いまいちピンときません。 誰か、わかりやすく説明できる方いらっしゃいませんでしょうか? 又、滝沢克己さんの思想を理解するに当たって おすすめの本などありましたら、教えてもらえませんでしょうか?

  • 〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?

    私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。  もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているのか?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか?〈御霊〉は、キリストの血によらなければ授けられないのか?」と問い質すと、逆に不信仰を諌められてしまいました。  そこで、皆さんにお尋ねします。 【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか? 【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか? 【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか? 【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか? 【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?  以上、皆さまの私見でもかまいませんので、よろしくお答え願います。

  • 楽しみの閾値を下げればいいのか?

    子供のころは、図書館で何気なく借りた本を家に持ち帰って読む楽しみで帰り道が楽しかったものです。 しかし、大人になってそんなことでうきうきできないですよね。 そういう例えをもっと拡大して、ある小さなことに大きな楽しみを持つ、言い方を変えると、幸福に対してグルメにならない、レヴェルを下げることができれば、人生もっとうれしい気分になるのではないでしょうか?

  • 他者の意識の存在を確かめることはできないのでは?

    心の哲学の議論を見ていると、他者には意識があることが前提として語られています。 自分の意識が存在すること、これは確実です。しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。そんな不確実な「他人の意識」というものを前提として議論が進められる「心の哲学」に、私は疑問を持っています。皆さんはどうお考えでしょうか。よろしくお願いします。

  • 他者の意識の存在を確かめることはできないのでは?

    心の哲学の議論を見ていると、他者には意識があることが前提として語られています。 自分の意識が存在すること、これは確実です。しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。そんな不確実な「他人の意識」というものを前提として議論が進められる「心の哲学」に、私は疑問を持っています。皆さんはどうお考えでしょうか。よろしくお願いします。

  • 与えられることと、勝ち取る(獲る)こと

    いつもお世話になっております。 「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか? 要求の有無、期待の有無等に関わらず、誰かから「与えられる」事と物。 与えられた、行為そのものに気付くか否か?、や 与えられた事と物の内容や質も問題になるかと思いますが。。。 勝ち取る(獲る)に関しては、自分の意志と意識の上での結果ですので「気付き」については問題無し。 「事と物の内容や質」が問題となる場合は責任感の問題?とも思います^^ さて、何かと「勝ち取る(獲る)」行為に関しては意識が高く、価値も高いと考えがちな気がします。 片や、「与えられる」行為については何となく軽視しがちに思います。 私はこのように感じているのですが、これについてどう思われますでしょうか? やはり二つは同等/同価値ではないのでしょうか? *「与える」と「勝ち取る(獲る)」ではありません。  今現在自分の手中に有るものを入手する過程についての話です。 前提となる「与えられる」「勝ち取る(獲る)」と言う行為についての問題点/設定の甘さのご指摘でも構いません。 よろしくお願いします!

    • noname#122427
    • 回答数25