kurinal の回答履歴

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  • イスラムは本当に日本人2人を殺すつもりなのか

      もしも罪の無い日本人2人を殺したのならば、やはりイスラムは悪であると結論すべきではないのか。 それでもイスラムは悪でないと言えるのか。         

  • 菩薩行の攻撃性?

    こんなところで質問していないで シャンカラの研究でもしていたほうがいいのかもしれないけれど ~~~~~~~~~~~~~~ 6.智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。 波羅蜜 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C ~~~~~~~~~~~~~~ 菩薩は智慧と慈悲が強調されているけれど、 意外とめんどうな人たちだったのでしょうか? 問題は般若波羅蜜多です。 此岸から彼岸へ。彼岸から此岸へ。 なぜこのような天地をひっくり返すようなことをしていたのか? 空が問題なのかもしれませんが、 空は面倒なので無視します。 菩薩の目的とか動機はなんだったのでしょうか?

    • noname#207067
    • 回答数5
  • 「悲しみ」とは「困った」状態でしょうか?

    これまで、多くの肉親や友人、恩師を亡くしましたが、「悲しい」という感情が今一つ理解できません。死期が近かったり、突然の訃報を聞くことで、精神的にショックを受け、何日も寝込んだり、食欲不振になるなどの症状も出ました。 しかし、ショックを受けた理由が、自分が描いていた将来や現在の生活基盤を失う、という困難な状況に陥ったり、得られる予定の利益が損失したことに対する混乱であり、修正を加えた将来像や新たな生活基盤を得られると、落ち着きを戻し、症状も回復します。 そして、私の人生において利用価値の失われた人物(故人)に対する評価が急速に低下し、興味を失ってしまいます。 そのため、大切な人を失って何年も悲しみに暮れたり、何日も泣く人の話を聞いても、理解ができません。 一般的に、「悲しみ」とはどういったものなのでしょうか?

  • ルソーの市民的自由と道徳的自由について。

    倫理学の勉強をしていて疑問に思ったので質問します。 ルソーの社会契約論で、市民的自由と道徳的自由はほぼ同じものでしょうか? また市民的自由の中に道徳的自由が含まれているのでしょうか?

  • 真実の愛と真理の探究が結婚したら理想は実現するか?

    それでいいのだ。 また愛と誠ではありませんが 真実の愛って何でしょうねえ 曇りない愛でしょうか? 真理を探求すれば 真理は人を活かしてくれるでしょうか? その二つが揃えば 真実の家庭に真理の人が生まれるのでしょうか? イエス・キリストと言う人はその様な予言から生まれたのでしょうか? 私は足を洗う価値もありませんが そのような人が生まれたら 救世主 が 現れるのでしょうか? まあ二,三十人いても構わないのですが そのような人たちが出て イスラム対西欧という対立が回避できないものでしょうか? その様な者だと名乗りを上げた人は 大概が怪しいことばかりやっています 誰か知りませんか そういう人? できれば端的にお願いします。どうかよろしくお願いします。

  • 中庸は正しいのか?

    色んな宗教や思想で中庸が重んじられ「大きな喜びはよくない」というようなことがよく言われます。 しかし、成功した人間はリスクを踏んだ人間だけです。 目先の小さいリスクを避けて巨大な墓穴を掘っていることはよくある話です。 安定志向の人間は墜ちやすいということが人生の中では多々見られるんですが、本当に中庸というのは正しいのでしょうか?

    • kotiya
    • 回答数10
  • 哲学等の難しい書物は何をすれば理解できるように?

    哲学等の難しい書物、論文は具体的に何をすればもっとよく理解できるようになるのでしょうか? 読んだとき難しい内容の理解がよくできなかったり、それを頭の中で順序だてて整理するのに時間がかかってしまったり、また読んだ後に矛盾点や疑問点を見つけ出しそれが本当に正しいのか判断ができなかったり等、色々悩んでいる点があります。 呆然と論理力を付ける為に数学、プログラミングをしたほうがよく、 文章理解力を付ける為に英語、小論文もしくは法律の勉強等をするといいと聞いていたのですが、実際何が一番効果があるのでしょうか? 生まれ持った才能と言われてしまえばそれでおしまいなのかもしれませんが、何か良い対策があったら教えていただきたいのです。よろしくおねがいします。

  • マルクスの「定在と概念の矛盾」につきまして。

    マルクスが「定在(定有)と概念の矛盾」について述べているのは、『資本論』のどの箇所で、正確な文言はどの様なものですか。 出典の正確な書誌情報やページ数も合わせてお教え下さい。

  • 欲望するフォルム

    「ドラマティック」と「ロマンティック」って違いますよね? 英訳をみても具体的な詳しい説明が見つけられませんでした。 それぞれの意味を理解したうえ表現してみたいので質問させていただきます。 ドラマは確かなもので、ロマンは不確実なものなのかもしれないなとか、 ミクロとマクロな視点の違いかなとか思うんですが。 いまいち自分の中でしっくりいきません。 ドキドキとワクワクとか、曖昧でも推論や直感などでもいいのです。 はー、そんな面持ちで回答を待ってます。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 精神の充足量の最大化とはいったいどういう精神か

     ひとの一生における精神の充足量の総和を最大化するということを目的とするのは いったいどういう精神であり どんな神経をしていたら そう考えるようになるのか?  ただの功利主義のたわごとであると質問者には思われるのですが 果たしてどのようにみなさんはお考えでしょうか?  《お金と出世》をこよなく愛していながら ついぞその境遇にめぐまれず そのやぶれし夢をB面のぼやき節にしただけだと見るのですが 自由なご批判をお寄せください。

  • 真実の愛と真理の探究が結婚したら理想は実現するか?

    それでいいのだ。 また愛と誠ではありませんが 真実の愛って何でしょうねえ 曇りない愛でしょうか? 真理を探求すれば 真理は人を活かしてくれるでしょうか? その二つが揃えば 真実の家庭に真理の人が生まれるのでしょうか? イエス・キリストと言う人はその様な予言から生まれたのでしょうか? 私は足を洗う価値もありませんが そのような人が生まれたら 救世主 が 現れるのでしょうか? まあ二,三十人いても構わないのですが そのような人たちが出て イスラム対西欧という対立が回避できないものでしょうか? その様な者だと名乗りを上げた人は 大概が怪しいことばかりやっています 誰か知りませんか そういう人? できれば端的にお願いします。どうかよろしくお願いします。

  • 真実の愛と真理の探究が結婚したら理想は実現するか?

    それでいいのだ。 また愛と誠ではありませんが 真実の愛って何でしょうねえ 曇りない愛でしょうか? 真理を探求すれば 真理は人を活かしてくれるでしょうか? その二つが揃えば 真実の家庭に真理の人が生まれるのでしょうか? イエス・キリストと言う人はその様な予言から生まれたのでしょうか? 私は足を洗う価値もありませんが そのような人が生まれたら 救世主 が 現れるのでしょうか? まあ二,三十人いても構わないのですが そのような人たちが出て イスラム対西欧という対立が回避できないものでしょうか? その様な者だと名乗りを上げた人は 大概が怪しいことばかりやっています 誰か知りませんか そういう人? できれば端的にお願いします。どうかよろしくお願いします。

  • 信仰について

    宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。

    • noname#205094
    • 回答数17
  • 欲望するフォルム

    「ドラマティック」と「ロマンティック」って違いますよね? 英訳をみても具体的な詳しい説明が見つけられませんでした。 それぞれの意味を理解したうえ表現してみたいので質問させていただきます。 ドラマは確かなもので、ロマンは不確実なものなのかもしれないなとか、 ミクロとマクロな視点の違いかなとか思うんですが。 いまいち自分の中でしっくりいきません。 ドキドキとワクワクとか、曖昧でも推論や直感などでもいいのです。 はー、そんな面持ちで回答を待ってます。

  • 信仰について

    宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。

    • noname#205094
    • 回答数17
  • 信仰について

    宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。

    • noname#205094
    • 回答数17
  • 真の愛とは真理の探求である

       愛とは社会生命的自覚であり、真の社会生命的自覚は真理の探求を目指す。 故に真の愛とは真理の探求に他ならない。  

  • 愛とは社会生命的自覚である

      正しいか。  

  • がんばれ富田

      本日、富田選手が意を決して韓国に飛び立った。 富田選手は今日までよくがんばった。 富田選手は無実であると断言できます。 悪いのは韓国警察であることは間違いない。 全て韓国警察が仕組んだ陰謀である。 富田選手は韓国にハメられたのである。 しかし真実は証明され、富田選手は無実であることが必ず証明されると断言できます。 近々韓国警察は恥をかくことになるでしょう。 皆でがんばれ富田とエールを送ってやるべきではないか。