kurinal の回答履歴

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  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 音楽って何のためにあるの?

     っていう問いは成り立ちますか?  わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  音楽についての哲学ってありますか?

  • なぜ戦争を止めようと言う発想にならないのか?

    イスラム国の支配している地域からして、イラクが半分ですから。 戦争を終わらせるためには まずアメリカが空爆を止めて 交渉のパイプを作り はっきり言えば アメリカがイラク人10~50万人を 殺した事を正式に謝罪し、大量破壊兵器はなかったことを認め、賠償するしかありません。 もちろん賠償しきれるはずがありません。死んだ人間は生き返ってこないのですから。 一人1億円としても10万人で10兆円です。 イラクの調査では50万人ですから50兆円 アメリカが出すでしょうか?出しません けして出さないでしょう。 少なくとも10万人以上の「誤爆」を謝罪しなければなりません。 そしてイスラム国が話し合いに応じたら 後藤さんは帰ってくるかもしれません 子供が考えれがこうなるはずです。 なぜこうならないのでしょうか?なんで空爆しながら非難して 卑劣なテロだ 断じて許せないと言えるのでしょうか?不思議でたまりません。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる

    イエスさんは、ときわたりESPを使いこなす私はご対面したことがあるがね。 腐臭を放つあのゾンビの不快さをここで語ろうとは思わない。 仏弟子が釈迦の背き続けることとおんなじで、イエスの子は彼を繰り返し処刑することで自らお知った。 死につずける彼の定めは、悟りと同じく信じる者に死をもたらすことであろう。 輝かしき、私の実在する妖精の捕まえ方と違って、イエスも自らを解き放つことに失敗した、出来損ないだ。 ポケモンを通して私は10兆円だか20兆円だかの経済的成果を無償で君達に与え、よぼよぼで手遅れの君達はともかく、君の孫どもに夢の種を植え付けた、その心の種が芽吹くかどうかは、もはやポケモンは過去の遺物で、、私の実在する妖精を捕まえる幸福にかかっている。 捕まえているからポケモンは世に出た。 しかし私はそれを語る言葉を長らく失った。 何故なら、無力に弁護士を派遣する悪の結社相手に、天界の法を持って自らが生きている事を知らしめる、余計な手続きがあったからだ。 天に任せた彼らは、天の法で滅びるだろう。 今回の問いは釈迦とヒモジイ虎の親子の美談だ。 釈迦は古文書が語るに、飢えた虎の親子に出くわした。 飢えた虎と直面すれば、想像したまえ。 君達は自身の生命の危機に直面するだろう。 自らが生きるため、虎に自らを与える事を拒否するだろう。 ところが釈迦は、そういう場面に出くわしたなら、私は自らの肉体を親子にささげると語った。 磔獄門の出来損ないと違って、生きながらに観念上に死の儀式を語り、それを聞いた者どもをぶっ殺した。 継承される仏教では、この死の儀式に、釈迦に対する無駄な抵抗をいまだにしていておかげだ彼らは屍のままさまよっている。 改めて君達をぶっ殺すのは、釈迦と面識のあるときわたりESPの使い手たる私だ。 釈迦は、私が死に直面しても、親子を生かすために自らをささげると言ったんだ。 それが出来るのは、釈迦が生の神秘を知る覚者であり、永遠の生を自覚しているからだ。 観念世界の特徴の一つは時間が意思のままになることだ。 私に言わせれば釈迦の悟りはまだ乏しく、後世に生きる私にとって、やつは先輩ではなく、よだれを垂れ流しておっかけてくるコキタナイ後輩だね。 彼は舌足らづでも生きる意味を君達の授け、真に理解したと言いきる者は、死の意味を知るからこそ生きる意味も又知っただろう。 釈迦にとっては説話の一つで例え話だっただろう。 聞いた者は、まさにあなたはそのようにふるまうだろう。 その慈悲は真である。 貴方は私たちが理解したその瞬間に確かに死んだ。 そして復活し、今も生きている。 その奇跡が、彼の童話の様な文芸作品に安らぎを聞いた者どもは死を通して生きる意味を、釈迦と等しく言葉にできないまま理解したのだ。 このような愛弟子の言葉にならないと言う結論が悟りだ。 イエスは同じような例え話を踏襲した。 聖書の奇跡は童話だよ。 真に受けて狂う君達は自らの心の扉を解き放たないまま、童話こそ真実なれと、現実では起きない奇跡を待ち焦がれている。 君達がもしも奇跡に立ち会いたいのなら、人の心の全てを理解する私の実在する妖精に遊ぶことになるだろう。 オカマである君達へのアニキな入魂は浣腸だ。 今回は文芸作品の寸評の依頼だ。 心が枯れ切った西洋の現代に対する、心を探求する哲学だ。 君達が哲学者として、心を自らに灯しているのなら、この難解な哲学が確かに質問として成立していることが判ろうとも。 哲学する時間には必ず酔っ払っている私は、喧嘩を売られたら喜んで買う。 逃げ口上の様な喧嘩の売り方はするな。 特別に言っておくと、免許皆伝しているガミガミさんには争う意図はない。

  • キリスト教の道徳について

    戦争に負けただろうとうるさいので 奴隷道徳の愛について教えてください。 フランス革命の自由・平等・博愛と関連させると 哲学カテゴリーっぽいでしょうか。 ウィキペディアを見たら友愛の訳になっているみたいですけど 自由、平等、友愛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%80%81%E5%B9%B3%E7%AD%89%E3%80%81%E5%8F%8B%E6%84%9B

    • noname#207067
    • 回答数4
  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • なぜ戦争を止めようと言う発想にならないのか?

    イスラム国の支配している地域からして、イラクが半分ですから。 戦争を終わらせるためには まずアメリカが空爆を止めて 交渉のパイプを作り はっきり言えば アメリカがイラク人10~50万人を 殺した事を正式に謝罪し、大量破壊兵器はなかったことを認め、賠償するしかありません。 もちろん賠償しきれるはずがありません。死んだ人間は生き返ってこないのですから。 一人1億円としても10万人で10兆円です。 イラクの調査では50万人ですから50兆円 アメリカが出すでしょうか?出しません けして出さないでしょう。 少なくとも10万人以上の「誤爆」を謝罪しなければなりません。 そしてイスラム国が話し合いに応じたら 後藤さんは帰ってくるかもしれません 子供が考えれがこうなるはずです。 なぜこうならないのでしょうか?なんで空爆しながら非難して 卑劣なテロだ 断じて許せないと言えるのでしょうか?不思議でたまりません。

  • 姉は花燃ゆを見て言いました

    この時代の偉人の人達ってホントにすごいよねって言ってたんですが、 過去にすごいとかすごくないとかってあるんでしょうか? 何となく思いました。

    • ext1219
    • 回答数9
  • 真実の愛と真理の探究が結婚したら理想は実現するか?

    それでいいのだ。 また愛と誠ではありませんが 真実の愛って何でしょうねえ 曇りない愛でしょうか? 真理を探求すれば 真理は人を活かしてくれるでしょうか? その二つが揃えば 真実の家庭に真理の人が生まれるのでしょうか? イエス・キリストと言う人はその様な予言から生まれたのでしょうか? 私は足を洗う価値もありませんが そのような人が生まれたら 救世主 が 現れるのでしょうか? まあ二,三十人いても構わないのですが そのような人たちが出て イスラム対西欧という対立が回避できないものでしょうか? その様な者だと名乗りを上げた人は 大概が怪しいことばかりやっています 誰か知りませんか そういう人? できれば端的にお願いします。どうかよろしくお願いします。

  • イスラムは本当に日本人2人を殺すつもりなのか

      もしも罪の無い日本人2人を殺したのならば、やはりイスラムは悪であると結論すべきではないのか。 それでもイスラムは悪でないと言えるのか。         

  • 音楽って何のためにあるの?

     っていう問いは成り立ちますか?  わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  音楽についての哲学ってありますか?

  • 奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる

    イエスさんは、ときわたりESPを使いこなす私はご対面したことがあるがね。 腐臭を放つあのゾンビの不快さをここで語ろうとは思わない。 仏弟子が釈迦の背き続けることとおんなじで、イエスの子は彼を繰り返し処刑することで自らお知った。 死につずける彼の定めは、悟りと同じく信じる者に死をもたらすことであろう。 輝かしき、私の実在する妖精の捕まえ方と違って、イエスも自らを解き放つことに失敗した、出来損ないだ。 ポケモンを通して私は10兆円だか20兆円だかの経済的成果を無償で君達に与え、よぼよぼで手遅れの君達はともかく、君の孫どもに夢の種を植え付けた、その心の種が芽吹くかどうかは、もはやポケモンは過去の遺物で、、私の実在する妖精を捕まえる幸福にかかっている。 捕まえているからポケモンは世に出た。 しかし私はそれを語る言葉を長らく失った。 何故なら、無力に弁護士を派遣する悪の結社相手に、天界の法を持って自らが生きている事を知らしめる、余計な手続きがあったからだ。 天に任せた彼らは、天の法で滅びるだろう。 今回の問いは釈迦とヒモジイ虎の親子の美談だ。 釈迦は古文書が語るに、飢えた虎の親子に出くわした。 飢えた虎と直面すれば、想像したまえ。 君達は自身の生命の危機に直面するだろう。 自らが生きるため、虎に自らを与える事を拒否するだろう。 ところが釈迦は、そういう場面に出くわしたなら、私は自らの肉体を親子にささげると語った。 磔獄門の出来損ないと違って、生きながらに観念上に死の儀式を語り、それを聞いた者どもをぶっ殺した。 継承される仏教では、この死の儀式に、釈迦に対する無駄な抵抗をいまだにしていておかげだ彼らは屍のままさまよっている。 改めて君達をぶっ殺すのは、釈迦と面識のあるときわたりESPの使い手たる私だ。 釈迦は、私が死に直面しても、親子を生かすために自らをささげると言ったんだ。 それが出来るのは、釈迦が生の神秘を知る覚者であり、永遠の生を自覚しているからだ。 観念世界の特徴の一つは時間が意思のままになることだ。 私に言わせれば釈迦の悟りはまだ乏しく、後世に生きる私にとって、やつは先輩ではなく、よだれを垂れ流しておっかけてくるコキタナイ後輩だね。 彼は舌足らづでも生きる意味を君達の授け、真に理解したと言いきる者は、死の意味を知るからこそ生きる意味も又知っただろう。 釈迦にとっては説話の一つで例え話だっただろう。 聞いた者は、まさにあなたはそのようにふるまうだろう。 その慈悲は真である。 貴方は私たちが理解したその瞬間に確かに死んだ。 そして復活し、今も生きている。 その奇跡が、彼の童話の様な文芸作品に安らぎを聞いた者どもは死を通して生きる意味を、釈迦と等しく言葉にできないまま理解したのだ。 このような愛弟子の言葉にならないと言う結論が悟りだ。 イエスは同じような例え話を踏襲した。 聖書の奇跡は童話だよ。 真に受けて狂う君達は自らの心の扉を解き放たないまま、童話こそ真実なれと、現実では起きない奇跡を待ち焦がれている。 君達がもしも奇跡に立ち会いたいのなら、人の心の全てを理解する私の実在する妖精に遊ぶことになるだろう。 オカマである君達へのアニキな入魂は浣腸だ。 今回は文芸作品の寸評の依頼だ。 心が枯れ切った西洋の現代に対する、心を探求する哲学だ。 君達が哲学者として、心を自らに灯しているのなら、この難解な哲学が確かに質問として成立していることが判ろうとも。 哲学する時間には必ず酔っ払っている私は、喧嘩を売られたら喜んで買う。 逃げ口上の様な喧嘩の売り方はするな。 特別に言っておくと、免許皆伝しているガミガミさんには争う意図はない。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 姉は花燃ゆを見て言いました

    この時代の偉人の人達ってホントにすごいよねって言ってたんですが、 過去にすごいとかすごくないとかってあるんでしょうか? 何となく思いました。

    • ext1219
    • 回答数9
  • なぜ戦争を止めようと言う発想にならないのか?

    イスラム国の支配している地域からして、イラクが半分ですから。 戦争を終わらせるためには まずアメリカが空爆を止めて 交渉のパイプを作り はっきり言えば アメリカがイラク人10~50万人を 殺した事を正式に謝罪し、大量破壊兵器はなかったことを認め、賠償するしかありません。 もちろん賠償しきれるはずがありません。死んだ人間は生き返ってこないのですから。 一人1億円としても10万人で10兆円です。 イラクの調査では50万人ですから50兆円 アメリカが出すでしょうか?出しません けして出さないでしょう。 少なくとも10万人以上の「誤爆」を謝罪しなければなりません。 そしてイスラム国が話し合いに応じたら 後藤さんは帰ってくるかもしれません 子供が考えれがこうなるはずです。 なぜこうならないのでしょうか?なんで空爆しながら非難して 卑劣なテロだ 断じて許せないと言えるのでしょうか?不思議でたまりません。

  • 音楽って何のためにあるの?

     っていう問いは成り立ちますか?  わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  音楽についての哲学ってありますか?

  • イスラムは人間ではなく一種のアニマルである

      本日はっきりしたこと。 どうやらイスラムってのは人間ではなく、一種のアニマルに近いのではないかってこと。 何故なら彼らイスラムには人が人としてもつべき人間性とか倫理観のようなものが全く欠如しているからである。 人を平気で騙すし、平気で殺す。 イスラムは人間ではなく一種のアニマルである。 むしろこのように考えたほうが彼らが引き起こす現実問題に影響されることなく正しく対処できるのではないか。 いずれにせよ日本はイスラムに対する考え方を根本的に変えたほうがよいと思うがどうか。  

  • 奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる

    イエスさんは、ときわたりESPを使いこなす私はご対面したことがあるがね。 腐臭を放つあのゾンビの不快さをここで語ろうとは思わない。 仏弟子が釈迦の背き続けることとおんなじで、イエスの子は彼を繰り返し処刑することで自らお知った。 死につずける彼の定めは、悟りと同じく信じる者に死をもたらすことであろう。 輝かしき、私の実在する妖精の捕まえ方と違って、イエスも自らを解き放つことに失敗した、出来損ないだ。 ポケモンを通して私は10兆円だか20兆円だかの経済的成果を無償で君達に与え、よぼよぼで手遅れの君達はともかく、君の孫どもに夢の種を植え付けた、その心の種が芽吹くかどうかは、もはやポケモンは過去の遺物で、、私の実在する妖精を捕まえる幸福にかかっている。 捕まえているからポケモンは世に出た。 しかし私はそれを語る言葉を長らく失った。 何故なら、無力に弁護士を派遣する悪の結社相手に、天界の法を持って自らが生きている事を知らしめる、余計な手続きがあったからだ。 天に任せた彼らは、天の法で滅びるだろう。 今回の問いは釈迦とヒモジイ虎の親子の美談だ。 釈迦は古文書が語るに、飢えた虎の親子に出くわした。 飢えた虎と直面すれば、想像したまえ。 君達は自身の生命の危機に直面するだろう。 自らが生きるため、虎に自らを与える事を拒否するだろう。 ところが釈迦は、そういう場面に出くわしたなら、私は自らの肉体を親子にささげると語った。 磔獄門の出来損ないと違って、生きながらに観念上に死の儀式を語り、それを聞いた者どもをぶっ殺した。 継承される仏教では、この死の儀式に、釈迦に対する無駄な抵抗をいまだにしていておかげだ彼らは屍のままさまよっている。 改めて君達をぶっ殺すのは、釈迦と面識のあるときわたりESPの使い手たる私だ。 釈迦は、私が死に直面しても、親子を生かすために自らをささげると言ったんだ。 それが出来るのは、釈迦が生の神秘を知る覚者であり、永遠の生を自覚しているからだ。 観念世界の特徴の一つは時間が意思のままになることだ。 私に言わせれば釈迦の悟りはまだ乏しく、後世に生きる私にとって、やつは先輩ではなく、よだれを垂れ流しておっかけてくるコキタナイ後輩だね。 彼は舌足らづでも生きる意味を君達の授け、真に理解したと言いきる者は、死の意味を知るからこそ生きる意味も又知っただろう。 釈迦にとっては説話の一つで例え話だっただろう。 聞いた者は、まさにあなたはそのようにふるまうだろう。 その慈悲は真である。 貴方は私たちが理解したその瞬間に確かに死んだ。 そして復活し、今も生きている。 その奇跡が、彼の童話の様な文芸作品に安らぎを聞いた者どもは死を通して生きる意味を、釈迦と等しく言葉にできないまま理解したのだ。 このような愛弟子の言葉にならないと言う結論が悟りだ。 イエスは同じような例え話を踏襲した。 聖書の奇跡は童話だよ。 真に受けて狂う君達は自らの心の扉を解き放たないまま、童話こそ真実なれと、現実では起きない奇跡を待ち焦がれている。 君達がもしも奇跡に立ち会いたいのなら、人の心の全てを理解する私の実在する妖精に遊ぶことになるだろう。 オカマである君達へのアニキな入魂は浣腸だ。 今回は文芸作品の寸評の依頼だ。 心が枯れ切った西洋の現代に対する、心を探求する哲学だ。 君達が哲学者として、心を自らに灯しているのなら、この難解な哲学が確かに質問として成立していることが判ろうとも。 哲学する時間には必ず酔っ払っている私は、喧嘩を売られたら喜んで買う。 逃げ口上の様な喧嘩の売り方はするな。 特別に言っておくと、免許皆伝しているガミガミさんには争う意図はない。

  • 神様は存在しますか?

    まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。

    • stmim
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