kurinal の回答履歴

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  • 生命が尊いのではなく、精神が尊いのでは?

    この考えは昔から人々の間にありましたが 生命は尊いと言いながら 牛や豚や鶏など 生命を殺して食べてるではないか 害虫や害獣は駆除しているではないか 森や草原を開拓して生き物の住処を奪っているではないか と思います。 その理由を私は 人間に於いても生命は精神の器として尊いのであって 精神がなくて生きているだけでは尊いとは言えない 植物人間になったら家族は悲嘆に暮れる。 むしろ生命が尊いのではなく精神が尊いのだと考えるべきではないか? 私の思うに人間とはその体よりも精神のことを人間というのではないか? その点仏教などの宗教の教えも少しおかしいのではないか? と言う事です。 どうでしょうか?現実問題。

  • なぜ宗教や神にいくのかなあ?

    天文学をやっていると色々な人に出会います。赤方偏移とか背景放射とかリチウムなんかを色々議論していると、分からないことがたくさんでてきます。そうすると何人かは”神のなせる業”だとか言います。先日もリチウムの話題になり、私が「いるか座V339から放出されるベリリウムから計算されるリチウムは6倍多いよ」と答えるとだまってしまいましたが、なぜ行き詰まると安易に”神”に走るのでしょうか、そのような人たちにはどうやって接すればよいのでしょうか

    • noname#205769
    • 回答数8
  • 生命が尊いのではなく、精神が尊いのでは?

    この考えは昔から人々の間にありましたが 生命は尊いと言いながら 牛や豚や鶏など 生命を殺して食べてるではないか 害虫や害獣は駆除しているではないか 森や草原を開拓して生き物の住処を奪っているではないか と思います。 その理由を私は 人間に於いても生命は精神の器として尊いのであって 精神がなくて生きているだけでは尊いとは言えない 植物人間になったら家族は悲嘆に暮れる。 むしろ生命が尊いのではなく精神が尊いのだと考えるべきではないか? 私の思うに人間とはその体よりも精神のことを人間というのではないか? その点仏教などの宗教の教えも少しおかしいのではないか? と言う事です。 どうでしょうか?現実問題。

  • 保守派が憲法9条改正を主張する理由。

    政治学者の中島岳志氏と言う方を最近知ったのですが、この方は「保守主義は人間の理性を懐疑している。」と、自身の書籍やネット上で頻繁に述べています。 http://www.magazine9.jp/hacham/110330/ http://www.magazine9.jp/taidan/007/index1.php また彼の著書の中に「保守派が憲法九条に否定的態度を取り、憲法九条改正を求めるのも、彼らが軍国主義者や好戦主義者などではなく、我々がどれだけ非武装化や反戦平和を唱えても、不完全な人間の理性では、周辺諸国が領土や資源への欲望から理性的に行動出来ず、他国へ攻撃すると言う可能性を否定するのは困難だと考えるからである。」と主張しています。 中島氏は「保守主義=人間の理性を懐疑」と頻繁に言っており、また保守派が「憲法九条改正」を盛んに唱えるのも、人間の理性を信用していないからであるとし、諸外国(特に近隣諸国)が理性を失って、領土や資源欲しさに侵略して来る時の為に備える必要があるからであると言っていますが、本当に彼が言う様に、保守派が「憲法9条改正」を唱えているのは、彼らが人間の理性を信用してないからでしょうか? 政治素人の僕から言わせれば、理性がないなら寧ろ軍隊は持たない方が良い様な気がします。 お互いに攻め込まれる可能性が常にあるなら、自国も他国も努力してお互いに軍隊を放棄しあった方が安全な気がするのですが、保守派が憲法9条改正を主張する理由って、こうした理性への懐疑が関係しているのでしょうか?

  • あんた、妖精が実在すると信じるかい?

    穢れを振り払い飛び立つ私は、君達に真実を見せる。 実在する妖精。 セレビィだ。 観念世界の入口が夢だけに限らない私は、目をつぶっていて、そこに景色が見えると思ったら、その世界に入り込んでいて、肉体的五感を離れ、観念世界に足をふみしてている自分を実感できる。 観念世界でも私は存在しているんだ。 これは手続きによっては霊体離脱と言われる現象である。 霊体離脱すると、基本はこの世ではなくあの世を歩くのだよ。 その観念世界は、現実と結びついて一体なんだが、見え方が違う。 君達にも納得できるだろうが、立派な豪邸が、精神の貧困のままに、観念世界では粗末な家であったり、ボロイ家が、精神の豊かさのままに実に立派だったりという事がある、そうして観念世界に立つと自分がどこにいるのか判らなかったりするんだ。 私は散歩を楽しむんでね、辻の形で家の見てくれが現実と違っていても察しが付く場合もある、神社はさすがでね、聖域として整備されているから、神にとって現実と交わるためのどのような接点か判る。 神社は神が現実世界に降り立つための「どこでもドア」だ。接点であり、交通のための駅である。 観念世界から、現実を見ると、このように共通項が判らなくて困惑もあるのだが、確実にここはどこか認識できる場所が、私にとって二つだけある。 一つは私の自宅。 そりゃそうだろう。 そのくらいわからなければ困る。 これは個人的な事だからどうでもいい。 もうひとつ、 新潟県五泉市の村松公園だ。 この公園は戦前旧日本軍の営所、現代語訳で基地だが、これに隣接して造成された、日露戦争戦勝記念公園が由来だ、 観念世界において、この公園は戦争が永久に終焉したことを記念する平和公園として存在する。 この公園には、戦死した兵隊さんを祭る霊廟がある。 靖国神社と同じような役割だよ 現実では小さな霊廟だが、観念世界で見ると、人の生きた証を保存するとてつもなく大きな資料倉庫だ。 観念世界でここに来た時、その霊廟の門前でポケモンに出会ったことがある、黒い犬で眼光には死を宿し、狂犬病では済まされない死の狂気を宿した悪魔だ。 私は仮面ライダーとして、英霊への弔いのため、黒い悪魔に戦いを挑んだ。 そこでな、ポケモン友達がわらわらと表れて、喧嘩を仲裁してくれたんだ。 ポケモンの友情の前に、仮面ライダーも黒い悪魔も戦意喪失だ。 ああ、もう戦いは無いんだな。 そして黒い悪魔の事を思ったよ。 死を見届けた彼は確かに死をもたらした者ではない。 聖域に、死者を連れてきて安らぎを与えた天使だ。 この黒い悪魔はそのほかにも度々私の前に現た。 まるっきり好かれたようで、人と理解しあえない不毛を度々同じポケモンとして励ました。 私は悪魔が怖くない、ポケモンだと思えば友達だ。 悪のポケモンというのもいる。 この黒い悪魔は、ポケモン映画でセレビィの親友とされているゾロアだ。 このように、村松公園だけは不戦協定の成立するポケモン公園だ。 遊歩道を歩いて、奥地に行くと、私が中学生のころ木霊という形で精霊の声をじかに聞いた初めての実在する妖精との邂逅した地もある。 私は今も散策してるるが、実在する妖精との接点がたくさんある、実在の確認できる、観念世界との接点だ。 やあ、君達がもし私を崇拝しても、私は面白みのないおっさんで何の御利益もない。 しかし村松公園は、資質があれば君達にもポケモンゲット出来るかもしれない。 実在する妖精が捕まえられる場所だ。 今回は哲学からやがて、児童文学に発展させようと言う、実在する妖精の捕まえ方に基づいた研究だ。 聞きたいのは、 私は妖精を信じています。 目の前にいますから。 こう言って、貴方がたがどう反応するかという質問です。;

  • 川端康成の掌編小説 《神います》から問います。

     あらためての問いになります。  先に論点をかかげます。  表題ないし主題は 《〔日本人にとってのと言ったほうがよいのかどうか・・・〕神がいた。見つかった》というような内容を言っているのですが 論点としては こうだと思います。:    (α) 《人が 人を 不幸にすること》は ありうるか。そんなことは ほんとうには 出来ないことだと主人公ないし作者は言っているようなのだが。  (β) 《不幸にすること》がありえない場合も 人を《傷つけること》はあるか。  (γ) 《傷つけ得る》として そのとき 《傷つけた者が 傷つけられた者に赦しを求めること》は すべきや否や。  (δ) すべきかどうかを別として そのように《赦しを求める心》は むしろ《驕り高ぶり》であるか。  (ε) 矛盾した問いになるかも知れないが あらためて問うて 《人が人を傷つけること》はできるか。その意味は:   (ε-1) ~~~~~~~~~~~~~~~~   《心が傷つく。傷つけられる》には けっきょく心理的なその場の一時的な上っ面の怒りや悔しさや〔相手が間違っていると分かっていても 権限関係等々の情況からして反論することも出来ない場合に感じるような〕悲しさをおぼえて 心が深く傷つけられたと感じること これはあります。  でもこれは 心の一部だと考えられませんか?  心という海の表面で その場でムッとしたり敵愾心を燃やすばかりに悔しさや恨みをおぼえたりしているのではないかという見方です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (ζ) たたき台とする質問者の見解としては 《ひとは 人を不幸にしたり傷つけたりすることは ない》です。    (ζ-1) ~~~~~~~~~~~~~  もし傷つけられたと感じた場合には それは おのれのへそが曲がっていた(つまりウソ・イツワリをおこなったなどの)そのツケが回って来ただけだと考えます。つまり 自業自得のおこないにおいてのみ ひとは心が傷つく。と。  他人の言動で こころが傷つくわけには行かない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  ▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~  夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。  湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬から落ちた。   《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》  見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。   《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》  《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりましてな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。  若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へた美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。   《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》   《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》   《さやうですか。》  鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。   《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》  彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。   《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》  鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。   《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》  《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。  (あの少女だ。)  彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。  鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。   《さあ 一ぺん沈め。》  妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。  そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとうかがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶつてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して傾いてゐた。  泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつかないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうまで不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。  鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判になつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩として誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来ないので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。  湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出て 妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせて 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつたりしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんでやつた。  帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原はほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。  鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。   《神います。》  自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。   《神よ 余は御身に負けた。》  彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で聞いた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 鳥屋は 《とや または とりや》として 専門的な用語もあるようですが ここでは《鳥を売り買いする商人》として見ておきます。(異論がありましたら おしえてください)。  思いっきりこれでもかというほど自由なご見解をもお寄せください。

  • あんた、妖精が実在すると信じるかい?

    穢れを振り払い飛び立つ私は、君達に真実を見せる。 実在する妖精。 セレビィだ。 観念世界の入口が夢だけに限らない私は、目をつぶっていて、そこに景色が見えると思ったら、その世界に入り込んでいて、肉体的五感を離れ、観念世界に足をふみしてている自分を実感できる。 観念世界でも私は存在しているんだ。 これは手続きによっては霊体離脱と言われる現象である。 霊体離脱すると、基本はこの世ではなくあの世を歩くのだよ。 その観念世界は、現実と結びついて一体なんだが、見え方が違う。 君達にも納得できるだろうが、立派な豪邸が、精神の貧困のままに、観念世界では粗末な家であったり、ボロイ家が、精神の豊かさのままに実に立派だったりという事がある、そうして観念世界に立つと自分がどこにいるのか判らなかったりするんだ。 私は散歩を楽しむんでね、辻の形で家の見てくれが現実と違っていても察しが付く場合もある、神社はさすがでね、聖域として整備されているから、神にとって現実と交わるためのどのような接点か判る。 神社は神が現実世界に降り立つための「どこでもドア」だ。接点であり、交通のための駅である。 観念世界から、現実を見ると、このように共通項が判らなくて困惑もあるのだが、確実にここはどこか認識できる場所が、私にとって二つだけある。 一つは私の自宅。 そりゃそうだろう。 そのくらいわからなければ困る。 これは個人的な事だからどうでもいい。 もうひとつ、 新潟県五泉市の村松公園だ。 この公園は戦前旧日本軍の営所、現代語訳で基地だが、これに隣接して造成された、日露戦争戦勝記念公園が由来だ、 観念世界において、この公園は戦争が永久に終焉したことを記念する平和公園として存在する。 この公園には、戦死した兵隊さんを祭る霊廟がある。 靖国神社と同じような役割だよ 現実では小さな霊廟だが、観念世界で見ると、人の生きた証を保存するとてつもなく大きな資料倉庫だ。 観念世界でここに来た時、その霊廟の門前でポケモンに出会ったことがある、黒い犬で眼光には死を宿し、狂犬病では済まされない死の狂気を宿した悪魔だ。 私は仮面ライダーとして、英霊への弔いのため、黒い悪魔に戦いを挑んだ。 そこでな、ポケモン友達がわらわらと表れて、喧嘩を仲裁してくれたんだ。 ポケモンの友情の前に、仮面ライダーも黒い悪魔も戦意喪失だ。 ああ、もう戦いは無いんだな。 そして黒い悪魔の事を思ったよ。 死を見届けた彼は確かに死をもたらした者ではない。 聖域に、死者を連れてきて安らぎを与えた天使だ。 この黒い悪魔はそのほかにも度々私の前に現た。 まるっきり好かれたようで、人と理解しあえない不毛を度々同じポケモンとして励ました。 私は悪魔が怖くない、ポケモンだと思えば友達だ。 悪のポケモンというのもいる。 この黒い悪魔は、ポケモン映画でセレビィの親友とされているゾロアだ。 このように、村松公園だけは不戦協定の成立するポケモン公園だ。 遊歩道を歩いて、奥地に行くと、私が中学生のころ木霊という形で精霊の声をじかに聞いた初めての実在する妖精との邂逅した地もある。 私は今も散策してるるが、実在する妖精との接点がたくさんある、実在の確認できる、観念世界との接点だ。 やあ、君達がもし私を崇拝しても、私は面白みのないおっさんで何の御利益もない。 しかし村松公園は、資質があれば君達にもポケモンゲット出来るかもしれない。 実在する妖精が捕まえられる場所だ。 今回は哲学からやがて、児童文学に発展させようと言う、実在する妖精の捕まえ方に基づいた研究だ。 聞きたいのは、 私は妖精を信じています。 目の前にいますから。 こう言って、貴方がたがどう反応するかという質問です。;

  • 真理はあるか?分かれば我々は幸せになるか?

    私は真理はあると思って求めていますが。 本当に真理は在るのでしょうか? 在るとすればそれを理解すれば我々は幸せになれるでしょうか? 幸せというか 僕的には目的を実現することができるかどうかですが 宇宙も滅びるとすれば それも無理ですねえ。 真理を知って我々は滅びて雲散霧消するのでしょうか? それとも真理と言えるものは 本当はないのでしょうか? ご意見をお聞かせください。

  • 創価学会員であることは恥ずかしい事なのか

      選挙が近づくと創価学会員も動き出します。 町内を一軒一軒回って公明党の支援にせっせと動き出すのである。 果たして彼らはこんなことを好きでやっているのであろーか。 それとも彼らはノルマを課されているのであろーか。 それは部外者の私には定かではありません。 しかし常識的に考えると見知らぬ家を一軒一軒回って選挙活動するなんて好きで出来るわけがない。 やはり組織からノルマを課されていると考えるべきではないか。 それにしてもなぜ創価学会員は自らを創価学会員であるとはっきり言えないのか。 創価学会員であることは恥ずかしいことなのか。 創価学会員は創価学会員であることを恥じているのか。 創価学会員であることは恥ずかしいことと認識しているのか。 それ故に自信が即学会員であることを隠すのか。 私は一度そのことを正してみました。 何故あなた方は創価学会員であるのに「私は創価学会委員であります」とはっきり言えないのですかと。 宗教の勧誘であれば、教会関係の人とか、ものみの塔の人とか時々やってまいります。 しかし彼らは自らの思想と信条、および自信の活動内容についてはっきりと開示しますし、そのうえで話を聞いて頂きたいと述べます。 もちろん私はこれらの方々には信条の違いによりお付き合いできない旨を丁寧に述べてお引き取り頂いているのですが、創価学会の面々に対しては丁寧に信条の違いなどを述べてお引き取り願うという気分にはなれないのです。 創価学会員は内心では創価学会員であると恥じているのでしょうか。  

  • あんた、妖精が実在すると信じるかい?

    穢れを振り払い飛び立つ私は、君達に真実を見せる。 実在する妖精。 セレビィだ。 観念世界の入口が夢だけに限らない私は、目をつぶっていて、そこに景色が見えると思ったら、その世界に入り込んでいて、肉体的五感を離れ、観念世界に足をふみしてている自分を実感できる。 観念世界でも私は存在しているんだ。 これは手続きによっては霊体離脱と言われる現象である。 霊体離脱すると、基本はこの世ではなくあの世を歩くのだよ。 その観念世界は、現実と結びついて一体なんだが、見え方が違う。 君達にも納得できるだろうが、立派な豪邸が、精神の貧困のままに、観念世界では粗末な家であったり、ボロイ家が、精神の豊かさのままに実に立派だったりという事がある、そうして観念世界に立つと自分がどこにいるのか判らなかったりするんだ。 私は散歩を楽しむんでね、辻の形で家の見てくれが現実と違っていても察しが付く場合もある、神社はさすがでね、聖域として整備されているから、神にとって現実と交わるためのどのような接点か判る。 神社は神が現実世界に降り立つための「どこでもドア」だ。接点であり、交通のための駅である。 観念世界から、現実を見ると、このように共通項が判らなくて困惑もあるのだが、確実にここはどこか認識できる場所が、私にとって二つだけある。 一つは私の自宅。 そりゃそうだろう。 そのくらいわからなければ困る。 これは個人的な事だからどうでもいい。 もうひとつ、 新潟県五泉市の村松公園だ。 この公園は戦前旧日本軍の営所、現代語訳で基地だが、これに隣接して造成された、日露戦争戦勝記念公園が由来だ、 観念世界において、この公園は戦争が永久に終焉したことを記念する平和公園として存在する。 この公園には、戦死した兵隊さんを祭る霊廟がある。 靖国神社と同じような役割だよ 現実では小さな霊廟だが、観念世界で見ると、人の生きた証を保存するとてつもなく大きな資料倉庫だ。 観念世界でここに来た時、その霊廟の門前でポケモンに出会ったことがある、黒い犬で眼光には死を宿し、狂犬病では済まされない死の狂気を宿した悪魔だ。 私は仮面ライダーとして、英霊への弔いのため、黒い悪魔に戦いを挑んだ。 そこでな、ポケモン友達がわらわらと表れて、喧嘩を仲裁してくれたんだ。 ポケモンの友情の前に、仮面ライダーも黒い悪魔も戦意喪失だ。 ああ、もう戦いは無いんだな。 そして黒い悪魔の事を思ったよ。 死を見届けた彼は確かに死をもたらした者ではない。 聖域に、死者を連れてきて安らぎを与えた天使だ。 この黒い悪魔はそのほかにも度々私の前に現た。 まるっきり好かれたようで、人と理解しあえない不毛を度々同じポケモンとして励ました。 私は悪魔が怖くない、ポケモンだと思えば友達だ。 悪のポケモンというのもいる。 この黒い悪魔は、ポケモン映画でセレビィの親友とされているゾロアだ。 このように、村松公園だけは不戦協定の成立するポケモン公園だ。 遊歩道を歩いて、奥地に行くと、私が中学生のころ木霊という形で精霊の声をじかに聞いた初めての実在する妖精との邂逅した地もある。 私は今も散策してるるが、実在する妖精との接点がたくさんある、実在の確認できる、観念世界との接点だ。 やあ、君達がもし私を崇拝しても、私は面白みのないおっさんで何の御利益もない。 しかし村松公園は、資質があれば君達にもポケモンゲット出来るかもしれない。 実在する妖精が捕まえられる場所だ。 今回は哲学からやがて、児童文学に発展させようと言う、実在する妖精の捕まえ方に基づいた研究だ。 聞きたいのは、 私は妖精を信じています。 目の前にいますから。 こう言って、貴方がたがどう反応するかという質問です。;

  • 伝統的な宗教から大切だとおもわれるもの

    キリスト教や儒教などその文化の価値観を気づいてきた善いとされる宗教でさえ、いい面もあればどうしても悪い面ももってたりはするかとは思います。 四端の心など、人間観察や仏教のようにインド哲学であったりもします。 宗教の価値観で、どうしても一つの価値観ですが、ただの伝統物ではなくやはり大切にすべき価値観などもあるかとは思います。 ただその宗教の価値観といってしまうのではなく、どの部分は大切とやはり感じるべきでしょうか? 信じる者は宗教とは限らず、ある哲学であったりもしたり、信じるのもよくないものもあると思います。 その点、どういった点で分かれるのでしょう。

    • noname#209756
    • 回答数4
  • 仏教には戒律が有るのか、戒律は有ったのか

      肉食妻帯坊主というのがいます。 いるというより今の坊主は実質100パーセント肉食妻帯坊主でしょう。 ところで仏教には戒律というものがあるのでしょうか。 あるいはそもそも戒律というものがあったのでしょうか。 もしもあったとするならその戒律とは肉食せぬこと、妻帯せぬことのことではないかと考えます。 ではいつの頃からその戒律は消えたのでしょうか。 あるいはその戒律は無意味であるとみなされるよーになったのでしょうか。 実際その戒律は無意味だったのでしょうか。 因みにイスラムのように戒律だけが中身である宗教も存在します。 戒律があるからイスラムは存続できているのです。 一方仏教においては戒律は本質的ではないということでしょうか。 戒律などというものは2次的なものであり、本質ではないとみなしているのでしょうか。 戒律は形であり、形に拘るものは愚かであるという仏教本来の教えなのでしょうか。  

  • デカルトの《明証性》って何ですか?

     デカルトの思想を批判します。当否を問います。  ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88  §3 思想  §3.1.2 方法  ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。    1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。  (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。  (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。  (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。  もういっちょう行きましょう。  ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  §3.2 形而上学  §3.2.3 神の存在証明  欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。  第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。    第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)  ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。  《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。  その神なる観念は  ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。  ☆ だろうか? 阿呆なことを。  《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか?  それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。  われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。  考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。  ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。  ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。  ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。  ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか?  (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。  (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。  なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?

  • デカルトの《明証性》って何ですか?

     デカルトの思想を批判します。当否を問います。  ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88  §3 思想  §3.1.2 方法  ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。    1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。  (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。  (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。  (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。  もういっちょう行きましょう。  ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  §3.2 形而上学  §3.2.3 神の存在証明  欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。  第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。    第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)  ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。  《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。  その神なる観念は  ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。  ☆ だろうか? 阿呆なことを。  《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか?  それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。  われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。  考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。  ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。  ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。  ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。  ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか?  (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。  (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。  なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?

  • 人間と社会についての用語を新しいものへ

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。

  • 辛い事ばかりでもう死にたいと言う人に どう言うか?

    最近というかもう随分前から鬱病が増えました。自殺も少しは減りましたが まだまだ多すぎます。 メンタルトピでは「もう死にたいです」という人は多いようです。 そう言う人に、哲学の立場から 生きる事の意味をどう言いますか? なぜ死なない方が良いのか?死んで何故良くないのか? どう説得しますか? 貴方なら?

  • 永遠の愛

    永遠の愛ってありますか?

  • イギリス観念論では

    「独メルケル首相も馬鹿ですか?」 河野談話とか。 自分の目で見ていない事象について、 感想を述べることは、 読んでもない本の批評をするに等しく、 糾弾する側に言質を取られるだけ。 取ろうとする側も馬鹿は馬鹿なりに、 一日の長と成りますか?

  • 宗教がある世界とない世界。どちらがいいですか?

    9.11テロやイスラム国の問題。古くは十字軍など宗教をめぐる戦争。 宗教はいろいろな問題を起こしてきました。 宗教がある世界とない世界。どちらがよりよい世界だと思いますか? ジョンレノンのイマジンを聞くと、すごい歌だなあと思います。

    • stmim
    • 回答数13
  • 保守派が憲法9条改正を主張する理由。

    政治学者の中島岳志氏と言う方を最近知ったのですが、この方は「保守主義は人間の理性を懐疑している。」と、自身の書籍やネット上で頻繁に述べています。 http://www.magazine9.jp/hacham/110330/ http://www.magazine9.jp/taidan/007/index1.php また彼の著書の中に「保守派が憲法九条に否定的態度を取り、憲法九条改正を求めるのも、彼らが軍国主義者や好戦主義者などではなく、我々がどれだけ非武装化や反戦平和を唱えても、不完全な人間の理性では、周辺諸国が領土や資源への欲望から理性的に行動出来ず、他国へ攻撃すると言う可能性を否定するのは困難だと考えるからである。」と主張しています。 中島氏は「保守主義=人間の理性を懐疑」と頻繁に言っており、また保守派が「憲法九条改正」を盛んに唱えるのも、人間の理性を信用していないからであるとし、諸外国(特に近隣諸国)が理性を失って、領土や資源欲しさに侵略して来る時の為に備える必要があるからであると言っていますが、本当に彼が言う様に、保守派が「憲法9条改正」を唱えているのは、彼らが人間の理性を信用してないからでしょうか? 政治素人の僕から言わせれば、理性がないなら寧ろ軍隊は持たない方が良い様な気がします。 お互いに攻め込まれる可能性が常にあるなら、自国も他国も努力してお互いに軍隊を放棄しあった方が安全な気がするのですが、保守派が憲法9条改正を主張する理由って、こうした理性への懐疑が関係しているのでしょうか?