kurinal の回答履歴
- ひとは 神の霊が去っても 心のすなほにて起ち上がる
▲ (旧約聖書 ハバクク書2:4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Hab&c=2&t=KJV#s=t_conc_905004 △〔ギリシャ語セプトゥアギンタ〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし神なるわが霊が そのひとにおいて縮こまってしまい そこにやどりつづけることが無くなったとしても こころのまっすぐなひとは われを思うまこと(非思考の庭)の中から立ちあがり生きる。 △ 〔ヘブル語聖書〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ かのひとのたましひは みづからの内に這いつくばって まっすぐに立つことができない しかも そのひとのまこと(非思考の庭)にあってすなほなる者は 生きる。 ▽ (新共同訳 1987) ~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。 ▽ (口語訳 1955) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ、その魂の正しくない者は 衰える。 しかし義人はその信仰によって 生きる。 ▽ (KJV) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Behold, his soul which is lifted up is not upright in him: but the just shall live by his faith. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 和訳はいづれも 人をよい人と悪い人とのふたつに分けているようです。ですが そうではなく 同じひとりの人について語っているのではないか? つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではないか? そう捉えるなら おおきな意味での《信じる》によってひとは生きる。と言えるのではないか。 もっと細かく言うとすれば すでにその人は 人も神も仏も(?)何もかもを信じ得なくなっている。そこにおいて そこにおいても 心の奥底の《すなほ》によって やおらかれは・かのじょは 起ち上がる。すなわち《触媒人間》なり。 これを問います。 《触媒人間》については 次を参照してください。 【Q:池に落ちて水に濡れざる《触媒》人間!?】 そのほか 翻訳をめぐっての解釈などにかんする重要な事項などがありましたら おしえてください。いちど次の質問でいくらか検討しています。 【Q:ハバクク書2:4 / 《心のまっすぐな人》も凹む】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8312969.html
- 霊って、現代の言葉で説明するとどうなるのでしょう?
霊って宗教とかスピリチュアルではよく聞きますが科学や哲学ではあまり聞かないようですねえ 「霊」を哲学や科学の言葉で言い換えるとどうなるのでしょうか? 精神って霊の一種でしょうか?(生霊)「魂」もついでにどう言い換えられるでしょうか? 性質と同じ質だと思ってはいますが どうでしょう?貴方の語感、認識ではどうでしょう? 教えて下さい。お願いします。
- 人間と社会についての用語を新しいものへ
§1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関 (1) 人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。 《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。 《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。 (2) 強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。 (3) 《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。 (4) わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。 (5) これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 (6) 次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。 あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。 §2 主観としての《S‐A連関》から出発する (7) 主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。 (8) すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。 (9) このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。 (10) 主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。 (11) 主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。 §3 共同主観と共同観念 (12) さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。 (13) たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。 (14) したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。 (15) これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。 (16) この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。 (17) 共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。 (18) しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。 (19) もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。 (20) つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。 (21) また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。 §4 記憶・知解・意志(愛) (22) 身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。 (23) 同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。 (24) 何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。 (25) 精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。 (26) 記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。 (27) また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。 (28) 従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。 (29) 新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。 (30) そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。 (31) 以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。
- 哲学に正解はありますか?
哲学というのは個人個人で思い思いの『私の思う世界』という箱庭をつくり「どうです?私の箱庭。これが世界なんですよ」と披露しあうことなんじゃないかと思います。 その箱庭の中で矛盾が生じなければ一応合格であると思います。 もしその箱庭にファンが多ければ、その作者は偉大な哲人として名を残すことになるのでしょう。 そこにはどれが正解、不正解というのはない気がするのですが、いかがでしょうか?
- 信仰とは?
私はクリスチャンではないのですが 高校の時に四福音書を読みました 日本ギデオン協会?が新約聖書を高校で配ったからです。 しかしイエスの復活が信じられなかったので他は黙示録とか創世記とかを読みました しかし此処に至り 読めるうちに使徒行伝も読んでみようと思って読んでいますが メシアでもないのに奇跡が続出 死人は蘇り 病気は治り こりゃなんだと思いました。 しかしクリスチャンはこの信じ難き事を信じるほどの信仰を持たねばなりません 私も解釈改憲じゃないですが こういう意味だろうかああ言う事だろうかと 首を捻り捻り読んでいますが、どうにも信仰がないため分かりません。 世界には数億のいや十数億のクリスチャンがいるでしょうけど その人たちはこれを信じているのでしょうか? バスが土砂に埋まったとき 遭難や地震(阪神淡路、東日本等)後藤さん湯川さんの時も 及ばずながら祈りましたが 祈りは一度も通じません 私だけが祈ったのでしょうか? 多くのクリスチャンも祈ったはずです。しかし結果は何時も祈り虚しく・・・ そしてたまに祈りと現実が一致したら「奇跡的に」「奇跡だ」と言って喜びます。 果たしてこの様な信仰 クリスチャンに限らず 神頼みの信仰は何のためにあるのか? それは己の心を強く持ついために在るのではないでしょうか? しかしその反面 祈るばかりで現実に出来ることを諦めて 今は皆で祈りましょう と 言うこともよくあります。 これは思考停止にもつながります。行動しながら祈るのが一番なのです 「天(神)は自らを助くるものを助く」と言います ところがその結果 突出したのがアメリカです。USAです。 それはクリスチャンが投票してるとはとても思えないような軍事力と資本主義 格差社会と大国のエゴ そして権利の主張と裁判の数です。 他にも宗教は仏教系、神道系、イスラム系、新興宗教も日本でも見られますが 信仰とは一体何でしょうか?死人が蘇ると信じる事?祈るより他無い時に頼るもの? 皆で一つの教えを信じて仲間になること? しかし宗教内部でもそうそう仲が良いばかりではありません。 かと言ってマルクスのように信仰を否定すると 信仰と共に在った道徳・倫理や教えまで 一緒にかなぐり捨ててしまいます。 その結果が粛清だったりしますし。 一体現代、現在に生きる我々は 何を信じるべきでしょうか? 科学? 人間? 愛? お金? 神? 家族? 自分の心?・・・ 人は全く何も信じないでは行動できません。足元に大地があるだろうと信じて 足場が壊れないことを信じて歩き、生きているのです。 哲学として皆さんが考えた結果 これは信じられるというものはなんですか 信仰の対象とできるのはなんでしょう? 皆さんの日頃思うところを教えていただけると有難いです。 我々は何を信じればいいのでしょう? コギトでもイデアでも 真心でも愛でも 言葉でも理性でも何でも来いです。 どうか教えて頂きたいm(_ _)m
- ひとは 神の霊が去っても 心のすなほにて起ち上がる
▲ (旧約聖書 ハバクク書2:4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Hab&c=2&t=KJV#s=t_conc_905004 △〔ギリシャ語セプトゥアギンタ〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし神なるわが霊が そのひとにおいて縮こまってしまい そこにやどりつづけることが無くなったとしても こころのまっすぐなひとは われを思うまこと(非思考の庭)の中から立ちあがり生きる。 △ 〔ヘブル語聖書〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ かのひとのたましひは みづからの内に這いつくばって まっすぐに立つことができない しかも そのひとのまこと(非思考の庭)にあってすなほなる者は 生きる。 ▽ (新共同訳 1987) ~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。 ▽ (口語訳 1955) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ、その魂の正しくない者は 衰える。 しかし義人はその信仰によって 生きる。 ▽ (KJV) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Behold, his soul which is lifted up is not upright in him: but the just shall live by his faith. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 和訳はいづれも 人をよい人と悪い人とのふたつに分けているようです。ですが そうではなく 同じひとりの人について語っているのではないか? つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではないか? そう捉えるなら おおきな意味での《信じる》によってひとは生きる。と言えるのではないか。 もっと細かく言うとすれば すでにその人は 人も神も仏も(?)何もかもを信じ得なくなっている。そこにおいて そこにおいても 心の奥底の《すなほ》によって やおらかれは・かのじょは 起ち上がる。すなわち《触媒人間》なり。 これを問います。 《触媒人間》については 次を参照してください。 【Q:池に落ちて水に濡れざる《触媒》人間!?】 そのほか 翻訳をめぐっての解釈などにかんする重要な事項などがありましたら おしえてください。いちど次の質問でいくらか検討しています。 【Q:ハバクク書2:4 / 《心のまっすぐな人》も凹む】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8312969.html
- イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある。
(あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。 言いかえると (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。 (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。 (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は 《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。 (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。 どうでしょう?
- 池に落ちて水に濡れざる《触媒》人間!?
この質問は 次のものを継ぎます。 【Q:池に落ちて水に濡れずに上がって来られるか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8929621.html 世の中にあって 違法行為にまでは到らない段階で それでもよき人間関係においてもシガラミの中でと同じように欺かれたり罠に落ち入ったりすることがままあるように そのような失敗体験を味わうことがあります。 具体的には 恋愛の失敗だとかあるいは何らかの軽いものですが不祥事であるとか これらを経て一たん水に濡れるのですが それでも元のわれに還って来る。あたかも触媒のごとく 相手との絡みでは化学反応を起こしたのだけれど みづからは元のままにとどまるという離れ業。 この触媒のごとき離れ業は どうすれば出来るか? あるいは むしろ――わたしの感覚では《何もしないたたかい》と言葉では言っているのですが―― 何もしないで我れが我れである我れにとどまりつづけるのか? 元気なく沈んでしまっていたとしても いちど魂振り――みづからへのツッコミ――をやれば しゃきっとして 《触媒》人間になっているのか? みなさんのお知恵を拝借します。思いっきり自由なご見解をどうぞ。
- 人はなぜ確率の低いことを実現できるのでしょうか
人間がやることはすべて自然には起こらないことだと思います。どういう理由でそのようなことが可能なのでしょうか。知能との関係で説明可能なことなのでしょうか。
- イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある。
(あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。 言いかえると (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。 (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。 (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は 《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。 (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。 どうでしょう?
- ぼくと結婚してください。
私はおもちゃ屋さんです。 子供が好きで仕事が楽しいです。 子供たちが一つでも多くの幸せな思い出を作って成長し、精神的に強い良い大人、良い父、善い母になってもらいたいです。 そんなお手伝いが生きがいです。 そんな私は子育てについて、わき役の立場ですが、そろそろ45歳という年齢になって、子供への愛情の主人公、すなわち父になりたいと思い立ちました。 単刀直入に「俺の子供を産め」こんな風に花嫁募集中です。 そもそもこの手の恋人募集は規約違反でしょう。 ただ今回は実験でして、哲学カテゴリーという看板とは違って、実質的にここはオカマバーです。 哲学の猛者であり、同時にオカマの皆さんから、「あなたの子供を産んでもいいわーん」という回答を歓迎いたします。 私を男にしてください。
- 池に落ちて水に濡れざる《触媒》人間!?
この質問は 次のものを継ぎます。 【Q:池に落ちて水に濡れずに上がって来られるか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8929621.html 世の中にあって 違法行為にまでは到らない段階で それでもよき人間関係においてもシガラミの中でと同じように欺かれたり罠に落ち入ったりすることがままあるように そのような失敗体験を味わうことがあります。 具体的には 恋愛の失敗だとかあるいは何らかの軽いものですが不祥事であるとか これらを経て一たん水に濡れるのですが それでも元のわれに還って来る。あたかも触媒のごとく 相手との絡みでは化学反応を起こしたのだけれど みづからは元のままにとどまるという離れ業。 この触媒のごとき離れ業は どうすれば出来るか? あるいは むしろ――わたしの感覚では《何もしないたたかい》と言葉では言っているのですが―― 何もしないで我れが我れである我れにとどまりつづけるのか? 元気なく沈んでしまっていたとしても いちど魂振り――みづからへのツッコミ――をやれば しゃきっとして 《触媒》人間になっているのか? みなさんのお知恵を拝借します。思いっきり自由なご見解をどうぞ。
- 哲学に正解はありますか?
哲学というのは個人個人で思い思いの『私の思う世界』という箱庭をつくり「どうです?私の箱庭。これが世界なんですよ」と披露しあうことなんじゃないかと思います。 その箱庭の中で矛盾が生じなければ一応合格であると思います。 もしその箱庭にファンが多ければ、その作者は偉大な哲人として名を残すことになるのでしょう。 そこにはどれが正解、不正解というのはない気がするのですが、いかがでしょうか?
- 信仰とは?
私はクリスチャンではないのですが 高校の時に四福音書を読みました 日本ギデオン協会?が新約聖書を高校で配ったからです。 しかしイエスの復活が信じられなかったので他は黙示録とか創世記とかを読みました しかし此処に至り 読めるうちに使徒行伝も読んでみようと思って読んでいますが メシアでもないのに奇跡が続出 死人は蘇り 病気は治り こりゃなんだと思いました。 しかしクリスチャンはこの信じ難き事を信じるほどの信仰を持たねばなりません 私も解釈改憲じゃないですが こういう意味だろうかああ言う事だろうかと 首を捻り捻り読んでいますが、どうにも信仰がないため分かりません。 世界には数億のいや十数億のクリスチャンがいるでしょうけど その人たちはこれを信じているのでしょうか? バスが土砂に埋まったとき 遭難や地震(阪神淡路、東日本等)後藤さん湯川さんの時も 及ばずながら祈りましたが 祈りは一度も通じません 私だけが祈ったのでしょうか? 多くのクリスチャンも祈ったはずです。しかし結果は何時も祈り虚しく・・・ そしてたまに祈りと現実が一致したら「奇跡的に」「奇跡だ」と言って喜びます。 果たしてこの様な信仰 クリスチャンに限らず 神頼みの信仰は何のためにあるのか? それは己の心を強く持ついために在るのではないでしょうか? しかしその反面 祈るばかりで現実に出来ることを諦めて 今は皆で祈りましょう と 言うこともよくあります。 これは思考停止にもつながります。行動しながら祈るのが一番なのです 「天(神)は自らを助くるものを助く」と言います ところがその結果 突出したのがアメリカです。USAです。 それはクリスチャンが投票してるとはとても思えないような軍事力と資本主義 格差社会と大国のエゴ そして権利の主張と裁判の数です。 他にも宗教は仏教系、神道系、イスラム系、新興宗教も日本でも見られますが 信仰とは一体何でしょうか?死人が蘇ると信じる事?祈るより他無い時に頼るもの? 皆で一つの教えを信じて仲間になること? しかし宗教内部でもそうそう仲が良いばかりではありません。 かと言ってマルクスのように信仰を否定すると 信仰と共に在った道徳・倫理や教えまで 一緒にかなぐり捨ててしまいます。 その結果が粛清だったりしますし。 一体現代、現在に生きる我々は 何を信じるべきでしょうか? 科学? 人間? 愛? お金? 神? 家族? 自分の心?・・・ 人は全く何も信じないでは行動できません。足元に大地があるだろうと信じて 足場が壊れないことを信じて歩き、生きているのです。 哲学として皆さんが考えた結果 これは信じられるというものはなんですか 信仰の対象とできるのはなんでしょう? 皆さんの日頃思うところを教えていただけると有難いです。 我々は何を信じればいいのでしょう? コギトでもイデアでも 真心でも愛でも 言葉でも理性でも何でも来いです。 どうか教えて頂きたいm(_ _)m
- 科学技術と感性が変わって倫理の変化と変わらないもの
20年前からすれば、パソコン、スマホなどデジタルなコンピューター、家電など登場して、世代も変わって、倫理ってどのように追加などしないといけないのでしょう? 技術の倫理かもしれないですが、新しい技術の使う方向性や進化が早いので、文化の遅滞をおこすためにおこる法律の未整備などついた害悪の対応など。 私は20年前も今も傷害や窃盗をしてはよくないですし。人が今も昔社会を構成したり、生活してたりはするかとは思います。ですので人の道というものは内容が変更はあるものの基本的なものを変わらないように思えます。 不倫は戦争の多くて、男性が少なくなった社会で一夫多妻になったり金持ちがやってた歴史があるものの、人は一夫一妻制の動物に近いとか、社会の意識などで急な変化もやはり厳しいものが有るのではとも思います。 現在も科学技術でもやはり新しい問題ってあると思います。 よく似た質問しましたが、人としての変わらないものと変わるものは何でしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#209756
- 回答数6
- イスラム教徒を殺せ、ミャンマーの仏教徒は怒った
ミャンマーで仏教徒の女性がイスラム教徒にレイプされ殺害された。 この事件にミャンマーの仏教徒達は怒り立ち上がった。 そしてイスラム教徒を殺せと襲いかかった。 やはりイスラムは世界のどこにいても悪党であり、畜生であり、人類の的ではないのか。 仏教国の日本としてはミャンマーの仏教徒達に味方したいものである。 我々はミャンマーの仏教徒達を支援すべきではないでしょうか。
- ぼくと結婚してください。
私はおもちゃ屋さんです。 子供が好きで仕事が楽しいです。 子供たちが一つでも多くの幸せな思い出を作って成長し、精神的に強い良い大人、良い父、善い母になってもらいたいです。 そんなお手伝いが生きがいです。 そんな私は子育てについて、わき役の立場ですが、そろそろ45歳という年齢になって、子供への愛情の主人公、すなわち父になりたいと思い立ちました。 単刀直入に「俺の子供を産め」こんな風に花嫁募集中です。 そもそもこの手の恋人募集は規約違反でしょう。 ただ今回は実験でして、哲学カテゴリーという看板とは違って、実質的にここはオカマバーです。 哲学の猛者であり、同時にオカマの皆さんから、「あなたの子供を産んでもいいわーん」という回答を歓迎いたします。 私を男にしてください。
- 池に落ちて水に濡れずに上がって来られるか?
池に落ちて水に濡れずに上がって来られるか? 水はあります。 水も比喩として 考えることになるとは思います。 これを問います。
- 安らかに、、、、、
なるべく穏やかに死にたいのですが、その為の宗教、生き方、考え方などを教えていただけないでしょうか? 私は、67歳、男です。 特に今、病気を持っているわけではありません。 よろしくお願いいたします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- acrosstakashima
- 回答数8
- あなたは優しい人をどう思いますか?
私はある施設に所属しているのですが その施設内で ある女性に「写真を撮っていいですか?」と聞いたら 「いいですよ」と言って 「はい笑って」と言うと笑ってくれて 「1+1は?」「に~~~^^」 「1個足す1個は?」「にこ~~~^^」と笑ってくれるのです 後で写真にしたら その満面の笑顔!もう顔をくしゃくしゃにして笑ってくれてるのです その時に私は「この笑顔は何だろう?」と思いました。 愛される為に笑い、愛することに目覚め、愛するが故に笑い それが故に愛される。 この人はなんて優しい人なんだろう 日頃の言動もすごく優しいし けして人を裏切らない。こんな優しい人生まれて初めて見た。と思いました。 あなたも優しい人を見た事があるかと思いますが 愛を持ってどこまでも優しい人を どう評価しますか? 仏様、菩薩様と言う言葉もありますが 優しさの価値をどう評価しますか? 優しさというのは慈しみから来るのでしょうか? 慈愛の人をどう思いますか? 僕は慈愛をひとつの悟りだと感じました。 僕は他にも優しい人を知っていますが 必ずしも幸せになてるとは限りません 優しさはお金や法律ではないのです サービスや喜びだけでもありません 愛 そうです 愛です。愛の人です。 お金では評価されない その様な愛をどう評価しますか? 世の中はお金や競争や能力や権力で成り立っているのではなく 愛で成り立っているのではないかと どんな人間でも愛する人には優しくなれる。という愛を 我々はもっと評価していいのではないでしょうか 森進一の「おふくろさん」の「あなたのあなたの真実・・・」 と言うのは「真実の愛」を言っているのではないでしょうか? 真実という言葉が 愛を表しているという事自体。 愛は世界を救う。核兵器や抑止力やテロや戦争では何も解決しない 世界の問題を解決するのは 愛だ と感じました。 みなさん 愛について今一度見直してみませんか? ノーベル平和賞のマララさんの勇気、信念を支えているのも マザーテレサをあそこまで働かせ、評価させたのも 愛ではないでしょうか? 倫理の基礎となる愛、隣人愛。慈悲、アガペー。 愛は世界を救うのではないかと マジで思った今日でした。 どう思いますか?現実は?